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【短編小説】しおからい/アンチ家系ラーメン文学 15,482字

 今も覚えているのは太陽が沈む前の一瞬のきらめき。水平線に一筋、黄金色の光がパッと眩き、そして火を消すように夜を告げる。田んぼだらけの田舎で暮らしていた頃、空は広く、体全体がまるっと暗い藍色に飲み込まれる瞬間が好きだった。
 大学を卒業して、もう何年経つだろう。上京したのは大学進学の時だから、東京暮らしももう慣れたもの。それでも丸の内地上三十階の労働監獄に一日十二時間くらい身体拘束されていると、太陽が今日も地球の裏っ側に沈んでいく瞬間を見て味わうような心の余裕などあるはずもない。気がついたら今日も残すところあと三時間。発車ぎりぎりで地下鉄に乗り込むことになった。帰宅ラッシュも過ぎたのに車内は鬱陶しいほど人が多い。少し動けば隣の人に触れてしまう程度。
 私が吊り革にゾンビみたいにぶら下がっていると、目の前でだらしなく座る細身のおじさんの禿頭が油ぎってテラテラと白く光っている。あまりに眩しくて、自分がお昼から、オフィスグリコのキャラメル三粒しか食べていない事を思い出す。一度空腹を認識してしまうと、もう止まらない。今の血糖値いくつだろう。過去最低なんじゃないかって思うほど、糖分が不足している。キャラメルはオフィスのデスクに置いてきてしまった。私は何だか悲しくなって、電車の天井を仰ぎながらため息を大きく一つ吐き切った。半時間ほど空腹に耐える。
 帰ったら何食べよう。冷蔵庫に中に何が入っていたっけ。多分空っぽ。今週は残業しすぎて買い物に行けていない。コンビニで何か温かいものを買うしかないのかな。何を食べたいとか具体的な欲求は湧き起こらないまま、思考能力は鈍って空っぽの胃が電車に揺れる。次で降りると意識すると、体の緊張が少しほぐれるようだった。電車は徐々に速度を落とし、金属音を上げて停車した。毎日乗っていると、あとどれくらいで到着するかなんて感覚で分かるようになる。
 私の住む街は再開発の影響でマンションが夏の雑草みたいに増えてしまい、その結果降車する人が多い。私がいた車両は、半分くらいの人間が一緒に降りた。たった一つしかない改札に許容量以上の人が流れ込むので、当然人間渋滞が発生する。私は空腹でフラフラした頭を支えながら、無秩序な人の濁流に巻き込まれる。改札に押し流されたら、ようやく右に左に人が散っていき、私もヨロヨロと自由意志で歩き出す。駅から外に出ると秋の空気がひんやりと肌につき、見上げる空は暗くて、街灯の光が煩かった。
 コンビニに寄ってから帰ろう。駅のローターリーに向かって歩いて行くと、ガードレールに沿って行列ができているのを見た。初めて見る光景ではない。一年ほど前に新しいラーメン屋がオープンして話題になっていた。しばらく行列ができていたのは認識していたのだけれども、まだ飽きられず人が並んでいるのだと感心する。この道を通るたびに、お店からはみ出て十人単位で人が並んでいるという印象だ。夜も遅くなってきたからか今は少し少なめ。並んでいる人数を数えると八人。ラーメン屋は回転が速いから、そんなに待たないのではと思った。その瞬間に、急に胃がラーメンにセットされる。
 そんなにラーメンが好きというわけではない。ただ、絶えない行列を作るこのラーメン屋に突然興味が湧いて、空しいこのお腹に超絶美味かもしれない料理を迎え入れたくなっただけ。これだけ人が並んでいるなら、きっと美味しいに違いない。ラーメン屋のガラス扉に目を向けると、「食券を買ってから並んでください」と黒のマジックで下手っぴな筆跡で書かれた貼り紙があったので店に入る。
