誰かのセンスを感じたとき、手に取る一冊
ひらめきの神様なんて、どこにもいやしない。
著者はあのくまモンの仕掛け人である水野学氏。彼はこの本で、そう語る。
センスは先天的なものではなく、後天的で研鑽によって習得できるものだ。
というのだ。
センスは知識からはじまる
水野学 著
発刊が10年ほど前のこの本が、紀伊國屋書店では未だに入り口近くに平積みされていた。
変化が速く混沌としてきたこの時代に、よりセンスが求められるようになってきたからだろうか。
ただ私も生きる上で、何かをする上で、センスがあればと思うことは良くある。
「センスのよさ」は憧れてしまう言葉でもある。
では、その「センスのよさ」を定義するとどうなるか。
「センスのよさ」とは、数値化できない事象のよし悪しを判断し、最適化する能力である。
自分が認識している「普通」の基準と、あらゆる人にとっての「普通」をイコールに近づけられるようになればなるほど、最適化しやすくなる。
つまりは、世の中の「普通」を知り、ここが普通」だと判断できることが最適化できるようになるポイントであり、その能力がセンスだということだ。
そして、「普通」を知るためにこそ知識が必要だと言う。
例えば、インテリアのセンスを発揮するにも、
沢山のインテリアを見て、雑誌を見て、始めて普通を判断できるようになる。だからこそ、良いものを選ぶことができるといった具合だ。
そして、美しさについても解釈があった。
「美しい」という感情は基本的に未来でなく過去に根差している。
感覚とは、知識の集合体。
「美しい」と感じる背景にはこれまで美しいと思ってきたありとあらゆるものたちがある。
美しいと感じた体験の集積が、水野氏の中の「普通」という定規になっているというのだ。
あぁそうか。
美しさは、本能的なものだと捉えていたけれど、そうではない。
美しさは知識と体験によって学ぶもの、体得するものなのだ。
であるなら、これは人にしかできないことなのではないかとも感じた。
AIであれば、知識をどんどん溜めることはできる。
所謂、「美しい」と言われているものを蓄積していくことは可能だろう。
けれども、人は「美しい」という知識に加えて、感性から「美しい」と感じることも蓄積していき、現在の「美しさ」を判断する。
それは、思い出や体験なども相まっての判断となる。
それはヒトだけが判断できる美しさなのではないだろうか。
センスも知識も、美しさも。
その人なりの五感に基づいた体験や経験を伴って蓄積された知識から、ふと現れるものなのだろう。
グランドの向こうに沈むグラデーションのかかった夕日を眺めていたあの日も
先輩のレポートを見て、美しいと心踊った瞬間も
ひとつひとつが私の中に蓄積され、未来の
美しさとなっていく。
日々、自分の感性を信じ
誰かのセンスを感じるチャンスを待っていたい。
それの積み重ねがきっと自分と、誰かの豊かさにつながる。
「美しい」を見る目を日々更新してゆきたい。
センスある人の頭と心には、どんな景色が蓄積されているのだろうか。
そんなことに思い馳せる。