トゥルーマンから考える現代消費社会

 人生のすべてをテレビのリアリティショーで生中継されていた男(トゥルーマン)を描いたコメディドラマ。保険会社で働きながら、しっかり者の妻メリルと平穏な毎日を送る。実はトゥルーマンは生まれた時から毎日24時間すべてをテレビ番組「トゥルーマン・ショー」で生中継されており、彼が暮らす町は巨大なセット、住人も妻や親友に至るまで全員が俳優なのだ。自分が生きる世界に違和感を抱き始めた彼は、セットからついに脱出する。このトゥルーマンという映画から現代消費社会を考えていく。

トゥルーマンは自分の生きる世界に違和感を抱き巨大なセットから脱出したが、果たして彼の行動は本当にtrueだったのか。彼は外の世界へと足を運んだが、その後の人生で彼の望む自由は手に入ったのか疑問を抱かざるを得ない。なぜなら自身のメディア化は現代消費社会では避けられないことだからだ。
 トゥルーマンは違和感を抱く前までは製作者側の意図する通りに動いていた。製作者側は彼が海外に行くことができぬようトラウマを植え付け、彼の周りの人間全てに指示を出していた。この光景は私たちの実生活からも見られる光景だ。特にスマホ間コミュニケーションを得意とする若者は顕著に感じるだろう。InstagramやYouTubeでも私たちの興味のありそうな投稿や動画ばかりが表示されるようになっている。ライアン教授は二〇〇一年に刊行した著書『監視社会』(河村一郎訳、青士社)でこう書いている。
〈今日、監視は、日常生活の多くの領域で作動しているので、仮にそう望んだとしても、それを避けることはできない。私たちはまさしくメディアに包み込まれている。社会的な出会いの大部分、経済的なやり取りの事実上すべてが、電子的な記録・チェック・認証の下にある。〉
 つまり私たちはもはや監視から逃れることは不可能なのだ。私たちはメディアに囲まれ記録されている。そして監視側は私たち各個人に適した情報のみを与える。その情報から取捨選択し行動に移す。私たちは、まさに真実に気づく以前のトゥルーマンなのだ。また、ジョージ・リッツアは『消費社会の魔術的体系』の中でこう書いている。
 〈ディズニーは何よりも遊園地をきれいにし、ほとんどの初期遊園地よりはるかに「道徳的な」秩序を創り上げ、家族向けの娯楽場として受け入れられるようにして、遊遠地の世界を変貌させた。ディズニーは初期遊園地を弱体化させたような問題をもたない、管理された自己完結的な環境を提供した。(中略)ディズニーワールドは外部の要求にしたがうことを重視する新しい道徳を創り出した。〉
 ディズニーランドやディズニーシーではディズニーと関係のない宣伝はされない。夢の国という監視員は私たちが着実に夢の国へと入り込んでいくように仕向け、入り込んだ人々はグッズを買い、夢の国内を楽しむことで、自身をメディア化し周りに宣伝しているのだ。私たちが着る服もそうだ。服という商品を着て歩くことはある意味、自信をメディアとして宣伝している。その人の信頼度によって宣伝効果は変動していくのだが。トゥルーマンも無意識に自身をメディア化していた場面があった。芝刈り機などはいい例だ。宣伝でなければあれほどアップして芝刈り機をわざわざ映さないだろう。
 しかし、メディア化することはそれほど悪ではない。トゥルーマンの妻や友達は気づいていながら宣伝していた。妻は突然ココアの宣伝をしだしたし、友達はいつもビールをもっていた。彼らは消費社会を理解した上で消費社会の一員となっているのだ。
 そして映画トゥルーマンの最後のシーンは警備員がテレビのリモコンを手に取り別の番組を探すシーンで終わった。このシーンから自分の生きる世界に違和感を抱き巨大なセットから脱出したトゥルーマンだが、彼の望むような監視抜きの社会は現代社会を生きていくのであれば存在しないのではないのだろうか。テレビを視聴する者たちのように一つの秩序が終わればまた新たな秩序を自ら探していくのだろう。現代消費社会から完全に抜け出すことはできないが、彼がこの事実に気付いたことはtrueなのかもしれない。

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