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〈この荷物は自動で配送されます の件〉


某運輸に勤めていた時を懐古する。
さくらんぼ最盛期、6月の東根。
お中元の配達と重なるこの時期は、凄まじい繁忙期となる。
何百件の集荷に何百件の配達。2tトラックに隙間なく目一杯詰め込んだ小さな箱のさくらんぼ。
全身に蕁麻疹が出ても、身体を動かし続け走り続けた日々。
暑さのあまり配達先の軒先で倒れた先輩や、突然来なくなった先輩もいた。
毎日クタクタで、寝ても疲れが取れず、ジリ貧になっていく体力。
集荷先から頂くさくらんぼでなんとか水分補給しながら毎日ぎりぎり攻め続けた。
あの地獄の日々は私を大きく強くしてくれたので、絶対に忘れない。

そんな目まぐるしい午前中の配達で、ふと一つの箱に印刷されていた文字に目が止まった。

「この荷物は自動で配達されています」

定期便なのはわかる。言いたいこともわかる。
だが、やっぱわからない。
配達者の存在が消えていないか。
自動で配達される訳がない。
配達している人がいるから配達されるのだ。
配達の辛さや苦しみが全て無かったものになっているような気がして、どうも腑に落ちなかった。

世界が全て自動だったら、喧嘩も争いも起きず、程よい共産(社会)主義世界が出来上がるのかもしれない。

しかし日本に於いては、法律の基に、個人の自由と経済の自由が認められる 民主主義社会。ある意味、様々な整合性を取らなくてはいけないから、自動とは遠くかけ離れた社会構造なのだと思う。

この国の政治は、自動ではない。
何もしなくても、投票に行かなくても、興味関心が湧かなくても、自動でこの国は運営されているような気分になる。

住んでいる町の政治も同じように、なんだか自動でまちづくりが行われている様に感じる。興味も無いし、このままなんとなく同じで良いや。と。

そして、時代と時間の流れに取り残された時に気づいても後の祭り、取り返しがつかないことになっていくのだと思う。


政治が自動?
んなわけない。
その勘違いが、すべてを狂わせて行ってしまう。

政治を揺さぶる行動は、
投票行動か、立候補行動
私たちにできるのは、その二つだけなのだ。

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