少女鏡像論
~藍色茜色のおそろいベレー帽 October 30 [Fri], 2015, 11:33~
女の子のこころのなかの、小さな小さな、でも美しく鋭い、鏡についてのおはなし。
女の子はみんな、こころのなかに小さな鏡を持っている。
わたしはあの子を見ている、あの子はわたしを見ている。
わたしがあの子を思うように、あの子はわたしを思う。
どんなふうに?どのように?わたしはどんなわたしなの?
わたしはわたしを見つめることができないから、わたしはあの子を通じてわたしを見つめる。
そう、鏡に映すように。
鏡を覗き込んで、わたしはわたしを想像する。
わたしはこんなわたし。わたしはわたし。誰のものでもないわたし。
わたしはわたしを想像して、わたしはわたしを創造する。
そうして、わたしはわたしになる。
だけど、鏡は問いかける。
わたしは"あの子に比べて"どんなわたしなの?
ーーわたしはあんなわたしになりたい、そう、あの子みたいに。
ーーわたしはあんなわたしになりたい、そう、あの子と違って。
わたしとあの子のこころのなかの鏡に映るわたしとあの子。
その鏡は、わたしをただひとりのわたしにもするし、わたしをあの子に対してのわたしと位置づけもする。
鏡は像を映してくれるだけで、わたしの思考にまでは作用しない。
だから、意地悪。
わたしはあの子に、あの子を通じたわたしに、囚われてしまうから。
少女鏡像は、こころのなかの鏡に映し、映される女の子の像のこと。
女の子が自己を形成するにあたっての一番の武器であり障害。
鏡像はわたし自身のありかたに反映される。
わたしはあの子に対してのわたしになろう、そう、あの子とは違ってーー
それが、少女反像(リバーシブル・ガーリィ)。
わたしはあの子に対してのわたしになろう、そう、あの子みたいにーー
それが、少女双像(シンメトリィ・ガーリィ)。
少女反像と少女鏡像については、具体例をみながらお話しましょう。
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