 店はL字型のカウンター席のみで、十席程度の容量。客席は若い男の子と中年の男性が半々くらいで満たされていて、みんなラーメンを食べる事に集中している。カウンターの奥には職人が二人。マスターらしき筋肉隆々の髭を生やした強そうな中年男性。もう一人は、元ギャルっぽい若い女の子でアシスタントっぽい。カウンターの外には影が薄いノッポのヒョロリとした若い男の子。一生懸命声を出していて、私の姿を目視すると「らっしゃいやせぇ!」と吠えた。店の中はラーメンを茹でるお湯のせいか湿度が高く感じられ、一生懸命ラーメンを食らう人たちの熱気も助けて全体的に暑苦しい。若い、とも言えないアラサー女子が一人とても場違いな気がして券売機の前で怯んでしまう。このまま逃げてしまおうか。別にラーメンを食べるだけなのに、何を恐れる必要があるというのかしら。せっかく店に入ったのに何もしないで去るというのも、不審者っぽいし気まずい感じがする。店員から早くしろと言われているような気がして、追い込まれる気分でメニューを確認し、千円札の皺を伸ばしてから券売機に吸い込ませ、一番スタンダートだと思われる「ラーメン」のボタンを押す。一杯六百五十円。安い。
 食券はこのまま持っていて良いのかしら、と迷いながらも店の外に出て最後尾に並んだ。並んでいる人たちはガードレールに座ったり、寄っかかったりして片手にスマホを握って白く光る画面を見つめている。みんなスマホで何を見ているのかしら。情報中毒者たちは常に頭に情報を入れないと落ち着かないのよね。口に飴玉をいつも入れておかないとダメ見たいな、空白を嫌うのが現代人なのかも。そういう私も電池の残りが少ないスマホを手に取ってSNSを開く。だって退屈なんだもの。
 私がフォローしているアカウントはもっぱら猫。猫が癒し。可愛い猫の写真、動画、漫画。猫を愛する人たちが毎日新しい猫を全世界に公開してくれる。スケートボードに長毛種の白い猫がスピードに乗って他の猫に追突し、お互いに猫パンチを炸裂させる動画を十回くらい繰り返し再生し、顔がにやける。二匹の猫が障子を突き破り、障子の枠にバランスよく座ってドヤ顔を決め込んでいる写真にいいねボタンを押す。セロトニンがどばどば流れ出す。工事現場のヘルメットを被った灰色の猫がフォークリフトで積み上げられたパレットの上に乗っかり電球を換えようとしているイラストが目に飛び込みヒヤッとする。ダメなやつだ、これは。スクロール、スクロール。スマホのガラス画面の指なぞり、今日の猫を追っていく。
 ヒョロ長の若い男の子店員が店の外に出てきて、私の側に寄って来た。「食券良いですか?」と言うので、どこに持っていたっけ? と慌てながらジャケットのポケットをまさぐり、少し皺の入った食券を差し出す。
「麺の硬さは?」
「えッ、あ、うーん、そうですね、じゃあ普通で」
「ご飯つけますか?」
「ご飯? いえ、つけません」
「ご飯は無料ですよ」
「え! でも、いいです。いりません」
 想定外の質問に戸惑いながら、心臓が少しドキドキした。店員は私の後ろに並んでいる人に視線を移し、同じ質問を繰り返していた。客の回転は早く、私の後ろの四、五人から新たに食券を回収すると店から三人の客が出てきて、ほどなくして列が進む。私は十五分ほどで最前列に立って、夜道に白く輝くラーメン屋を見つめていた。店のガラス扉にはラーメンウォーカーに掲載されたと誇らしげにお知らせがあった。カウンターに座る人たちは一心不乱に麺を啜っている。私の後ろの列を見ると十人が並んでおり、行列は絶えない様子で、次に自分が呼ばれると思うと、不思議な胸のときめきがあった。
「お待たせしました! こちら真ん中の空いている席にどうぞ」
