僕たちの嘘と真実による守屋茜への意見について。
映画の公開をうけて、それによって守屋茜への批判の声に近いものを見かける機会が増えてしまったような気がする。それについて、守屋茜推し視点ではあるが、私の意見を自分勝手に書いていきたいと思う。
先に言わせて欲しい、拙い文章で申し訳ない。
シンプルに、なぜここまで批判の声が守屋茜だけに集まってるのか疑問である。2017年は平手友梨奈の代わりはいないと思っていたメンバーが大多数だった中、自分もその1人であったと発言した事の何が問題なのかが私には分からない。のちに2019年には考え方が変わったとも発言している。きっと大多数のメンバーも同じように様々な事を経て考えが変わっていったのではないかという印象を受けた。私からすれば他のメンバーと大差ないように感じた。それなのに守屋茜だけ批判されるのはなぜなのか?
よく、副キャプテンなのにという言葉を見る。守屋茜が副キャプテンという役職である事に何も間違いはない。そして副キャプテンとしての考えを持っているべきだったのではないかという意味の発言である事も理解出来る。でも副キャプテンとしての考えの正解を誰も見つける事が出来ないと思う。それなのになぜ自分の中の正解を押し付けて批判するのか。
菅井友香はそれとは対照的で、グループ全体がどう見られるのかを考えていたように捉えられた。これが菅井友香の中でのキャプテンとしての考え方であったのだろう。
多くの人はこの菅井友香の考え方を自分の中の正解と定義しているのではないかと感じる。もちろん否定するわけではない。だがしかし、守屋茜も菅井友香と同じ考え方であれば賞賛されたのだろうか?私にはそれではキャプテンと副キャプテンの2人がいる必要が全くないように感じてしまった。2人は対照的な考え方だったからこそ、どちらも必要だったのではないかと思う。
もちろん、対照的な考えを持った2人である事を本人達が自覚し、お互いの考えを交換し、少しずつでも理解し歩み寄る事で、グループ内での大多数を占める考え方を見直す必要もあっただろう。しかしグループ内に複数の意見が存在していた以上、役職の2人が違う意見であった事はむしろプラスであったと考えられるのではないかと私は思う。お互いのコミュニケーションが足りない部分があり、それをプラスに変えきれなかったところは悔しいところであるが。
キャプテンはグループ全体がどう見られるのかを考えていたと先程記述したが、副キャプテンは1人1人を見ていたように私には感じられた。以前に何かの媒体で、悩んでいそうな子に対して、声をかけるべきなのか見守るべきなのかを見極めるようにしているというような趣旨の発言をしていた記憶がある。ここに守屋茜の副キャプテンとしての考えが詰まっているような気がしてしまう。キャプテンのように代表として発言する機会もあまりなく、副キャプテンという立ち位置に悩んだ結果、守屋茜なりに考えた結果この考えに至ったのではないだろうか。
映画では平手のそばにいる様子がメインに切り取られていたが、実際はそれだけではない。今泉佑唯が復帰した時真っ先に写真をあげたり、センターをやる後輩に寄り添ったり、些細な気遣いが出来るのが守屋茜であると勝手ながら感じていた。
また、特定のメンバーとずっと一緒にいない事も守屋茜なりの副キャプテンであるのではないかと考えていた。特定のメンバーと一緒にいすぎてしまわない事で、メンバー全体を見るようにしていたのではないかと考える。
私の中で守屋茜は副キャプテンとしての仕事を模索しながら、自分に出来る事を全うしていたと思う。副キャプテンは仕事をしていない、これも以前からよく見ていた。これも本当に否定したい。仕事をしていないわけではないと。先程挙げたような副キャプテンとしての行動は、そこまで目立つような事ではなく、仕事をしていないように思われても仕方がないかもしれない。だが、この世で見えている仕事が全てだと本当に思っているのか?と問いたくなる。見えていない仕事こそむしろ大切だったりするのではないか。
これまでの活動や、あの映画も含めて、見えているものはほんの一部に過ぎないという事を強く主張したい。だからこそ、あの映画だけで批判を受けるという事は、今までの守屋茜までも否定された気持ちになり、推しとしてはとても悲しい。苦しい。辛い。
この文章を読んで、少しでも守屋茜に対して違う考え方をしてみようと思う人が1人でもいれば嬉しいなと思う。せめて、そのような考え方もあると知って欲しい。そしてなによりも、キャプテンと副キャプテンは2人とも必要な存在なのだという、主張と私の中での結論を残して、この文章を終わりにしたい。