「美しい」の研究報告(4月)
Taste
Kabi
4月のある週末、東京・目黒にある「Kabi」に訪れた。Kabiはコペンハーゲン帰りのシェフとメルボルン帰りのソムリエが日本帰国後、2017年に立ち上げたレストラン。北欧の風がほんのりと漂う店内は、海外のカジュアルダイナーのような活気があり、その場にいるだけでの異国の地に来たような気分になる。この日はチーズサンドとワインのイベントだったので、それらを一つずつ注文し頬張った。春の陽気と店内の活気ある雰囲気、それらが溶け合う空間で食事するのはなんとも幸せで沢山のエネルギーをもらえる。食事を終えて、頬をちょっぴり赤くして、足取り軽やかに家に帰る。そんな帰路を含めて美味しい週末の昼下がり。
📍 Kabi
Time
スローな春の時間
4月。桜が咲くこの季節は、一気に街の雰囲気が華やぐから好きだ。冬の寒さで強張った頬がほろりと解けて、美しい桜と青い空を見上げることに夢中な人でいっぱいになる。そんな人を見つけてはこちらも幸せな気持ちになる春。
そんな春の暮れに「日本の四季を、美味しくいただく。春。」という食のイベントを開催した。旬の食材や魚を使った創作和食と寿司をいただきながら、大切な人と今年の春を振り返る、そんなイベントだ。
このイベントの前身として、昨年末「二〇二三年を、美味しくいただく。」を開催した。そこでは美味しい料理をいただきながら、この一年を振り返るという時間を過ごしたのだが、一年を振り返るに比べて、たった4ヶ月間の春の季節を振り返るというのは、日頃なかなかする機会がないぶん難しい。
あまりにもファストな世の中で日々忙しく生きていると「気付いたら春が終わってた」「この春何したっけ?」と毎年当たり前のように呟いている気がする。それでも、私達は日々何かを手放す代わりに新しい何かに出会い、たった数ヶ月であっても確実に前に進んでいる。なのに、何をしたのかちっとも思い出せない。
先日、「茶の湯の銘 季節のことば」という本を読んだ。その本で紹介されている春を表現する季語だけでも数十種類あるのに、自分たちの過ごした季節を私達はいくつの言葉で表現できるだろうか?
別に、一つ一つの出来事に想いを馳せなくても生きていけるけど、小さくも前に進んだ自分の道のりを眺め愛する時間はきっとこれからの自分の背中を押してくれるはず。ファストな世の中に抗うように、この一瞬この一日を丁寧に味わう機会があってもいいんじゃないか。
忙しない時間から距離を置いた、穏やかで美味しい時間が流れる場作りを、支えてくださる様々な方と共に、これからも創り上げていきたいと改めて感じた有り難い時間でした。
All photo by @ayatogram01
Product
BYREDOの香水
何か転機を迎える時、いつも相棒として新しい香水を購入する。香水は私にとって日常に彩りを加えてくれるだけでなく、なりたい自分に自分を連れて行ってくれる存在だ。数年前に購入したこのBYREDOの「GYPSY WATER」は、念願だった東京生活を自らの意思で手放し、地元大阪に帰ることを決めたときに選んだ香り。「ジプシーウォーターは、ロマニー文化の美しさ、独特の習慣、奥深い信仰、他とは違う生き方への頌歌です。この香りは、生まれながらのノマディズムがもたらした色彩豊かなライフスタイルへの夢を呼び覚まします。(BYREDO公式サイトより引用)」GYPSY WATERにはそんな意味が込められている。一つの場所に留まらず、様々な場所で遊牧民のように自由に大胆に生きる自分でありたいと選んだことを思い出す。空になった香水の瓶を見つめて、購入した日からの数年間、必死になって走り続けてきた自分の足をそっと撫でてあげたいと思った。
📍BYREDO「GYPSY WATER」
Book
自分の中に毒を持て
「農作業でも、コンピューターの操作でも強制された労働としてやれば苦役だが、自由な「遊び」として創造的に取り組む限り、それはよろこびだ。言いかえれば、人生、即、芸術。(自分の中に毒を持て/岡本太郎)」
学生時代に読んだバイブル本を再び読み返すというのにハマっている今日この頃。いつ読んでも心に炎を灯してくれる岡本太郎のこの言葉を今日は紹介したい。昔から本を読む時、響いた言葉に線を引くのだが、過去の自分が線を引いた言葉と今の自分が線を引きたい言葉にはとても差分があることに気付く。例えば、昔は「こんなの当たり前でしょ」と思っていた言葉でも、今の自分を救う言葉になったり。そういった意味では、再読は過去の自分に対峙し、自分を救う時間とも言えるかもしれない。
📍 自分の中に毒を持て
Other
言語が性格をつくる
4月は、予定が重なり東京と大阪とを行ったり来たりすることが多かった。関西出身の私は、会う人に合わせて標準語と関西弁を使い分けて会話しているのだが、それぞれの言語を使うとき違う人格の自分で話していることに気付く。標準語の自分は何より調和を重んじていて、関西弁の自分は調和よりも本音を大事にしている。どちらの自分も好きであるが、言語が自然と性格を作っているのが面白いなあと思う。他の方言でも同じことが言えるのだろうか?言語の持つ力についてより深く知りたいなあと思うなど。
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