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【短編小説】しおからい/アンチ家系ラーメン文学 15,482字

 今も覚えているのは太陽が沈む前の一瞬のきらめき。水平線に一筋、黄金色の光がパッと眩き、そして火を消すように夜を告げる。田んぼだらけの田舎で暮らしていた頃、空は広く、体全体がまるっと暗い藍色に飲み込まれる瞬間が好きだった。
 大学を卒業して、もう何年経つだろう。上京したのは大学進学の時だから、東京暮らしももう慣れたもの。それでも丸の内地上三十階の労働監獄に一日十二時間くらい身体拘束されていると、太陽が今日も地球の裏っ側に沈んでいく瞬間を見て味わうような心の余裕などあるはずもない。気がついたら今日も残すところあと三時間。発車ぎりぎりで地下鉄に乗り込むことになった。帰宅ラッシュも過ぎたのに車内は鬱陶しいほど人が多い。少し動けば隣の人に触れてしまう程度。
 私が吊り革にゾンビみたいにぶら下がっていると、目の前でだらしなく座る細身のおじさんの禿頭が油ぎってテラテラと白く光っている。あまりに眩しくて、自分がお昼から、オフィスグリコのキャラメル三粒しか食べていない事を思い出す。一度空腹を認識してしまうと、もう止まらない。今の血糖値いくつだろう。過去最低なんじゃないかって思うほど、糖分が不足している。キャラメルはオフィスのデスクに置いてきてしまった。私は何だか悲しくなって、電車の天井を仰ぎながらため息を大きく一つ吐き切った。半時間ほど空腹に耐える。
 帰ったら何食べよう。冷蔵庫に中に何が入っていたっけ。多分空っぽ。今週は残業しすぎて買い物に行けていない。コンビニで何か温かいものを買うしかないのかな。何を食べたいとか具体的な欲求は湧き起こらないまま、思考能力は鈍って空っぽの胃が電車に揺れる。次で降りると意識すると、体の緊張が少しほぐれるようだった。電車は徐々に速度を落とし、金属音を上げて停車した。毎日乗っていると、あとどれくらいで到着するかなんて感覚で分かるようになる。
 私の住む街は再開発の影響でマンションが夏の雑草みたいに増えてしまい、その結果降車する人が多い。私がいた車両は、半分くらいの人間が一緒に降りた。たった一つしかない改札に許容量以上の人が流れ込むので、当然人間渋滞が発生する。私は空腹でフラフラした頭を支えながら、無秩序な人の濁流に巻き込まれる。改札に押し流されたら、ようやく右に左に人が散っていき、私もヨロヨロと自由意志で歩き出す。駅から外に出ると秋の空気がひんやりと肌につき、見上げる空は暗くて、街灯の光が煩かった。
 コンビニに寄ってから帰ろう。駅のローターリーに向かって歩いて行くと、ガードレールに沿って行列ができているのを見た。初めて見る光景ではない。一年ほど前に新しいラーメン屋がオープンして話題になっていた。しばらく行列ができていたのは認識していたのだけれども、まだ飽きられず人が並んでいるのだと感心する。この道を通るたびに、お店からはみ出て十人単位で人が並んでいるという印象だ。夜も遅くなってきたからか今は少し少なめ。並んでいる人数を数えると八人。ラーメン屋は回転が速いから、そんなに待たないのではと思った。その瞬間に、急に胃がラーメンにセットされる。
 そんなにラーメンが好きというわけではない。ただ、絶えない行列を作るこのラーメン屋に突然興味が湧いて、空しいこのお腹に超絶美味かもしれない料理を迎え入れたくなっただけ。これだけ人が並んでいるなら、きっと美味しいに違いない。ラーメン屋のガラス扉に目を向けると、「食券を買ってから並んでください」と黒のマジックで下手っぴな筆跡で書かれた貼り紙があったので店に入る。
 店はL字型のカウンター席のみで、十席程度の容量。客席は若い男の子と中年の男性が半々くらいで満たされていて、みんなラーメンを食べる事に集中している。カウンターの奥には職人が二人。マスターらしき筋肉隆々の髭を生やした強そうな中年男性。もう一人は、元ギャルっぽい若い女の子でアシスタントっぽい。カウンターの外には影が薄いノッポのヒョロリとした若い男の子。一生懸命声を出していて、私の姿を目視すると「らっしゃいやせぇ!」と吠えた。店の中はラーメンを茹でるお湯のせいか湿度が高く感じられ、一生懸命ラーメンを食らう人たちの熱気も助けて全体的に暑苦しい。若い、とも言えないアラサー女子が一人とても場違いな気がして券売機の前で怯んでしまう。このまま逃げてしまおうか。別にラーメンを食べるだけなのに、何を恐れる必要があるというのかしら。せっかく店に入ったのに何もしないで去るというのも、不審者っぽいし気まずい感じがする。店員から早くしろと言われているような気がして、追い込まれる気分でメニューを確認し、千円札の皺を伸ばしてから券売機に吸い込ませ、一番スタンダートだと思われる「ラーメン」のボタンを押す。一杯六百五十円。安い。
