美しくも恐ろしき想像の世界
私は文章を書くのが好きだ。何事も行き詰まってしまった時、何気なく文章を書くとすっきりすることがある。目の前にあることに集中することも大事だ。しかし、目の前のことを置いてでも頭の片隅で渦巻いてしまう思考があるのならそちらにも価値があるはずだ。文章を書く感覚は写経と数学の間にあるような気がしている。写経をしている時は無心で、心という海に深く潜っているようだ。誰もリーチできない深さで誰にも予測できないような時間の流れや体の巡りを感じる。たまに、頭の中を整理して、同じカテゴリーのものを見つけては棚に収納していくような感覚の時もある。そんな時は数学的な感覚を感じる時もある。心の中での動きを観察し、整理していくことが私にとって書くことなのだと思う。
ふと、私が文章を書き始めたのはいつからだっけ?と思った。ライターと名乗り始めたのは今年の2月からだけど、文章はずっと書いてきた。思い出せる限りでは、小学生中学年くらいから絵を描く延長線上で物語を書いたのが始まりだと思う。学校でうまくいかない自分を物語上に転生させ、苦難を乗り越えた結果幸せを手にすると言う物語だった。たぶんあの物語を書いたのはは足りない現実のピースを想像で埋めていたのだと今となっては思う。その物語を10歳で書き上げた私は、完璧な想像の世界と不完全な現実の世界にギャップを感じてしまった。想像の世界で転生した私は幸せでも現実世界はそううまくいかず、空想世界にのめり込むことになるのだが、その話はまた今度。とにかく、私にとって想像することは小さい頃から大切な遊びの1つだった。
小さい頃はごっこ遊びが大好きで、妹と「アイちゃんごっこ」と言う架空の世界を何年もかけて構築し、発展させていた。最初は持っているぬいぐるみに名前をつけて、よく見ていたジブリアニメのシナリオをなぞって空想の世界を膨らませたり、料理や買い物など小さい頃には1人でできないようなことをぬいぐるみにやらせたりしていた。特に、幼少期に見た「もののけ姫」が衝撃的で、犬のぬいぐるみにリカちゃん人形を乗せて走らせていたのをよく覚えている。そのうち、世界観がかなり固まってきて、見えない敵キャラに怯えたり、悪の勢力に対して戦いを挑んだりなんかもした。身の回りに起こった出来事やその時々のお気に入りのアニメなどによって毎回出てくるキャラやエピソードはまちまち。だが、毎回「アイちゃんごっこ」だった。アイちゃんって本当は誰だったのだろう?私の名前でも妹の名前でもないので、知り合いの誰かの名前をとったんだろうが、誰なのか未だに思い出せない。それに、アイちゃんごっこにはアイちゃんは出てこなかった。子供の世界とは不思議である。
今思えば、書くという言語能力がなかったあの頃、「アイちゃんごっこ」は私にとって思考を整理するための想像の世界の具現化だったのかな、と思う。アイちゃんごっこは、一度たりともただぬいぐるみを適当に動かしてなんとなく遊んでいたのではなかった。子供なりに世界にちゃんと秩序があり、人間関係があり、それぞれのぬいぐるみたちに与えられた使命感があると信じていた。もちろん、毎回のシナリオは毎日起こる新しい体験に影響されていたけど、今だって、私の文章は毎日起こる出来事によって支えられている。
幼い時に感じていたように、想像の世界を作り上げてみたらどう?と自分に問いかけてみると、案外これができるのである。もちろん、今は恥ずかしさが勝ってしまって、あの頃のようにアイちゃんごっこを楽しむことはできない。けれど、確実に想像の世界は頭の中にあって、それが言語化されていないだけなのだ。想像の世界は夢の塊かもしれないな。よくよく思い出せば、私は何年もアイちゃんごっこをしていた記憶があるが、実はそれは何ヶ月かで、夢の中でもアイちゃんごっこをしていたので長い間遊んでいたように記憶しているのかもしれない。今でも、夢で見たことが楽しすぎて、もっと眠っていたいと思うこともある。1日に何度か、「これ、今、夢じゃないよね?」なんていう想像をする。そんな想像をする想像をする。これがぐるぐる回ってしまって、埒が明かなかったら夢だ。いつか現実を夢と思ってしまう日もくるだろうか?想像というのは美しく、恐ろしい。書くというスキルを身につけた今、もしかしたらあの頃の世界を今の私バージョンで発信するべき時がきたのかもしれない。