桜桃忌の日に桃色桜色の女生徒ちゃんをおもう

~藍色茜色のおそろいベレー帽 June 19 [Wed], 2013, 23:33~

藍色茜色ですが夏は青い服を着たい気分の茜です。
秋になると赤と緑な気分になるので、クリスマスを待ちわびちゃってる人みたいになります。


どんより梅雨空が広がった、2013年6月19日の東京。
1948年6月19日もこんな天気であったといいます。
きょうは桜桃忌、太宰治の誕生日であり、玉川上水から発見された日です。

そんな日に、立川シネマシティで、福間雄三監督「女生徒・1936」を観ました。
http://jyoseito.jp/


「燈籠」「女生徒」「きりぎりす」「待つ」の四短編からなる連作。
バスト・ショットでの主人公の独白が大部分を占め、映画というよりも朗読劇・ドキュメンタリーに近かった。
国語と日本史と少女のお勉強だと思って観ましょうね。

女生徒ちゃんのお話をしましょう。
『乙女の港』よりもはるか前から「わたしの物語」な『女生徒』。
高校生のとき、わたしは青森のすみっこで女生徒ちゃんに出会いました。
それだけに、女生徒ちゃんが御茶ノ水に電車で通わないことはちょっぴり残念(田舎道のバス!)。
カントリー・ガールにとって、女生徒ちゃんは、モデルとなった有明淑ちゃんは、憧れのアーバン・ガールだったから。
ロココ料理が登場しないことも引っかかりました(続く「きりぎりす」に引用されてたけど)。
デコラティブなロココ料理、ここで嶽本野ばらちゃんに連続性を見出せるのだけどなー。
やはり、幻野文学と少女論は観点が違うのですね。
前半の焦点「コトン」は少女性というより、内部と外部の関係性だものね。
そういう意味でもとても勉強になりました。
プロローグが『斜陽』の引用――恋と革命――で、アーバンギャルドのベストアルバムへと見事につながるわけだけれど、それはまた別のお話。
インストア楽しかったです。

そして、三鷹・点滴堂さんの「女生徒展」へ。
http://tentekido.info/

女生徒ちゃんを描かせたら右へ出るものはいない皆様が一同に!
感想を持つのは難しいのだけど、女生徒ちゃんは、女生徒ちゃんひとりではないのだ、と。
展示作品の女生徒ちゃんは、いろんな髪型をしているし、いろんな表情を浮かべているし、いろんな場所にいる。
それってすごいよね。
だって、お話のなかで、みつあみメガネであることが示されているのに、皆様それに沿ったり沿わなかったりなのですもの。
でも、女生徒ちゃんは女生徒ちゃん。
それは、女生徒ちゃんが普遍的少女性そのものであるということ。

ふと、この同じ瞬間、どこかの可哀想な寂しい娘が、同じようにこうしてお洗濯しながら、このお月様に、そっと笑いかけた、たしかに笑いかけた、と信じてしまって、それは、遠い田舎の山の頂上の一軒家、深夜だまって背戸せどでお洗濯している、くるしい娘さんが、いま、いるのだ、それから、パリイの裏町の汚いアパアトの廊下で、やはり私と同じとしの娘さんが、ひとりでこっそりお洗濯して、このお月様に笑いかけた、とちっとも疑うところなく、望遠鏡でほんとに見とどけてしまったように、色彩も鮮明にくっきり思い浮かぶのである。私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。


わたし、わたし、わたし語りだった女生徒ちゃんの5月1日。
それがもうすぐ終わりそうな深夜、お洗濯をはじめた女生徒ちゃんは月をみて、同じように月をみている少女たちを思います。

そこで女生徒ちゃんは、「私たちみんな」にまで飛躍できるようになる。
少女そのものになって少女性となれる。
要するに吉屋信子になれる。
要するにアルティメットまどかになれる。

いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。誰も教えて呉れないのだ。ほって置くよりしようのない、ハシカみたいな病気なのかしら。でも、ハシカで死ぬる人もあるし、ハシカで目のつぶれる人だってあるのだ。放って置くのは、いけないことだ。

女生徒ちゃんはくるくる回る、そして増殖する、攪拌する。
ジューサーミキサーされた女生徒ちゃんはきっとももいろになる。
きょうは、桜桃忌。


※女生徒ちゃんは青空文庫で読めるよ。

※たゅんさんとのUSTを聴いてもらえたらきっともっとわかる。

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