 食券はこのまま持っていて良いのかしら、と迷いながらも店の外に出て最後尾に並んだ。並んでいる人たちはガードレールに座ったり、寄っかかったりして片手にスマホを握って白く光る画面を見つめている。みんなスマホで何を見ているのかしら。情報中毒者たちは常に頭に情報を入れないと落ち着かないのよね。口に飴玉をいつも入れておかないとダメ見たいな、空白を嫌うのが現代人なのかも。そういう私も電池の残りが少ないスマホを手に取ってSNSを開く。だって退屈なんだもの。
 私がフォローしているアカウントはもっぱら猫。猫が癒し。可愛い猫の写真、動画、漫画。猫を愛する人たちが毎日新しい猫を全世界に公開してくれる。スケートボードに長毛種の白い猫がスピードに乗って他の猫に追突し、お互いに猫パンチを炸裂させる動画を十回くらい繰り返し再生し、顔がにやける。二匹の猫が障子を突き破り、障子の枠にバランスよく座ってドヤ顔を決め込んでいる写真にいいねボタンを押す。セロトニンがどばどば流れ出す。工事現場のヘルメットを被った灰色の猫がフォークリフトで積み上げられたパレットの上に乗っかり電球を換えようとしているイラストが目に飛び込みヒヤッとする。ダメなやつだ、これは。スクロール、スクロール。スマホのガラス画面の指なぞり、今日の猫を追っていく。
 ヒョロ長の若い男の子店員が店の外に出てきて、私の側に寄って来た。「食券良いですか?」と言うので、どこに持っていたっけ? と慌てながらジャケットのポケットをまさぐり、少し皺の入った食券を差し出す。
「麺の硬さは?」
「えッ、あ、うーん、そうですね、じゃあ普通で」
「ご飯つけますか?」
「ご飯? いえ、つけません」
「ご飯は無料ですよ」
「え! でも、いいです。いりません」
 想定外の質問に戸惑いながら、心臓が少しドキドキした。店員は私の後ろに並んでいる人に視線を移し、同じ質問を繰り返していた。客の回転は早く、私の後ろの四、五人から新たに食券を回収すると店から三人の客が出てきて、ほどなくして列が進む。私は十五分ほどで最前列に立って、夜道に白く輝くラーメン屋を見つめていた。店のガラス扉にはラーメンウォーカーに掲載されたと誇らしげにお知らせがあった。カウンターに座る人たちは一心不乱に麺を啜っている。私の後ろの列を見ると十人が並んでおり、行列は絶えない様子で、次に自分が呼ばれると思うと、不思議な胸のときめきがあった。
「お待たせしました! こちら真ん中の空いている席にどうぞ」
 と声がかかり、足を踏み入れる。落ち着かず、キョロキョロと店内を見渡すと『お水はセルフサービスです』と張り紙があったのでセルフのウォーターサーバーを見つけ、コップに水を注ぐ。コップの棚の横に紙エプロンがあるので、あったほうが良いのかと直感し思わず手に取る。案内された席はコロナ対策で透明のプラスチック板が隣客との境界に設置されており、その間隔が狭苦しく感じられる。食べ終わったら食器をカウンターの上に置いてください、と書いてある張り紙を確認した。メッセージの多い店だ。
「まもなくお持ちしますんで」
 カウンターの中にいる若い女の子から声をかけられたので、おもむろに紙エプロンを首にかけた。お腹の底から、きゅるる、と情けない音が聞こえてきた。我慢できないほどの空腹を体が知らせていた。醤油、豚骨、ニンニクの香りが鼻腔を撫ぜて、食欲が俄然と湧く。準備万端。
「はい、どうぞ!」
 と目の前にラーメン。カウンターから黒いドンブリを両手で受け取り、テーブルの上に置く。少々白く濁った茶色のスープ。チャーシュー一枚。茹でたほうれん草、ひとつまみ。シナチク四本。焼き海苔が二枚。まずは一口と、箸で麺を掬う。太めの縮れ麺。白い湯気がホワホワとしていて、猫舌なので念入りに息を吹きかけ、レンゲに麺を着陸させる。そして私の口に目がけて離陸。麺を吸い込む。豚骨出汁の旨味が口に広がり、麺を噛み締め、炭水化物を摂取する喜びに脳が痺れる。小麦の美味さに目が覚め、ぷちり、ぷちりと麺が口の中で弾んだ。ごくりと飲み込むと生き返った心地がした。それと同時に、喉越しに残る余韻は塩分だった。
 味が濃い。濃厚な豚骨醤油スープ。ほっぺたを平手でバシンと叩かれたくらいの衝撃で、私は強烈な醤油の塩気を受け止めた。
「ご飯いりますか? ご飯無料ですよ」と食券を回収されるときに聞かれたセリフが頭で反響する。周りを見渡すと、全員がラーメンのドンブリの他にご飯のお茶碗を持っていた。 
「ご飯、おかわり自由です。いかがですか〜」
