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「体験話」が多いと、何故だか軽くて、「経験話」ばかりだと、重たくなるのには、ちゃんと理由があるのです。

新橋の片隅の雑居ビル。
細くて急な階段の3階だったか、それとも4階だったか。
横長の薄暗い店の中、9つのイスが並ぶカウンターを
スポットライトが照らしている。
先客は左に続く一番奥の席、L字型の2つの椅子を
占領している、いわくありげなカップルだけだった。

入社以来、持ち前のガッツと明るさ、そして実績なき自信で
清く正しく、社会人として成長していた2年目の夏のこと。
新人ながらも大型案件を受注したことで有頂天だった私。
生意気な天狗になりそうな若者(⇒私のこと)の指導、
はたまた訓戒を与える洗礼の場として、
課長が選んだのが、その店だった。

「二人で飲みに行こうか」と
いつもとは違う雰囲気に、生意気がちな最近の言動に
ご意見されるのだ、と薄々気づいてはいたけれど、
これもサラリーマンの通る道だと割り切って、
課長の後ろについてきた。

いかにも40代の課長クラスが出入りしそうなバー。
大人の世界にちょっとワクワク気味の私、
自分のおかれている立場など、どこかへ吹き飛び、
目下の興味の大半は、奥の怪しげなカップルとなっていた。

カウンターのちょうど真ん中あたり、
メニューも見ずに、ターキーのダブルを課長は注文した。
バーボンが初めての私は、I・Wハーパーを勧められた。

さて、件のカップルといえば
私より3~4歳ほど年上のサラリーマンだろう。
ガッチリタイプで正統派体育会系の雰囲気。
劣等、不良の道に逸れず、素直に大人になった感じがする。

眼を引いている、いやクギ付けにさせているのが
隣の女性。
テーブルの照り返しで見える、鮮やかな赤い口紅と白い頬。
袖なしのブラウスから伸びた、細くて白い腕。
それらのパーツだけでも、イイ女だと確信できた。
話しぶりから察するに、彼より3~4歳年上の先輩とみた。
彼女の人生になにがあったか、想像するに及ばないが
なかなかのオーラを放って、貫禄さえもうかがえる。

それまで、聞き役だった彼女の話す声が
途切れとぎれに聞こえだした。

右どなりの課長は、バーボンをチビリとやりながら
組織の一員として、わきまえるべきこと
仕事のすすめ方、若手社員として望まれる姿勢・・・など
自らの経験を交えながら、横顔で私に語ってくれている。
しかし、
残念ながら、まったく耳に入ってこない。

課長のありがたい訓話に、適当なあいづちを打ちながら、
左の耳では、イカした姉さんの声に周波数を合わせていた。
彼女の語調がだんだん厳しくなると、
私の左耳のダイヤルは、
彼女の言葉を完全にロックオンした。

ふいに彼女が提起した命題、
それが「経験」と「体験」の違いについて・・・だった。
彼女の繰り出す言葉の一々に論破され、
納得させられて、委縮しだした体育会系後輩クンは、
もはや、私自身の姿に見えた。

彼女曰く
人生であなたが「経験」だと思って過ごしてきたものの
大半のものは「体験」でしかない。
「経験」は漠然と値で示されるもの、
深さだったり、幅だったり、他人に説明しにくいものだ。
と断じている。
一方の「体験」は、数で示されるもの。
深さや幅はない。という。

そこには、感情に任せた
大いなる偏見が含まれてはいるものの
観念的な事柄だからか、感情を込めた言いように、
どういう訳か、私の心の真ん中をグサリと突かれた。

若造扱いされて、むかついたのか
反論しだした体育会系後輩クン。

仕送り負担を無くすため、自宅から通える大学に進学。
学業に、クラブ活動に、そして恋愛にと
それなりに充実した青春時代。
アルバイトの苦労ばなし。
肉体労働、工場作業、レストラン、バーテンダー
様々な職業は、彼の視野を広げてくれた。
稼いだお金で挑戦した、ひとり旅。
国内だけでなく、挑戦は海外へも広がったという彼の話。

まったくもって、似たような人生を歩んできた私。
様々なことにトライして、経験を積みたかった。
まるで、そんな自分にダメ出しされているような。

『あんたが積んできたっていうのは
 「経験」じゃない、「体験」なのよ』

自らの心身が傷ついてしまうことを厭わず、
本気で取り組む行為、
その本気の度合いが「値」であり、「幅」なんだと。
そして、そこから学びや気づきを得られたものが「経験」、
安全が確保、約束された状況で試みる行動は、
すべて「体験」だという。
彼女によれば、
初体験、アルバイト、スポーツ、旅行、肝試し、ともだち
などは「体験」だという。
ひとり旅は、結局のところ肝試し程度のものだと一蹴した。

恋愛、結婚、初キッス、就職、離婚、出産、犯罪、親友…。
逃げ道を絶って、それに本気で臨むと決めたとき
「経験」のドアが叩かれる。
でも、それがすべてじゃない。
失ったとき、手に入れたとき、
断念したとき、向きあったとき、
傷ついたとき、疲れ果てたとき、結果として
くちゃくちゃになった金箔のようなものが残る。
いろんな感情の波が過ぎ去ったあと、
破れないように優しく、シワを丁寧に伸ばしたら
薄っぺらいそれを心のすみっこに大切に重ねること、
それを「経験」を重ねるという。といった内容だった。

『最近は「経験値」がないくせに「体験数」を語る
 薄っぺらい男が多すぎなんだよねェ~』

なんていいながら、からになったカクテルグラスを
マスターのほうへスライドさせて
ギムレットのおかわりを催促した。
真っ赤な爪が印象的だった。

大人のイイ女が発する
毒舌めいた、まっとうな話は
その後、延々と連なる私の人生の
欠くことのできない、モノサシであり指針となった。

隣の課長が、いらだたし気に3杯目のターキーを
ワイルドに飲み干した。
うわのそらの部下に対する、怒りの表現だったろう。
I・Wハーパー。
ほのかに甘いとうきびのかおりがする。
氷の解けきったグラスを傾けて、飲み干した。
舌に残る後味は、やけに苦かったように記憶する。

あの店に連れて行ってくれた、課長の名前も
店の名前も全部忘れちゃったけれど、
あのイカシタ姉さんの、カクテルグラスに残った
口紅の色は、今でも思い出すことあるんだよなぁ。



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