 と声がかかり、足を踏み入れる。落ち着かず、キョロキョロと店内を見渡すと『お水はセルフサービスです』と張り紙があったのでセルフのウォーターサーバーを見つけ、コップに水を注ぐ。コップの棚の横に紙エプロンがあるので、あったほうが良いのかと直感し思わず手に取る。案内された席はコロナ対策で透明のプラスチック板が隣客との境界に設置されており、その間隔が狭苦しく感じられる。食べ終わったら食器をカウンターの上に置いてください、と書いてある張り紙を確認した。メッセージの多い店だ。
「まもなくお持ちしますんで」
 カウンターの中にいる若い女の子から声をかけられたので、おもむろに紙エプロンを首にかけた。お腹の底から、きゅるる、と情けない音が聞こえてきた。我慢できないほどの空腹を体が知らせていた。醤油、豚骨、ニンニクの香りが鼻腔を撫ぜて、食欲が俄然と湧く。準備万端。
「はい、どうぞ!」
 と目の前にラーメン。カウンターから黒いドンブリを両手で受け取り、テーブルの上に置く。少々白く濁った茶色のスープ。チャーシュー一枚。茹でたほうれん草、ひとつまみ。シナチク四本。焼き海苔が二枚。まずは一口と、箸で麺を掬う。太めの縮れ麺。白い湯気がホワホワとしていて、猫舌なので念入りに息を吹きかけ、レンゲに麺を着陸させる。そして私の口に目がけて離陸。麺を吸い込む。豚骨出汁の旨味が口に広がり、麺を噛み締め、炭水化物を摂取する喜びに脳が痺れる。小麦の美味さに目が覚め、ぷちり、ぷちりと麺が口の中で弾んだ。ごくりと飲み込むと生き返った心地がした。それと同時に、喉越しに残る余韻は塩分だった。
 味が濃い。濃厚な豚骨醤油スープ。ほっぺたを平手でバシンと叩かれたくらいの衝撃で、私は強烈な醤油の塩気を受け止めた。
「ご飯いりますか? ご飯無料ですよ」と食券を回収されるときに聞かれたセリフが頭で反響する。周りを見渡すと、全員がラーメンのドンブリの他にご飯のお茶碗を持っていた。 
「ご飯、おかわり自由です。いかがですか〜」
 店の外と中を行き来しているヒョロ長の男子店員がアナウンスしている。ここのラーメンはご飯と一緒に食べる前提なのでは。ご飯と一緒に食べないと美味しくないのではと理解した時に、私は手を上げて店員を呼んだ。すみません、ご飯をください、と。店員は「わかりました、ご飯お願いしまーす」と声を張り上げて、お椀一杯のご飯が私のもとにすぐ届いた。
 張り紙の多い店である。手元のご飯に手を伸ばしたとき、新たな張り紙を見つけた。ここのラーメン屋の美味しい食べ方というマニュアルだった。今気がついて良かった。私は店からの一番重要らしきメッセージに食いついた。せっかく来たのだから一番美味しい食べ方で頂きたい。
『ラーメンはご飯と美味しく頂くために、濃いめになっております』
 やっぱりそうか。ご飯を追加注文したのは正解だったようだ。
『はじめに終日煮込んだ特製豚骨スープをレンゲで一杯』
 さっきスープは飲んだ。濃くてビックリした。
『ご飯にきゅうりの漬物を添えて、たっぷりとスープを染み込ませた海苔を巻いて召し上がれ』
 自分の手元を見ると、きゅうりの漬物らしきものは見当たらず、カウンターに目をやるとドンブリ一杯に入ったキュウリの漬物を見つけた。私は立ち上がって、不器用にキュウリの漬物を小さなトングで掴み、ご飯に盛った。どれくらいが適量なのか分からないので、小さなトング三つまみくらいにしておいた。海苔をスープにたっぷりと浸し、ご飯とキュウリの漬物を巻いて口に放り込む。
