装飾にみられる宇宙的なものとは? プレヴォー「コスミック・コスメティクス」の要約
この記事では、ベルトラン プレヴォー筧 菜奈子 ・島村 幸忠 訳「コスミック・コスメティック : 装いのコスモロジーのために」(現代思想,43,
152-176)の要約をしています。
この論文は、「装い」や「装飾」にみられる宇宙観や調和的な要素を、美術史から動物学の知見までに見直そうとする試みです。
構成は以下の通り。各項目を説明していきます。
序
冒頭では、問題定義と背景。
「装い」は、単なる余分なものではなく、世界に調和し適合するものとして考えられる。例えば、初期キリスト教において、装飾(特に女性の装い)は、腐敗と結びつけられたが、真の装いは簡素であると見做されていた。
身体装飾の秩序
装い(身体装飾)は基本的には、秩序的であるという感覚が古代ギリシャから現代に至るまで固定観念を作り出している。そしてこの「秩序」は、語源にもあるように、調和や宇宙観につながっていく。この装飾の宇宙観は、中西の装飾美学からはじまったと考えられており、装飾の作り出す世界は世俗的なものであると同時に神的なもの(無限のようなもの)として認識される。
19世紀にゴットフリート・ゼンパーは装飾を「自然適法性」の秩序によって身体装飾の形態論を身体の形態に従属して作られるものであることを主張した(吊り下げ装飾、環状装飾、指向性装飾)。身体装飾は、物理的に秩序のある調和性の高いものとして作られることが必然なのである。そして、「飾ることは物理的な力を見えるようにして、このコスミックな秩序を認識し、その一環をなすことに帰着する」
コスミックな統一性から自然の法則へ
このような装飾の持つ秩序やそれが作りだす調和性を受け継いだのは、エルンスト・ゴンブリッチであろう。ゴンブリッチは装飾の近代性を「コスミックな統一を浄化し、そこから秩序の観念を取り出した」ということである。すなわち「宇宙・神を重視していた装飾から、より自然としての装飾へ」という近代的な視座である。例えば、装飾文様が作り出すパターンは、自然の法則である。彼は、装飾を宇宙や神と近いものとみなすのではなく、それらが自然的な法則を内包している近代化学的な要素を持ち得ているとみなした。しかし、このゴンブリッチの視点は、装飾を規則性しか生まれるもの(パターン)としてみなしていなく、ロココやグロテスクなど規則性を持ち得ないものはあまり分析していないという点がある。
アナロジスムに対する恐怖ーコスミックな統一とは何か
装飾が物理的・規則性を持ったものとして捉えるならば、それはつねにアナロジックな方法で考察されていることに気づくべきであろう。そして、「アナロジーによってこそ、コスメティックなものはコスメティック」(装飾的なものは宇宙的)なのである。そのうえで重要なのは、装飾的なものが宇宙的なものとしてみることが必要なのは、そこに「精神の眼」を通じなくてはいけないことである。しかし、この「精神の眼」は異なる要素、「装いの世界=世俗性」を結びつける役割をするが、この機能を果たすには、この二つに共通する要素である「幾何学的な形態」という媒介物が必要となる。それゆえに装飾には個別性が失われる。
そこで筆者は、装飾を「コスミックな秩序を美しいアッサンブラージュ」として捉える古代の観点なものとするのは、「カオス」なせかいが必要であると考えられる。秩序の観念を浄化し、そこからコスミックな統一性を取り出す
投影の苦しみ
筆者はここで再度、形態論から装飾の宇宙観を捉え直す。
例えば、装飾はそもそもそ、身体に対して付加的なものである。人類学者はこの付加を象徴的なものとして捉え、装いを「第二の皮膚」として捉える。そこには社会的ない身を示すものである。
筆者はこのような、装いと装う人の関係との適合関係について「投影的」と呼ぶ。例えば、アビ・ヴァールブルグが指摘するように異質な装飾を纏うことで、その人は「悲劇的な拡張」を投影する。この観点は、動物が「装い」をしないことを裏付ける。動物は、投影を意識的に行わない。人間は衣類という皮膜のなかに、投影を行う。
この、「装い=投影」であることを批判する議論として、ゼンパーが挙げられる。ゼンパーは、古代の織物に、建築における壁の役割を見出す。そして織物の構造こそ、装いの本質である。そして「装いは建築と一体」であり、「装いは皮膚と一体化する。衣服は第二の装いでしかない」という。
皮膚としての装いは、建築と一体であり、形態と用途を一致させている。しかし、衣服は第二のよそおいであり、形態と装いの間に連続性は存在しない。
非人称的、無身体的、非有機的ー世界になること
ジンメルは、装いを三つの区分(刺青、衣服、宝石)し、分析した。特に、宝石についての分析に、筆者は着目する。装いはより、身体から離れる形態性を持つ時、そこには脱身体的であり、装うものの個性を奪うものであるが、しかし「優雅さを獲得する」というものである。この観点から考えれば、装いは身体のようにある必要はなく、身体を不定化するものである。
筆者が、「装い」と身体は交わることはできないという。しかし、「装い」を装うことによって、身体は脱人称化となり、抽象化を介して、世界と連続性を作り出すことができる、とドゥルーズを援用して考察している。
このような連続性は、有機的なものでもなく、無機的なものでもない、非有機的なもの(例えば、他者の髪で作ったかつらや羽など)によって展開する。
動物のコスメティック
筆者は、このような装いの非有機性は、特に動物の装いのほうが長けていると主張する。そこで動物学者のポルトマンを援用し、「有機的なものから生命的なものへ、つまり生き物からより本質的な生命力へ移行する」特徴を見出す。例えば、インコの多彩な羽や、ジャガーの眼状班などは、完全的無機的なものではない。しかし同時に有機的なものではない。なぜなら、種の保存という観点からはそれらは不利益だからである。筆者は「動物の装いについて語ることは、その形の意味にかんする問題を提示する一つの方法であり、その形式や機能にかんする問題を提示することではない」という。
その上で、筆者は防護、カバー、遮断物といった迷彩効果の機能を動物の装いとして取り上げる。この発想こそが「人間の衣服こそが、投影のダイナ水を動物の衣服に与える」。衣服は、つねに二つの意味においてー第一に人工物の計画的生産として、第二にレディ・メイドであったとしても人工物の身体表面の適応として、投影と捉えることができるのである。例えば、蛇の網状のモチーフやしまうまのストライプは、集団で集まることによって個性を失う。この行為において、「装いは世界を巻き込む」。すなわち、自然に反してくことこそが、あらゆる世界を横断する真の自然であると考えることができる。その結果、装いの宇宙観は、自然史のなかに融合するものである。
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