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大槻能楽堂・特別公演『葵上』~なんでわたしはお能を見るのか


ほぼ一年ぶりに能楽堂でお能を見ました。
一年前に見たのはこちら。


2020年から21年にかけて、歌舞伎・文楽・落語と、さまざまな分野で
リモート公演が行われ、家のパソコンやテレビ画面で楽しませていただきました。

もちろん、生の舞台がいちばん良いことは重々承知のうえで、それでも
オンライン公演やリモート公演には、会場まで足を運びづらいお客さまにとってのメリットや、
「こんなやり方もあるんやなぁ」
と、新しい目を見開かされたことも多々ありました。

ただ。
お能だけは、オンラインだとなんだろう、すごーーく物足りないのです。

囃子方や地謡のみなさんが醸し出される音の波に乗りながら、
シテ方の緊張感や、ふとした拍子の空気のやわらぎを感じるのが
お能を見る楽しみだと思っているからかもしれません。
同じ空間にいないと、そんな音の波や空気がまったく感じ取れない。
画面上では無理なんです。少なくともわたしには。

というわけで、生でお能を見る機会に餓えていたわたしにとって、
一年ぶりのお能。しかも人間国宝・大槻文蔵先生の『葵上』!
これは見逃せません。

解説なしで、いきなり狂言『梟』からスタート。
善竹ご兄弟の上品でほっこりした味わい、ほわっとした空気が漂います。

そして『葵上』。

『源氏物語』の「葵」を題材にした曲で、主人公は六条御息所。
舞台上には病身の葵上がいる…のですが、この葵上、人間が演じるのではなく、そこにはただ、おごそかに装束=衣装が置かれています。
病に臥せった葵上の「象徴」というわけです。

六条御息所は、巫女に引き寄せられる形で生霊としてやって来ます。

前半は、美しい女性の姿で、嫉妬のあまり葵上(を表す装束)を打ち据える。
後半は、さらにパワーアップ。角を出した般若の面をかけ、調伏しようとする聖と争うのです。

初めて見たときに思ったのが
「なんで光源氏は出てこないんやろう」
でした。
そもそも、御息所の執着と嫉妬のみなもとは、源氏の君への恋心なわけですし、その相手が舞台に出てこないのはなんでやろう、と。

でも。
何度か見ているうちに「出て来なくていいんや」と思うようになりました。


むかし、あるお能の先生に

「能はそんなに複雑なものを描くものではない。
 三間四方の能舞台、それ自体が人間の心をあらわしている。
 人の心を描くのが能だ」

と、間接的にですが伺ったことがあります。

『葵上』も、描きたかったのは誰がどうしてこうなった、という時系列に沿ったストーリーではなく、六条御息所の「心」なのでしょう。

とくに後ジテ。
能舞台という心の中で、おさえられない嫉妬(般若の面をかけた御息所)と、それをうとましく浅ましいと思い、抑え込もうとする自制心(小聖)とが戦っている。
そこに他者(源氏の君)はいらないんや、と。


自分の中の醜い部分と、理性との戦い。
これはなにも、はるか昔の平安時代に限った話じゃありません。

「なんであの人にだけ、いい仕事が回ってくるんやろう。なんで自分じゃないんやろう」と思いながらも、笑顔で「がんばってね」と応援する、だとか。

表面的にはニコニコ接しているものの、心の中は「女っていうだけで得してズルいよな」とどす黒いミソジニーでいっぱいな人、だとか。

2021年を生きるわたしたちの中にも、十分ありそうなことです。


自分の中にもありそうな心の葛藤が舞台の上で展開されているのを、
一歩引いた目で客席から眺めることができる。
『葵上』に限らず、抽象的に描かれてることが多い能だからこそ、そのときの自分の悩みや怒り、嫉妬などの気持ちを舞台に投影することができる。
ときには、舞台が触媒となって、自分でも意識していなかったような感情があふれ出すこともある。

だからお能は、自分ごととして心に沁みるのです。
(そしてコンテンポラリーダンスを見ていても、同じことをことを思うときがあるのですが)


今回は大阪府の特別公演ですが、あまり宣伝されていなかったのか、少し空席もありました。あああああもったいない!

大槻能楽堂さんでは、ほぼ毎月「自主公演能」が行われています。
解説とお能が一番という見やすいスタイル。(たまに狂言も入ります)
4月からの年間スケジュールも出ましたので、ご興味ありましたらぜひ、ぜひに!




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