 店の外と中を行き来しているヒョロ長の男子店員がアナウンスしている。ここのラーメンはご飯と一緒に食べる前提なのでは。ご飯と一緒に食べないと美味しくないのではと理解した時に、私は手を上げて店員を呼んだ。すみません、ご飯をください、と。店員は「わかりました、ご飯お願いしまーす」と声を張り上げて、お椀一杯のご飯が私のもとにすぐ届いた。
 張り紙の多い店である。手元のご飯に手を伸ばしたとき、新たな張り紙を見つけた。ここのラーメン屋の美味しい食べ方というマニュアルだった。今気がついて良かった。私は店からの一番重要らしきメッセージに食いついた。せっかく来たのだから一番美味しい食べ方で頂きたい。
『ラーメンはご飯と美味しく頂くために、濃いめになっております』
 やっぱりそうか。ご飯を追加注文したのは正解だったようだ。
『はじめに終日煮込んだ特製豚骨スープをレンゲで一杯』
 さっきスープは飲んだ。濃くてビックリした。
『ご飯にきゅうりの漬物を添えて、たっぷりとスープを染み込ませた海苔を巻いて召し上がれ』
 自分の手元を見ると、きゅうりの漬物らしきものは見当たらず、カウンターに目をやるとドンブリ一杯に入ったキュウリの漬物を見つけた。私は立ち上がって、不器用にキュウリの漬物を小さなトングで掴み、ご飯に盛った。どれくらいが適量なのか分からないので、小さなトング三つまみくらいにしておいた。海苔をスープにたっぷりと浸し、ご飯とキュウリの漬物を巻いて口に放り込む。
 海苔の香ばしさ、スープの旨味、ご飯の優しさ、パリポリと歯応えのあるキュウリの漬物。美味いのかもしれない。私は残り一枚しかない海苔をもう一度ラーメンの入ったドンブリから箸で掬い出し、またスープにたっぷり浸してから熱々のご飯とキュウリの漬物を巻いて食べた。二口目を食べてしまうと、もうなくなってしまったという寂しさに、ほとほと残念な気持ちになった。そして口内に残る、醤油の余韻。水を飲み込む。
 次にマニュアルに目を向けると、『一味の醤油漬けを少々ご飯に乗っけて、レンゲ半杯のスープをかけてガッツリ召し上がれ』と書いてあるので、手元にあった一味の醤油漬けを手に取り、少々の程度が分からないのでスプーン一杯程をご飯に乗せてスープをかけ、口にご飯をかきこんでみる。
 辛い。
 一味の醤油漬けって、唐辛子の醤油漬けのことか。一味唐辛子のことか。舌が痺れて、喉の奥が熱くなる。私は水をガブガブ飲んだ。何をやっているんだろう。『辛いラーメンがお好きな方はラーメンにも』とあるので、ご飯に乗せすぎた分をラーメンのスープに溶かし込む。これで少しは分散するだろう。
『ニンニクと胡椒をお好みでラーメンに入れ、麺と焼豚をオカズにして、キュウリの漬物を添えたご飯をガッッツリ召し上がれ』
 ラーメンはオカズなんだ。私は新しいカルチャーを目の当たりにして、そのカルチャーに馴染まない自分を発見した。ラーメンはラーメン単体で食べる方が好きなのよ。でも、ここんちのスープは濃いから、ご飯と一緒に食べた方が美味しいのかしら。私は勧められるがままにラーメンにニンニクをスプーン一杯、胡椒を三振くらいしてから麺をご飯にワンバンさせ麺を啜ったり、麺と一緒にご飯を食らったりした。確かにご飯と食べた方が私には強烈だった塩分が中和されるような気がする。チャーシューに齧り付き、またご飯を口に頬張る。
 ラーメンをおかずにご飯を食べていると、あっという間に胃袋は膨れて、あまりにご飯が進むので麺が残り半分もあるのにご飯がなくなってしまった。ご飯、おかわり自由とあるのはこういうことかと腑に落ちるが、もうお腹は一杯に近い。残してしまうのも大変失礼な気がして、私は残りの麺の塩気に顔を歪めながら啜っていく。ほうれん草の甘みがほんの救い。
「ごちそうさまでした! また来ます!」
 隣の黒いスーツの中年男性が立ち上がり、そう言った。満足そうな笑顔で、心から美味だったと言っているようだった。私の味覚がおかしいのだろうか。おそらく今の時間に並んでいる人は皆リピーターで、ここの特製濃厚豚骨醤油スープの中毒者なのだろう。お残しはしたくない義務感で胃の中に麺を全て納めた私は、美味しいはずのスープをレンゲに入れて、一口味を確かめた。旨味五割、塩気五割。もう一口スープを飲んでみる。ドロッとした豚骨出汁、醤油、ニンニクの香り、そしてガツンと来る塩味。一呼吸入れるために水をがぶ飲みして塩分を散らすと口の中に豚骨の旨味が残る。最後にもう一口スープの味を確かめようとするが、いや、もうやめておこう。私はレンゲをドンブリの中に静かに置いた。コップの水を飲み干し、脳天をぶち抜いた塩分を和らげる。どうかしてるぜ。
