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【ショートショート】「何のこれしき病」
最近、中高年の男性に患者が急増しているのが「何のこれしき病」である。これは、過度の悲哀が原因の病気である。この病名の基になったのは、杉田誠一の事例だった。
杉田誠一は、周囲から「何のこれしきの男」として知られていた。彼の口癖は「何のこれしき」。どんな困難にも屈せず、笑顔で乗り越える姿は、上司や同僚からも一目置かれ尊敬されていた。また家庭でも、妻と子がおり、郊外にマイホームも建て、いわゆるふつうの幸せな生活を送っていた。
ある日、新たなプロジェクトが発足し、誠一はリーダーに任命された。そのプロジェクトは社運を賭けた大規模なもので、失敗は許されない状況だった。誠一はプレッシャーを感じつつも、笑顔で言った。
「何のこれしき。お任せください」
誠一に任されたプロジェクトは、駅前の再開発だった。会社は、大規模な人工知能(AI)システムと最新のエコ技術を駆使して、持続可能な都市を創造する計画を立てていた。これには、スマートホーム、電気自動車の充電ステーション、環境に優しいエネルギー供給システムなどが含まれていた。
「杉田君、このプロジェクトが成功すれば、わが社は一躍世界のトップに立つ。失敗は許されない。君を信頼して委ねたんだ、頼むよ。無事に成功すれば、君にはもっと重要なポジションで働いてもらいたいと思っているんだから」と上司の上野が声を掛けた。
「何のこれしき。必ず成功させます」誠一は自信満々に答えたが、その胸の内は不安でいっぱいだった。
プロジェクト開始後、次々と問題が発生する。予算の不足、技術的な障害、そして地元住民からの反対運動。誠一は毎日遅くまで残業し、何度も現場に足を運んだ。しかし、問題は山積みだった。
プロジェクトがスタートしてすぐに、予算の不足が明らかになった。誠一は会社の財務部と何度も交渉を重ねたが、追加の資金を確保するのは難航した。会議室で、財務部長の植田が厳しい表情で言った。
「杉田君、予算の追加は難しい。何とか現状でやりくりしてくれ」
誠一はため息をつきながらも「何のこれしき。工夫してみます」と答えた。
最新のエコ技術を導入するため、技術チームとの連携が必要だったが、新しいシステムのインストール中にトラブルが発生した。技術部長の堀田が焦りながら報告する。
「杉田さん、AIシステムが予期せぬエラーを起こして、全体の稼働が止まってしまいました」
誠一は冷静に対処しながらも、「何のこれしき。すぐに解決策を考えましょう」とチームを鼓舞した。
地元住民からの反対運動も大きな問題だった。開発計画が住民の生活環境を変える恐れがあるとして、連日抗議が続いた。ある日、誠一は住民説明会で激しい抗議に直面した。
「私たちの生活を壊すつもりですか?」と一人の住民が叫ぶ。
誠一は落ち着いて答えた。「何のこれしき。皆さんの意見を真摯に受け止め、最善の方法を見つけます」
誠一は地元住民との対話を重ね、彼らの意見をプロジェクトに反映させる努力を続けた。しかし、反対運動は収まらず、メディアにも取り上げられ、会社の評判にも影響を与え始めた。
家庭でも問題が発生する。新しいプロジェクトのため、ずっと長時間、家に帰ってきても誠一は仕事漬けだった。それが原因で、妻の亜美との間にどんどんと亀裂が生じていた。ある晩、誠一が帰宅すると、亜美が泣いていた。
「誠一、もう限界よ。私も子どもたちも、あなたとの時間が欲しいのに」
誠一は言葉に詰まりながらも「何のこれしき。もう少しで終わるから」と答えたが、亜美の目には冷たい光が宿っていた。
誠一はプロジェクトの進行に全力を尽くしていたが、上層部の中には彼をねたむ者もいた。ある日、信頼していた同僚の今池が裏切り、重要な情報をライバル企業に漏らしたことが発覚する。プロジェクトは大打撃を受け、誠一は困惑する。
今池は冷笑して言った。「何のこれしき杉田誠一。君のような理想主義者には理解できないだろうが、ビジネスは生き残りが全てだ。お得意の、何のこれしきで乗り切ったらいいじゃないか」
「何のこれしき。ここから這い上がってみせるさ」と誠一は虚勢を張った。
プロジェクトの困難が続く中、誠一の健康状態も悪化していった。連日の長時間労働とストレスは、彼の体に深刻な影響を与え始めた。頭痛やめまい、体のだるさが日常的になり、ついには過労で倒れてしまう。
ある夜、誠一はオフィスのデスクに向かっていると、突然視界がぼやけ始めた。額に冷や汗がにじみ、全身から力が抜けていくのを感じた。
「杉田さん、大丈夫ですか?」意識を取り戻したとき、病院のベッドに横たわっていた。看護師の心配そうな顔が見えた。
