【要約と学術的意義】中島彩乃「クレメント・グリーンバーグの工芸観ー装飾との関わりを中心に」
(1)要約
本論は、アメリカのモダニズム絵画を唱えたとして有名なC.グリーンバーグの工芸に対する批判的な態度を、特に<絵画における装飾性>の観点から明らかにしている。
まず本論では、グーリーンバーグのミニマリズム彫刻に対する批評的な態度を例にだす。彼は、ミリマリズム彫刻をグッドデザインと揶揄し、徹底した職人技に見られるような表面仕上げ(=オブジェクト)を非芸術であるという主張に着目している。またイサム・ノグチの作品における表面の完璧な処理に対しても批判しているエッセイから、彼はファインアートにおいてきれいな表面的な仕上げは、手工芸や宝飾品に見られる性質であるとグリーンバーグは主張している。
ここで例に出したミニマリズム彫刻やイサムノグチは、3次元の「オブジェクト」である。そのため、表面に対してのアプローチや処理はわかりやすく現れると考えることができるが、絵画の場合は彼がしばしば批評において使われる用語の「装飾」という言葉に置き換えて考察することが可能であると著者は考える。
例えば、「イーゼル絵画の危機」(1948)において彼は、抽象画が堕落する事態へ憂慮される前に対応すべき抽象画における要素として「壁紙模様」や「装飾」をあげている。抽象画がイーゼルから離れ、壁にかけられた時、抽象がはまるで壁紙模様のようにみえ、絵画の転落を意味する、と彼は絵画における装飾性を批判する。この論においては具体的に、カンディンスキー、レジェ、スチュワート・デイヴィスの絵画の装飾性の批判、ポロック絵画においては装飾性がうまくいかされているという指摘から、「イーゼル画」と「壁画」という画家の意識についても考察している。モダニズム絵画における平面化、純粋性を担う役割としての「抽象」は、その対立項である「装飾」という存在によって成立していることを明らかにしている。
また、著者は彼の抽象と装飾のこだわりについて、彼のモダニズム絵画への捉え方の思想の変遷:メディウムから視覚性への批評軸の移行であったのではないかと仮説を試みる。そしてその移行において、彼は装飾性を再定義を行なっているのではないかと著者は考察する。
そこでピカソとマティスの絵画に対する装飾性の批評を比較して考察している。例えば、ピカソの絵画を「完璧に仕上げられたオブジェクト(物自体)」であるとし、またマティスの絵画を「装飾的なものも、ヴィジョンを伝える時にこうした意味を乗り越えることができる」と述べている。このような違いには、彼の発言によれば「唯一の要因としてインスピレーション」の有無の違いにあるとしていることを指摘する。彼にとって、インスピレーションは、作品の「内容」や「ヴィジョン」から生じるものである。ピカソ は絵画を仕上げるためにこだわっており、その処理の方法に「内容」や「ヴィジョン」は存在しないという。ここにマティスにおける装飾性と、ピカソ をはじめ他の諸作品に違いがあると指摘している。
以上の<絵画における装飾>の観点から、グリーンバーグの工芸性における批判を検討した。絵画をものとして仕上げようとする「オブジェクト」と呼ばれる観念が強いということが明らかになった。
(2)学術的意義
グリーンバーグが「装飾」という言葉を批判的に用いたことはよく知られている。しかしこの「装飾」に関して、一方的に否定した訳ではない。例えば、ポロックの絵画はそれを生かしていると論じているし、また、時として「絵画にまとわりつく幽霊」といった表記で記述をしている。彼にとってモダニズム絵画において取り除くことのできない要素として捉えいる。このように彼にとって装飾性は、わかりにくい批評的な表現でもある。
先行研究として、ジャクソンポロックにおける装飾性を研究もある。その場合は装飾性については、思考の存在しない反復模様であると指摘していた。本稿では、この装飾を工芸性、オブジェクトといった美術(絵画)における周縁的な要素とつなげ論じた一面に独創性があるといえる。