 私は心底疲れた顔でラーメンのドンブリとご飯のお茶碗、コップをカウンターに置き、「ごちそうさまでした」と店員に聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。美味しかったですとは言えなかった。また来ますとも言えなかった。ボロボロに負けた気分だった。スープに浸した海苔を熱々のご飯に絡めて、キュウリの漬物と食べた、あの一口、二口は美味しかったような気がするが、それも幻となって暗い醤油色の中に消えていった。

 細胞の一つ一つが塩漬けにされて、浸透圧で溶けてしまうナメクジみたいに、私はノロノロと駅から徒歩七分の自宅アパートへと戻った。つまらぬもので胃を満たしてしまった。お腹が一杯なはずなのに、心はとってもエンプティーである。殊に超絶美味なラーメンを期待していたので、思い描いていた夢を膨らませた分の虚しさで胸焼けがした。と言っても、口直しに何か他の食べ物を求めようという気持ちも湧いてこない。ラーメンをおかずにしたライスで胃袋に余計なスペースはない。ただ、水が欲しかった。
 1DK、三十六平米。家賃は管理費込みで七万円。築二十年、小さな木造アパートの二階の角部屋。学生時代は六畳一間の1Kに住んでいたが、ある程度稼げるようになって、せめてバスとトイレが別で、できれば広い部屋を求めて五年くらい前に引っ越してきた。職場の大手町から一本でいけて、家賃が安いところ探していたら、この街に巡り合った。
 私だけのお城、のはずだった。半同棲というのか、恋人の亮介が少しずつ持ち込んだ荷物が今は山となって私の陣地を侵食し、七畳もあるはずのダイニングキッチンは、もはや亮介の巣になっていた。私が読まない小説、漫画が山積みされ、任天堂スイッチでリングフィットをプレイしたまま防音マットが放置され、男物の服が散乱している。片付けても片付けても服を脱ぎっぱなしにして散らかされる。家に帰っても、私の家という安心感はいつの間にかなくなってしまった。惚れた者の負けなのよね。
 冷蔵庫を開けて、水出し麦茶を取り出す。朝出る時に満杯にしていたはずなのに、コップ半杯ほどしか残っていない。亮介以外、犯人はいない。中途半端に残すくらいなら全部飲んで新しい麦茶をセットして欲しいと常々思う。ほんの申し訳程度の冷えた麦茶を流し込み、それでも水分が足らないので水道水を継ぎ足し飲み込む。
「おかえり」
 浴室から全裸にバスタオルを肩に引っ掛けた亮介が出てきた。昨日泊まって、今日も泊まる気だ。亮介にはうっかり鍵を預けてしまったので、自由に私の家を利用することができる。私の家の方が彼の職場から近いので、多い時には週四くらいの頻度で私の家に泊まっている。部屋が散らかっていたこと、私のための麦茶がコップ半杯しかなかったイライラの燻火も、彼の顔を見てしまうと嬉しくなって嘘みたいに消えてしまった。私はまだ彼に恋している。
 私の家の鍵を預ければ亮介のアパートの鍵をもらえると思っていたのだけれども、鍵を託してくれるどころか、彼のアパートにすら入れてもらえない。理由は汚いからとても招待できないからだそうで。光熱費も家賃も、食費も一切払ってくれないけど、私は彼のことが好きみたい。付き合って三年目になる。
 亮介が散らかしたダイニングを簡単に片付け、彼が入った後の残り湯に入り、湯船でメイクを落とした。クレンジングオイルで両目のアイシャドウとマスカラを溶かし、顔全体を指の腹でクルクルと円を描くようにマッサージする。適当なところでお湯を出して、顔を洗い流す。湯船に深く沈み込んで、仰向けになりながら潜水する。鼻に水が入らないように鼻を片手でつまみ、口からブクブクと泡を吐き出す音を聞いた。外から見たら、まるで間抜けな姿。溺れているように見えるかもしれない。実際、私は溺れているのかもしれない。
 いつまでこんな生活を続けているのか、漠然と不案になる。高齢出産のことを考えると、子供を作るならリミットを考えなければならない。半同棲の関係も、もう二年は経過していて、一体亮介は私のことをどう考えているのか。もしかしたら何も考えてないのかもしれない。今の関係が彼には心地よくて、ダラダラと月日を消化しているだけなのかも。私は彼にとって恋人というよりお母さん? おばあちゃんポジションなのかしら。
 水の中で息をゴボゴボと吐くのは好きだ。深呼吸みたいで、長く息を吐き切ると、体に溜まった毒素を搾り出して排出できる感じがするから。息が続かなくなり、お湯から顔を出してはじめに吸い込む空気が美味しい。