「何のこれしき」誠一は微笑もうとしたが、その声は力なくかすれていた。
入院中、会社の上層部からプロジェクトリーダーから外すことを告げられた。
誠一が退院すると、彼のデスクは、元の部署にはなくなっていた。誠一は心身ともに打ちのめされた。
上司の上野が無情に告げた。「杉田君、体調が悪いんだから無理をしないで、しばらく休んでくれて構わないよ。ここに君の席はもうないが、体を大事にしなさい」
「何のこれしき。体調はもう大丈夫ですが、そのようにします」誠一は消えそうな声でそう言うと、静かに部屋を去った。
休職によって、家族と過ごす時間が増えたが、問題は深刻化していた。亜美は誠一の健康を心配しつつも、プロジェクトの最中に彼との時間を奪われ続けたことは、忘れられず、かえってこの状況で、誠一といる時間が耐えられなくなっていた。
ある日、亜美が子どもたちとともに荷物をまとめて、誠一に言った。「もう限界なの、誠一。私たちはあなたを愛しているけど、このままでは家族が壊れてしまう」亜美の声は涙で震えていた。
「何のこれしき。待ってくれ、必ず立ち直るから」誠一は懇願したが、亜美の決意は揺るがなかった。
「もう何のこれしきじゃ済まないの。さようなら、誠一」亜美は子どもたちを連れて家を出ていこうとした。
「何のこれしき。おまえたちが出ていく必要ない。悪いのは、私だ。だから、私が出ていく」
家を出た誠一は、最初の数日ネットカフェで過ごし、その後すぐにワンルームを借りた。
「何のこれしき。また家族で一緒に暮らせるように、まずは職場に復帰しないと」と、誠一は気合が入った。
しかし、休職が明けて職場復帰を果たすも、会社では部署も変わり立場も悪化し、ついには解雇を言い渡される。
誠一は、解雇を受け入れ、失意の底にありながらも、失業保険をもらいながら就職先を探すことにした。
しかし就職活動中に、亜美から「もう、お互いに別々の道を歩みましょう」と言われ、離婚することになる。
誠一は、失意の底に沈んだが「何のこれしき。人生まだまだこれからだ」とさみしく言い、ワンルームで気を確かに持った。
失業保険が終わる頃になっても、正社員としての就職口はなく、誠一はスーパーの品出しのアルバイトで生計を立てていた。日給はわずかだったが、何とか食いつないでいた。しかし、体調は相変わらず悪く、仕事中も頻繁に体が震えることがあった。
ある日、誠一はバックヤードで商品を整理していた。急にめまいがし、視界が暗くなった。
「杉田さん、大丈夫ですか?」店長が駆け寄る。
「何のこれしき」誠一はつぶやいたが、そのまま意識を失って倒れた。
救急車で病院に運ばれた彼は、医師から深刻な過労と栄養失調を指摘され、再び入院を余儀なくされた。ベッドの上で、誠一は全てを失った自分を振り返りながら、涙を流した。
かつての「何のこれしき」は、今や自分を奮い立たせる言葉ではなく、痛烈な皮肉として彼の心に突き刺さっていた。
1カ月後、誠一は退院した。先に勤めていたスーパーは、入院による長期の休みが認めてもらえずに解雇されていので、新たにドラッグストアで品出しのアルバイトを始めた。
ある日、誠一がドラッグストアで品出しをしていると、突然、背後から声が掛かった。
「杉田さん?」
振り返ると、そこにはかつてのプロジェクトで共に戦った同僚が立っていた。
「杉田さん、痩せたんじゃないですか。」
「何のこれしき。元気だよ」
聞けば、彼は会社を辞めて、今は独立して都市開発の一端を担う会社を経営しているという。
「うちの会社に来ませんか。経験のあるベテランがあまりいないので探していたんです。杉田さんさえよければですけど」
「何のこれしき。私でよければ力になるよ。ぜひお願いします」誠一は驚きと喜びで胸がいっぱいになった。
その夜、新一は、新たな希望の光を見つけ、いつ以来だろうか、心地よく眠りにつこうとしていた。その時、誠一の視界が再び暗くなり、意識を失った。
目を覚ましたとき、誠一は病院のベッドにいた。医師が冷静に告げた。
「杉田さん、検査の結果、脳に重大な問題が見つかりました。かなり危ない状況です」
誠一は、がくぜんとしながらも、微笑んだ。「何のこれしき」
彼の人生は、最後の瞬間まで「何のこれしき」という言葉に支えられながら、終わりを迎えようとしていた。そして、その言葉は、彼の全ての困難を象徴するものであり、同時に彼の生きざまそのものであったのだった。
これが「何のこれしき病」の由来となった事例である。近年、このような過度の悲哀が原因で亡くなる方が急増している。治療法は、現時点では対症療法のみである。くれぐれも皆さんお気を付けください。
(あかみね)