 海苔の香ばしさ、スープの旨味、ご飯の優しさ、パリポリと歯応えのあるキュウリの漬物。美味いのかもしれない。私は残り一枚しかない海苔をもう一度ラーメンの入ったドンブリから箸で掬い出し、またスープにたっぷり浸してから熱々のご飯とキュウリの漬物を巻いて食べた。二口目を食べてしまうと、もうなくなってしまったという寂しさに、ほとほと残念な気持ちになった。そして口内に残る、醤油の余韻。水を飲み込む。
 次にマニュアルに目を向けると、『一味の醤油漬けを少々ご飯に乗っけて、レンゲ半杯のスープをかけてガッツリ召し上がれ』と書いてあるので、手元にあった一味の醤油漬けを手に取り、少々の程度が分からないのでスプーン一杯程をご飯に乗せてスープをかけ、口にご飯をかきこんでみる。
 辛い。
 一味の醤油漬けって、唐辛子の醤油漬けのことか。一味唐辛子のことか。舌が痺れて、喉の奥が熱くなる。私は水をガブガブ飲んだ。何をやっているんだろう。『辛いラーメンがお好きな方はラーメンにも』とあるので、ご飯に乗せすぎた分をラーメンのスープに溶かし込む。これで少しは分散するだろう。
『ニンニクと胡椒をお好みでラーメンに入れ、麺と焼豚をオカズにして、キュウリの漬物を添えたご飯をガッッツリ召し上がれ』
 ラーメンはオカズなんだ。私は新しいカルチャーを目の当たりにして、そのカルチャーに馴染まない自分を発見した。ラーメンはラーメン単体で食べる方が好きなのよ。でも、ここんちのスープは濃いから、ご飯と一緒に食べた方が美味しいのかしら。私は勧められるがままにラーメンにニンニクをスプーン一杯、胡椒を三振くらいしてから麺をご飯にワンバンさせ麺を啜ったり、麺と一緒にご飯を食らったりした。確かにご飯と食べた方が私には強烈だった塩分が中和されるような気がする。チャーシューに齧り付き、またご飯を口に頬張る。
 ラーメンをおかずにご飯を食べていると、あっという間に胃袋は膨れて、あまりにご飯が進むので麺が残り半分もあるのにご飯がなくなってしまった。ご飯、おかわり自由とあるのはこういうことかと腑に落ちるが、もうお腹は一杯に近い。残してしまうのも大変失礼な気がして、私は残りの麺の塩気に顔を歪めながら啜っていく。ほうれん草の甘みがほんの救い。
「ごちそうさまでした! また来ます!」
 隣の黒いスーツの中年男性が立ち上がり、そう言った。満足そうな笑顔で、心から美味だったと言っているようだった。私の味覚がおかしいのだろうか。おそらく今の時間に並んでいる人は皆リピーターで、ここの特製濃厚豚骨醤油スープの中毒者なのだろう。お残しはしたくない義務感で胃の中に麺を全て納めた私は、美味しいはずのスープをレンゲに入れて、一口味を確かめた。旨味五割、塩気五割。もう一口スープを飲んでみる。ドロッとした豚骨出汁、醤油、ニンニクの香り、そしてガツンと来る塩味。一呼吸入れるために水をがぶ飲みして塩分を散らすと口の中に豚骨の旨味が残る。最後にもう一口スープの味を確かめようとするが、いや、もうやめておこう。私はレンゲをドンブリの中に静かに置いた。コップの水を飲み干し、脳天をぶち抜いた塩分を和らげる。どうかしてるぜ。
 私は心底疲れた顔でラーメンのドンブリとご飯のお茶碗、コップをカウンターに置き、「ごちそうさまでした」と店員に聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。美味しかったですとは言えなかった。また来ますとも言えなかった。ボロボロに負けた気分だった。スープに浸した海苔を熱々のご飯に絡めて、キュウリの漬物と食べた、あの一口、二口は美味しかったような気がするが、それも幻となって暗い醤油色の中に消えていった。

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