 ドライヤーで髪の毛を乾かし、ダイニングに戻ると亮介の気配はなく、どうやら寝室のベッドで寝っ転がっているらしかった。私は歯を磨き、オールインワンの保湿ゲルを顔に塗り塗りして寝る前の儀式を終わらせる。小さなシミが顔にできていて、もう若くないのねと、勝手に自分にガッカリする。それでも寝室で亮介が待っていると思うと、心が少しときめくのであった。
 亮介はダブルベッドの上で、スマホをいじっていた。何見てんの? と聞くと、ツイッター、と私と目も合わせず呟く。こいつも情報中毒だ。ツイッターなんて、大人のおしゃぶりみたいなものよね。人肌が恋しくなった私は、彼の背中に抱きついてみた。
「え、なに? ちょっと臭いんだけど」
 亮介は私の手を振り払って、ベッドの端に逃げて行った。
「ちゃんと歯、磨いたけど」
「いや、臭いって。超ニンニク臭。餃子でも食べてきたの?」
 私は頭を横に振って、「ラーメンだよ。駅前でいつも行列ができているところ」と申し訳なさそうに答えた。
「マジかよ、最悪だよ」
「なんで?」
「いや、別に」
 ご機嫌を損ねた彼は、私に背を向けて寝っ転がりながらスマホを見つめ続けた。彼のため息が私の心のヒットポイントを大きく削った。ちょっと愛情が欲しかっただけなのに、ニンニク臭い女は害虫のように避けられるものなのか。良いじゃん、ラーメンくらい食べたって。臭くたって愛してくれても良いじゃない。私は悲しくなりながら彼に背をむけ、背中合わせになって体を横にした。
 彼の温もりを背中で感じながら、瞼で蛍光灯の白い光を受け止める。もう暗くして寝たい。人工的な光は暴力だ。息を細く吐いて、ため息を感じさせないよう気を遣う。ため息つかれると、疲れちゃうもんね。なんで息を吐くのにも神経を使っているんだろう。今日が金曜日で良かった。それがせめてもの救い。電気をつけたまま寝ると疲れが残るんだけど、亮介の気が済んだら勝手に消灯してくれるだろうと考えながら呼吸を整える。口から息を吐く。鼻から吸う。それを繰り返す。胃が重い。ムワッとニンニクの臭いが喉奥から込み上げてくる。さっきまで気にならなかった自分の悪臭に驚いた。
 一度気になると自分のニンニク臭に取り憑かれて、どこまでも逃げられない気がした。ニンニク、スプーン一杯しか入れなかったはずなのに凄いな。歯を磨いただけでは足らなかったのだと布団から抜け出して、洗面台でたまにしか使わないマウスウォッシュを棚から取り出し、口に含む。クチュクチュと口全体を洗い、泡だらけになった青い液体を吐き出す。ミントの香りと清涼感でスッキリしたような気がするけども、やはりニンニクの存在感は胃の奥から消せなかった。
「もう、寝ようよ。電気消して良い?」
 寝室に戻り、私は亮介に言った。ここは私の家なんだから、私のペースに合わせるべきなんじゃない? という態度で接してしまう。彼は無言でスマホをベッドの下に投げつけ、布団にくるまって私に背中を見せた。学校の先生に注意されて不貞腐れる小学生みたい。一人で寝た方が気楽で良かったかも。何はともあれ、これで一日が終わる。私は蛍光灯のスイッチを切って、暗くなったベッドで自分の居場所を探す。枕に頭を沈め、羽毛布団を手繰り寄せて、就寝の準備ができると窓の外からコオロギの声が聞こえた。
「どこのラーメン屋で食べたん?」
 亮介の声が暗闇に浮かんだ。機嫌が悪いわけではない、ニュートラルな響き。まともに話しかけられた事が嬉しくて、体からニンニク臭が消えた気分になる。
「駅前の、ローターリーのところの、いつも行列ができているところ」
「あれ並んだの? 昼間とか、前数えたけど三十人とか並んでるよね。ラーメンじゃなきゃ、もっと早く帰ってこれたんじゃないの?」
「今日は八人くらいしか並んでなかったのよ」
「それでも良く並ぶわ」
「興味に負けた」
「まあ、俺もちょっと気になってた。でも並ぶ気が起きなくてさ」
「並ばなくて良いよ。私、もう行かないから」
「まずかったん?」
 亮介が嬉しそうに聞いてくる。
「まずかったってわけじゃなくて、好みじゃなかった」
「そういうの、まずいっていうんじゃないの?」
「まずいというより、しょっぱかった」
「何言ってんだ、ラーメンはしおからいものだろ」
「ご飯をおかずにする前提のラーメンでさ、ご飯と一緒に食べると美味しい的な、そういうジャンルだったのよ」
「ああ、そういうのね。最近、流行ってる感じするよね」
 亮介はそう言うと私の側に転がってきて、私を抱き寄せた。スキンシップが嬉しい。
「だめだー、くせえわー」
 ヒットアンドアウエイで亮介は抱き寄せた手を振り解いて、背中だけ私に預けて顔を背けた。喜びが虚しさに反転する。それでも自分に近づいてきて、背中だけでも自分に触れているのが愛情の表れではと感じ、悪くはないと思ってしまう。
「ラーメンって言ったらさ、あそこだよね。大学の側にあったやつ。良くみんなで行ったとこ」
