「どうでもいい」世界におけるどうでもよくはない存在理由
だんだんと野球の勝敗も、どのチームか、ということもどうでもよくなってきた。
どうでも良くなってきた、と表記すべきかもしれない。
つまり、「どう在っても良い」と思えるようになってきた。
野球を目の前にして、既に野球を観ている訳ではない。
歴史を目の前にして、「史実」をなぞっている訳ではない。
物語を読んでいるのだ。
だからこそ、その物語は「どう在っても良い」。
そこに在る物語は、どれを手に取っても美しいから。
わたしたちは、自分以外の他者の──あるいは自分のものでさえ──物語を好きなように読むことがある。
一方で、その物語への愛が深ければ深いほど、わたしたち読者は「行間」に耳を澄ますようにもなる。
物語の表層から深層へと降りていく。
目に見えるのは手段。
わたしたちが「観る」べきなのは、行間に潜む目的の方だ。
どう在っても良い世界の中で、
ただそのように在った、その理由。
根の根の物語は、見知らぬ他人のものであってもわたしたちを──わたしたちの魂を突き動かす原動力になる。