はじめまして赤いたぬきです!~実践的アダルトメディア平成史~

平成~令和 実践的アダルトメディア変遷史

初めてのnoteでこんなことを書くのも馬鹿げていますが、とりあえず赤いたぬきのいい加減な記憶をもとにした実践的な自慰の平成~令和史を書きます。
以下自慰=Gと表記。

自分が毎朝Gをすることになった理由は精子をフレッシュに保つには毎日放出する方が良いという何らかの豆知識を仕入れたからです。そのために様々なエロメディアに接して来ました。

ヘアヌード解禁

Gをするにはなんらかの発情装置が必要であり、平成初期にはそのメインが紙メディアでした。

まだギリギリバブルだった平成3年、写真家篠山紀信樋口可南子をモデルにした「watar fruit」を出版したことでヘアヌードが実質解禁となりました。
篠山紀信は続いて宮沢りえ「Santa Fe」を出版。
当時まだアイドル的人気タレントだった18歳の宮沢りえの全裸ヌード。それだけも事件なのに新聞の一面広告で発表したことでセンセーショナルな話題を呼び、当時155万部を売る大ベストセラーに。
当代きっての大御所写真家が絶大な人気を誇った十代の女性タレントのヘアヌードを発表したことで、出版界にヘアヌードブームがまき起こります。
月刊誌の「GORO」や「スコラ」、写真週刊誌などがこぞってスクープヌードと銘打った著名人たちの初脱ぎグラビアを袋とじにして、雑誌もバカ売れしていました。
写真家加納典明は平成5年にヘアヌード月刊誌「月刊THE TENMEI」を創刊し、その過激な写真で警察に摘発される騒動も。
当時、自分がGのときに使用するはそれらの雑誌やヘアヌードページを保存したエロスクラップでした。
そのスクープヌードを経た元アイドルらはエロを売りにしたオリジナルビデオに主演し、そのビデオもまた恰好のGの素になりました。
その頃には紙面を見ながらGをしていたのが、リモコン片手にテレビ画面を見ながらの行為に変わり、初めて試みたときの違和感は忘れられません。
また平成8年9月には「お宝ガールズ」という人気芸能人の無名時代のエロ仕事を掘り出して掲載する新たな手法のエロ雑誌がスタート。さとう珠緒の珠緒時代の貴重なヌード写真などが掲載されました。
平成9年には雑誌「BUBKA」が刊行し、奥菜恵のラブホ写真など人気芸能人のスクープ写真を連発。しかし、BUBKA自体はなぜかアイドル戦国時代にアイドル雑誌へとシフトチェンジ。

テレビもエロOKだった!

平成5年頃にはテレビもエロに寛容でフジテレビのゴールデンタイムのドラマ「悪魔のKISS」ではヒロインの一人を演じた常盤貴子が風俗嬢役で初ヌードを披露したり、その年の大晦日には日本テレビが紅白歌合戦の裏で野球拳を生放送するほど、今のコンプライアンス重視の観点から考えるとどうかしている時代でした。
平成8年頃にはさらに過激化し、奥浩哉の人気マンガを原作とするテレビ朝日の深夜ドラマ「変[HEN]」では毎週のように木内美穂城麻美のおっぱいが劇中に登場して人気を博し、深夜には同様のエロを売りにしたドラマがしばらく続きました。
その同録もまたGの良きお供となり、もはやGはテレビ画面を見ながらがスタンダードに変わり、膨大なエロスクラップは燃えるゴミへと出されました。

アダルトビデオ革命

その一方で、アダルトビデオ界には革命が起こります。その主役はビデオ安売王というセルビデオチェーン。
平成5年9月にフランチャイズを開始したビデオ安売り王は翌年7月には164店舗まで拡大。
1本3000円くらいのオリジナルビデオを制作し販売を開始し、そのビデオメーカーの中にはテリー伊藤に鍛えられたテレビマンたちによるソフト・オン・デマンドもありました。
ただ当時のSOD作品はテリー伊藤ゆずりのバラエティ色が強いものが多く注目度の高さに反して、Gへの実用性は低かったものです。
アダルトビデオ黎明期のトリックスターである村西とおる監督も旧作の焼き直しやアイドルのイメージビデオを制作してソフトを供給していましたが、ビデオ安売り王は早々に破綻。同じ頃、村西とおるもアダルトビデオの衛星放送事業に失敗し表舞台から姿を消します。
個人的には当時の村西とおるのセルビデオ参戦のおかげでリアルタイムで見られなかった伝説の黒木香のアダルトビデオ「SMぽいの好き」を見るという念願が叶いました。
その安売り王の跡地に同様のセルビデオ店の出店が続き、セルビデオというシステムは維持されていきます。
ビデオ安売り王の登場によってセルビデオは軌道に乗り、アダルトビデオ界はビデ倫理の審査が厳しくソフトな表現のレンタルAVよりもモザイク薄消しなど過激さ売りとしたセルビデオが主権を握るようになりました。
アダルトDVDは1本4000円近い価格なのでレンタルビデオ代の10倍くらいという高額さ。しかし、レンタルでは見られない薄消しで最高のGをするためになけなしのお金をはたくのでした。
当時、セルビデオ店でパッケージを眺める時間は会社での嫌なことを忘れ無心になれる時間でもありました。

平成8年に家庭用DVDプレイヤーが発売されるとアダルトソフトもビデオからより高画質なDVDが主流に変わり、セルDVDの時代へ。
あらゆる新しい映像メディアはアダルトソフトによりニーズが高まっていった気がします。
DVDは高画質な上に収録時間も長く、チャプター機能で頭出しも楽で、あのわずらわしいビデオの巻き戻しの手間がないという利便性やマルチアングル機能などビデオでは出来なかった新たなAVの楽しみ方を生み出しました。
セルDVDを扱うお店は人気AV女優の店舗イベントなどもスタートし、顧客を掴んでいきます。

しかし、平成10年7月にDMM動画配信をスタートすると、アダルトメディアは徐々にネットビジネスへと移行し、隆盛を誇ったセルDVD店は減少傾向へ。
世間的にもパソコンが普通に家庭で使われるようになり始めた時期でもあります。
配信が上手くいった理由はいくつかあると思いますが、やっぱりアダルトなソフトを買ったり、借りたりしにお店へ行くことには多少の後ろめたさがあったし、店舗に行く手間がないことが大きかったと思います。
家庭用wifiの普及でネット環境が整ったことも配信普及の後押しをしています。

雑誌メディア最後のかがやき

平成10年、雑誌メディアでは月刊シリーズの刊行がスタート。一人の女優をモデルとしたセミヌード、ときにはフルヌードの写真雑誌をリリースし、これが人気を呼び、137号まで続きます。
また翌年には「サブラ」というグラビア誌が小学舘から刊行され、スタイリッシュなグラビア写真で存在感をアピール。人気グラビアアイドルにつけ乳首を装着させた謎のセミヌードを連発。
とはいえ、それはそれでいろいろと妄想を掻き立てGには実用的でした。

そして、FANZAへ

平成30年、DMM.R18FANZAに名称を変更します。自分がFANZAを利用するようになったのはamazon FireTVを使い始めたのがきっかけでした。
家のテレビでリモコン一つでAVが観られるこんな簡単なサービスがあるとは。
セル店で棚を眺める楽しみがなくなるのと同時にパソコンでの作品選びの熟考が始まりました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集