 亮介は親しみを込めて私に話しかける。懐かしい、大学時代の話。私たちは大学のバドミントン部で知り合って、長いこと友達だった。定期的な部活同期の飲み会で落ち合い、お互いたまたま恋人がいないタイミングが重なって、じゃあ俺ら付き合っちゃう? みたいな、そんなノリで交際が始まった。昔みんなで食べた青春のラーメンの味。体育館でしこたま汗をかいて、シャワーを浴びて、自転車で集合して、ラーメンを食べに行った遠い昔の情景が蘇る。
「懐かしい。私が食べてきたラーメンで、一番美味しかったのはあそこかも」
「美味かったよな! 俺もあそこが一番美味いと思うわ」
「細麺の豚骨がいいよね」
「俺、トッピングでネギたっぷりつけて食べんのか好きだったわ」
「あれ美味しかったよね」
 あの時食べた白い豚骨ラーメンは、トロッとしてクリーミーで、脂と旨味と塩分のバランスが絶妙で、体に悪いと思っても、ついスープを飲んでしまう魔力のある美味しさだった。デフォルトのトッピングで乗っている松の実がまた良いアクセントで、ラーメンを芸術的に完成させていた。コッテリしているのにしつこくない。塩辛さも感じさせない。私にとって完璧なラーメンだ。美味しい思い出は、気持ちを幸せにさせる。私に背を向けていた亮介は半回転して、私の横に仰向けになって、私の手を握った。完璧な豚骨ラーメンの味を思い浮かべながら亮介の手の温もりを感じ、幸せだった。
 すると私の手は亮介に誘導されるがままに移動し、硬い塊の上で止まった。じんわりと温かい。涼介の股間である。幸せ気分がぶち壊れる。おいおい何してんだこいつは。今の会話のどこに発情する要素があったんだ。
「キスはするなよ」
 もうセックスする前提の言葉にビックリする。まだ同意したつもりはない。疲れてるんだけどな。そもそもキスするなって何よ。臭いから嫌なんだろうけど、それにしても悲しい言葉だ。せっかく幸せな気持ちになっていたのに。鼻から息を吸い込み、ため息を押し殺しながら口から息を細く細く吐いていく。私は怒っているのかもしれない。怒りを、悲しみを察せられないように、気配を殺した。生温かく、尖った男の象徴は私の右手に収まり、じっと私に愛撫されるのを待っていた。
 求めてくれるのは嬉しい。
 それは本当の気持ち。でも求め方が気に入らない。自分の気持ちを正直に打ち明けた方が良いのかしら。言ったら言ったで機嫌を損ねてしまいそうな気がする。求めてくれているのだから、期待に応えてあげて抱き合う方が幸せなのかも。私はゆっくりと彼自身を撫でてみた。彼を撫でるのは愛しさから。それともだだの依存?
 パジャマの布越しに亮介が喜ぶ場所を柔らかく触れていく。触れれば触れるほど血液が集まってきて硬くなる。愛されるよりも愛したいんだマジで、そんな歌があったな。私は彼を愛しているんだと思う。ほら、こんなに触ってあげてる。彼の興奮した息遣いが弾んで熱を帯びた。桃色吐息。気分が乗らなかったはずなのに、自分の指で、舌で、彼が気持ち良くなっていると思うとまんざら悪い気もしない。もっと気持ち良くなってもらいたいと、お姫様みたいにベッドで佇む彼に愛を注ぐ。完璧なエスコート。もう二人とも丸裸。私の体も準備万端。
 サイドテーブルの引き出しから避妊具を取り出し、彼に装着させ、仰向けになって私を待つ彼の上から私自身を貫いた。私のど真ん中が彼で満たされている。彼を見下ろすと、彼は目を瞑って私の腰に両手で触れていた。自分の快楽に集中していて、私の事なんて、本当に何も考えてないのね。そう思うと寂しくなった。私はロデオガールさながら腰を振る。手綱を握れている気はしない。私は彼に振り回されて、空回っているだけのような気がする。彼に覆いかぶさり、ぎゅっと胸板にしがみつきたいけれど、臭いと突き放されるのは目に見えた未来なので、上半身を彼の腰に対して垂直にキープしながら腰を上下に振り続ける。時々自分の気持ち良いところが刺激されるけれども、ギブしてばかりでテイクがない交わりに、侘しさで胸が苦しくなった。
 ねえ、ちょっとは愛してよ。
 私は彼に快楽を与えるだけの、勝手に都合よく動いてくれるアンドロイドみたい。今日がニンニク臭かったから、たまたまこんな侘しいセックスになったわけじゃない。最近は私が全面的に奉仕するばかりの、ひとり騎乗位の繰り返しだ。情熱的に抱かれるなんてことは、ここ一年ない。セックスレスよりマシ? そもそもこれはセックスと言えるものなのかしら。彼を慰めるためだけの、甘やかしサービス。
 コオロギが鳴く声が窓の外から聞こえ、私は暗闇の中、息を切らしながら騎乗する。亮介の表情は暗くて見えないけれども、絶頂に近いことは息遣いで分かった。呼吸が乱れ、悦びに耽る独り言のような唸り声。私は腹筋が痛くなって、それでも腰を彼に擦り付け、早く終われば良いのにと心の中で小さく呟いた。

