記憶の消しゴム

別れた元彼の事が忘れられないなんて最低だ。

目玉が飛び出るくらい点数が低かったテストの点なんてそれ自体はただの数字で無意味だ。

友達を誘ったLINEの返事が来るかを気にしてる時間は馬鹿だ。ちょっと楽しいのは否定しないけど。

記憶の消しゴムを手に入れてからはクヨクヨする事が殆どなくなった。消したい記憶を強く思い浮かべながら強く擦るだけ。字を消し終える頃には、どんな気持ちだったのかすら忘れてしまっている。

夕暮れの教室に一人。放課後。頬には涙の跡。
ここにいる理由すら思い出せないって事は、相当嫌な気持ちになってここに来たんだろう。
また何か嫌な事があったのか、そんな事を考えるとそれ自体にげんなりしてしまう。まぁ気にしても覚えてないものはしょうがないよね。

教室のドアがガラガラと音を立ててスライドした。入ってきたのは橘。クラスメイトで、お調子者の雰囲気イケメン。目があったら挨拶をする程度の仲だと思っている。

「薫、一緒に帰ろう!」

……一緒に帰ろうなんて話をした覚えはない。
もしかしてその約束をさっき消したのかな?えっ、そんなに嫌だった……?いやいや、そんな些細なことで使っちゃいけない事ぐらいわかっているつもり。多分。

「ムーランで出た新作出たらしいよ!食べてこうよ」

ムーラン?店の名前にも聞き覚えがないし、この感じ、一緒に行く事が少なくとも初めてではなさそう。もしかして私達は付き合っていた……とか……?でも彼の事をただのクラスメイトだと思ってるってことはつまり別れたってこと?頭の中が疑問符で埋まってしまいそうだ。一旦整理しよう。いつも通りやれば大丈夫の筈。

記憶を消すに当たってのルールがある。これはあくまで私が自分で決めたものだけど、これまではそうやって上手くやってきた。

1. 消した記憶について後腐れがない状態にする事
1'. 原則記憶を消す場合は1人の空間を確保する
2. 1番目のルールを完遂したら、それを自身にしかわからないルールで記録する。私の場合は髪型をポニーテールで縛っておく事。
3. 消した記憶について何かあっても取り合わない事

例えば、人からお金を借りたのにその記憶を消してしまっても自分が困るだけだ。どんなに本気で覚えてないと言っても周囲は覚えているし、契約書のようなものがあれば、身に覚えの無い借金を返す羽目になってしまう。

そして、1番目のルールさえ守ってさえいれば、記憶を消した事を他人に悪用されたとしても問題はない。

問題は過去の自分をどれだけ信用できるかという事。なので2番目のルールで自分を守る。言ってしまえば記憶が消えた無防備な自分を守る要だ。

閑話休題。

直ぐに返答が返ってこないこちらの態度を少し訝しんでいるようだ。ここで私がするべき事は、消えてしまった記憶に関わらず意に解さないこと。適当な事を言ってこの場を去ってしまおう。

喋ろうとする直前の一呼吸目、何の毛無しに無意識で髪を耳にかけようとしたところで、髪が縛られて無い事に気づいてしまった。

マズいマズいマズい。
何か記憶を消す際に自分の想定外の事態が起きてしまっている。そしてそれはほぼ間違いなく目の前の優男に関係している。なぜ私はルールを守らずに記憶を消したのか。私達はどう言う関係なのか。相手は後半年は同じ空気を吸って過ごさなきゃいけない相手で人気者だ。過去の自分が背中を押してくれなくなった今、何をしてもまずい様な気すらする。

落ち着け。記憶がないままに適当なことをやってしまっても墓穴を掘るだけだ。一旦時間が欲しい。何よりも状況を整理したい。でも整理する記憶もないのに。

「どうしたの?もしかして今日は体調悪い……?」
「え、いや宿題とか大丈夫だったかなーってちょっと思い返してただけ!いこいこ!」

いつもこうだ。つい人の顔色を窺ってしまう。そんな自分が嫌でしょうがない。けれど消しても良い記憶だったと、そう安心させてくれる筈のポニーテールは今はない。なんにせよ様子を伺うほか無くなってしまった。ウンザリする。

肌に張り付くような湿気を含んだ生ぬるい風が頬をなぜる。暮れなずむ夕日をバックに私と橘君は1台の自転車に乗ってムーランに向かっていた。そもそもムーランって何の店だろう。名前の響きからするに小洒落たケーキ屋か何かだろうか。というより、手招きされるままに荷台の上で荷物のフリをしているが、やはりこれはそういうことなのだろうか。向こうはどうか計り知れないが、こちらからすれば話した事が数回ある程度のクラスメイトだ。腰に手を回す事すら憚られるので、荷台から懸命に落ちないようにしがみついている。優雅なカップルの登下校というよりは、平衡感覚を鍛えてる心持ちだ。店までの距離が短い事を祈りながら、人に合わせてしまう自分の性質を恨みがましく思った。

何を道中話したか。考えを纏めるのに必死で生返事しか出来なかった。到着した先は落ち着いた雰囲気のカフェだった。カップルの憩いの場というよりはどちらかと言えば秘密の隠れ家といった佇まいだ。思わず好みの外観に頬が緩みそうになってしまった。危ない。これは恐らくこの店に来るようになった一因が私であるということだろう。

予想に違わない落ち着いた雰囲気の店内に、客は私達だけの様子だった。店主と思われる壮年の男性はこちらを見ると頬を緩め、軽く会釈した。慣れ親しんだ挨拶という奴だろうか。後頭部にある筈のポニーテールが無いというだけで、自身の一挙一投足がこんなにも不安になるなんて。

席についてからも、橘君の様子を伺ってみる。下手なアクションを起こすのではなく、相手に任せてしまおう。レッツ無責任。

奇妙な事に彼は何かを言い出そうとして、躊躇して口を噤む様な動作を繰り返してる。

ここに来て、荷台上で考えを纏めた上でこの状況。薄々彼がどんな話を切り出そうとしているかは察しがつく。それは所謂復縁話という奴なのではないか。彼に関する記憶がなく、記憶を消す直前に泣いていたらしい私。そして彼のこの態度から察するに、私が彼の事を振ったんじゃないだろうか。いつの間にそんなやり手になってたんだ私。そう考えると色んなことに説明がつく気がして、気持ちが楽になった。

でも……なぜ私は髪を縛っていなかったんだろう。これは今後、記憶を消すにあたって無視できない問題だ。彼には記憶を消したことを悟られない様丁寧に接しつつ、諦めてもらおう。寧ろこの雰囲気イケメンとお世辞にも華々しいとはいえ無い私が何故付き合う事になったのか。なんなら全て私の勘違いということもあるんじゃ無いだろうか。

「あの……っ!」
「……はいっ!」
「薫はさ、俺たちの関係ってどう思う?」
「えっ……そうね……」
「いやこんな事いって突然ごめんね!でも俺、何か悪い事しちゃったかなって不安になって……」
「いえ、特にそんな……」
「そっか……ならいいんだ、ちょっとそっけなくされてる様な気がしてさ……」
「折角今度二人でディズニー行くって前に、仲悪くなっちゃったら嫌でさ。ごめんね?面倒くさい事いっちゃって。」

えっ今なんて……?

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多分続く

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