 金木犀の香りを聞くと、自分の誕生日が近いことを知らされている気になる。仕事上がりの夜道を自宅のアパートに向かって歩いていた時に気がついた。住宅街には金木犀を植えている家がまばらにあって、小さな秋を知らせてくれる。
 もう若くない。年を重ねることが嬉しくなくなったのは、二十五を過ぎてからかな。一年一年老いていく事に恐怖を感じていた。
 今年の誕生日に、また何も祝ってくれなかったら、いよいよ別れよう。
 私はそう心に決めていた。彼の誕生日には、彼が欲しがった五万、六万円の服を毎年プレゼントした。私としてはかなり奮発した方だし、服を喜んで着てくれる姿が愛らしく、後悔はしていない。嬉しそうな顔を見せてくれることは、私にとって何よりの喜びだった。見返りを求めていた訳ではないが、やはり自分が与えたものと同等の愛情は期待していた。彼が私に与えたものとは。
 交際して初めての私の誕生日は忘れられ、二ヶ月した後に私から催促してバッグを一緒に買う予定だったが、当日待ち合わせに大遅刻された上に逆ギレ、別れる別れないの大騒動に発展し、仲直りしたはずなのに私の手元にバッグは届かなかった。彼が遅刻したので、私がその間にバッグを選んでおり、彼が到着した瞬間に「これを買って欲しい」と言ったのが、どういうわけか彼の逆鱗に触れたのだった。
 次の年、私はロボット掃除機を欲しがった。この時も誕生日当日は華麗にスキップされ、季節が秋から冬へと変わる頃になって私が催促して家電量販店に彼を強制的に連れ込んで買わせた記憶がある。この時、彼は店員に対して高圧的な態度で値切り交渉を行い、誕生日プレゼントを値切られる気分は存外最悪で、せっかく買ってもらったのに全然嬉しくはなかった。
 そして今年。三度目の正直。二度あることは三度ある。もう私は期待しない方が良いのだろうか。いつか亮介が変わってくれることを望んできたけれども、変わらないんじゃないかと諦めてもいる。それでも淡い期待を寄せてしまうのだから、恋心とは厄介なものだと思う。
 帰宅すると亮介の気配はなかった。先週末一緒に過ごしてから、今週は珍しく私の家に泊まることなく一週間が過ぎようとしていた。久しぶりに一人きりで過ごす日々は開放感もあって、気楽で良かった。亮介のいない間に彼が散らかした部屋を整理し、少しでも私の陣地を増やすことができた。誰もいない、私だけの空間で、ひとりベッドにダイブして四肢を伸ばした。するとサイドテーブルに置いたスマホがブルっと震えて、亮介からのLINEメッセージが届いていた。
『明日お昼食べに行こうぜ。誕生日だから俺の奢りだ』
 胸がトクンと跳ね上がる。私の誕生日を覚えていたことがまず嬉しかった。また私の誕生日に何かしてくれる気持ちがあることが芽生えたのだと思うと、胸が温かくなる心地がした。
『やった! ありがとう』
 と返信する。
『車で迎えに行くから、十時に家で待ってて』
『車で行くの?』
『レンタカー予約しました。サプライズ仕掛けてます』
 亮介から猫がにやけているスタンプが続け様に送信され、私は『楽しみにしています』と打ち込んだ。
 もしかしてプロポーズ? サプライズの一言に、諦めていた結婚の夢が膨らむ。結婚を意識して、亮介も変わってくれるのかしら。わざわざレンタカーまで手配して、遠出して、一体どこでランチをご馳走してくれるのかしら。胸はときめき、明日が来るのが待ちきれない気分。
 
 誕生日デートには白いレースのワンピースを抜擢。オンラインショップで一目惚れしてポチったけれども、着る機会がなかなか見つけられず、クローゼットの肥やしになっていた服。デートの時に着ようと思っていたのだけれども、デートらしいデートの機会は巡らず、亮介との逢瀬は原則私のアパートが現場となっていた。たまに外に飲みに行くこともあったけれど、それも数える程度。そんなことを三年近くも続けていたなんて。お互い仕事が忙しいというのは、きっと言い訳にならないのだろう。
 車を借りて、遠出をする。ちょっとした旅行じゃないの。これまで一緒に旅に出たことがなかったから、小旅行の甘い響きに小躍りする気分で、メイクも普段仕事では使わない明るいピンク系で盛ってみる。窓の外を見れば秋の快晴で陽の光が柔らかく、良いドライブ日和になりそうだと期待した。
 時刻は十時半。約束の十時から三十分超過しており、まだ亮介から連絡はない。遅刻はいつものことなので、あまり気にはならないけれども、期待させておいてまさかのキャンセル? という不安がわずかによぎった。亮介にLINEで連絡しようとした矢先に、『あと五分』と連絡が来る。ホッとすると同時に、彼から連絡が来たのが嬉しくて、ルンと心が弾んだ。
 自宅アパートを出て彼の車を待つ。金木犀の香りが昨日より一段と濃く感じられ、今が香りのピークかしらと考えた。風もなく、空はみずいろでのっぺりとして雲は見つけられなかった。日差しは真っ直ぐで、私は眩しさに目を細めた。とっても良い日。グレーのステーションワゴンが速度を落として私の側に停まった。亮介が運転席で手を振っている。笑顔だ。
「誕生日おめでとう」
 私が助手席のドアを開けると、開口一番そう言った。幸せだった。私の誕生日を素直に祝ってくれたのは、これが初めてだった。
「そんなに気合い入れなくても良いのに」
「だって誕生日デートだよ?」
「あ、まあ、うん。可愛い、可愛い」
 亮介はそう照れながら言った。好きな人に可愛いと言われるとテンションが上がる。
「どこ連れてってくれるの?」
「それは着くまでのお楽しみかな。とりあえず西東京に行く」
「西? 懐かしいな、大学卒業して引っ越してから全然行ってないかも」
 西東京は私たちが卒業した大学がある。私たちが出会った場所だ。ここは東東京、車で何時間かかるものなのかしら。
「電車で行っても良かったんだけど、俺もたまには車の運転しなきゃと思ってさ」
「亮介にしては珍しいから、正直ビビってる」
「ビビんなよ。いつもお世話になってるんで、たまには返すもの返さないと振られちゃうかなって思ったんだよ」
 こんな一言で、いつもの身勝手さが完全にチャラになってしまうような気がしてしまった。車は少し混雑しており、東京を横断する大通りを停まったり進んだりして目的地に近づいて行った。車の中では、大学時代の思い出話に花が咲いた。
「本当はさ、学生の頃から亮介のこと、結構好きだったんだよね」
 私は本音を思わずこぼした。
「全然そんなそぶりなかったじゃん。気が付かなかったわ」
「だって、亮介、学生の時は彼女いつもいたじゃない」
「女に困ったことはなかったぜ」
 亮介が誇らしげに言った。東八道路に入ると完全に私の記憶にある西東京で、懐かしさが込み上げる。学生時代に住んでいた街だ。道沿いにあるドンキ・ホーテによく自転車で行ったとか、ネットカフェに泊まっていた友人がいたとか、あのカドの店にはジャンプが早売りしていて土曜日に買いに行っていたとか、二人で懐かしさを共有する。亮介はスマホのナビを見ながら、なるほど、こうやって行くのねと呟いていた。車は一度大通りから交差点を曲がり、小さな道をぐるりと回って行った。母校の裏門の側を通り、「この門から出て、みんなでラーメン食べに行ったね」と私は亮介に呟く。「懐かしいだろ?」と彼は含み笑いをした。昔、部活のみんなで行った、私が世界で一番美味しいと思うラーメン屋さんの前を過ぎ去ると、車は速度を落とし左折して細い道に入った。亮介は戸惑いながら運転しているようで、右、左をキョロキョロとしている。「あ、あった、あった。駐車場」と言って、車を停める体制に入る。
 まさか。
 車から出ると、ラーメン屋の駐車場らしい看板が目についた。私は表情が固まり、目を見開いて、口を真一文字に結んで亮介の方を見る。亮介は私の手を握り、「びっくりした?」と嬉しそうである。恋人繋ぎをした手を柔らかく振りながら、二人で思い出のラーメン屋に向かって歩いて行った。私は思考が完全に停止して、「え、どうして?」と間抜けな返答しかできなかった。
「いや、だってお前、行きたそうにしてたじゃん」
 そうだっけ? 確かに話題にはしたけど、行きたいとは一言も言っていない。
「俺も懐かしくて、なんかすげえ食いたくなってさ、誕生日だし、これは行くしかねえって思ったんだよ」
 お前が食べたかっただけじゃないのか。と心の中で全力ツッコミをしながら、私は「そっかあ、ありがとう」と乾いた笑顔で答えた。なんでそうなる。誕生日にラーメンって、千円くらいだろ。本気でこれが私の誕生日プレゼントだと思っているのかしら。それとも後からサプライズで何かプレゼントがあるのかしら。いや、期待しちゃいけない。期待したらもっと辛い。今日はもしかしたらプロポーズでもされるのではと、見当違いの甘い夢を抱いていたことを思い出し、夢の泡がバチンと弾けてしおからい現実に落とされた心地がした。
 こんなはずではなかったという気持ちを抱えながら亮介と共にラーメン屋の暖簾をくぐり、券売機の前を見ると
『ライス無料! おかわり自由』
 の文字が目に飛び込んだ。十年前には確かに存在していなかった新たなメッセージが元気よく発信されており、とても眩しかった。

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