9年間片思いをしていた人に振られて東大再入学を決意し、どうにか入学を果たし二度目の告白をして再び振られた話
〈長年片思いをしていた方のツイッターアカウントを偶然に発見して告白のDMを送りつけた結果あえなく振られ、そのショックから東大への再入学を決意してキャバクラで働き学費を貯め、どうにか復学を決めて上京し1年越しに2度目の告白を実行した結果、ふたたび振られるまでの話です。〉
(約1万8千字、読むのにかかる時間:約20分)
◼︎人生でいちばん切実な出来事
15歳の夏、私はある女性を好きになりました。
その人は「影山優佳さん」というアイドルの方と顔立ちがそっくりだったので、ここでは彼女の名を仮に「影山さん」としたいと思います。
影山さんは私が6年暮らした教団施設(T県の某園)のひとつ上の先輩で、ハーフアップの髪型が似合うとても綺麗な人でした。初めて会話をしたとき、彼女はしっかりと私の目を見ながら優しい相槌を打ってくれて、すごくドキドキしたのを覚えています。
そんな影山さんのそばで毎日を過ごすうち、私はだんだん彼女の存在が気になるようになり、気がついた頃には頭の中が影山さんでいっぱいになっていました。
影山さんが経典を朗読するときのやわらかな声、機嫌がいいときに唄う鼻唄、教祖に向けて祈る姿など、彼女の振る舞いのすべてを私は美しいと思いました。後ろ姿を見ているだけでも背筋に甘美な戦慄が走り抜けましたし、目線など合おうものならその日は一日中嬉しくてたまりません。施設で相部屋になった友人は「寝言で影山先輩の名前を言うのはやめてよ。うるさいから」などと苦情を寄せてきましたが、恋情ばかりは抑えようがないので致し方ありません。
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さて、こうなってしまえば影山さんなしの人生など私には考えられませんでした。選ぶべき道は一つです。すなわち──教団に出家して教祖の秘書部門(教団のエリートコース)に入って、そこで修行を積んで宗教者として身を立てて、そうしたら影山さんに告白してお付き合いの許可を頂いて、その後はずっと影山さんと一緒に生きよう。そのときまで無欲に淡々と勉学に励もう。そう固く心に決めました。
教団で出世をするには東大を蹴って某C村にある“職員養成所”に入るのがいちばんの近道です。私は2年間(半分は教祖に喜んでもらうために、そして半分は影山さんに振り向いてもらうために)一日14時間ほど勉強する生活を続け、合格した東大や早慶、有名医科大をすべて蹴り、そのまま職員養成所に入所しました。(ちなみに東大には籍のみ置くことができました。後年この事実が私の人生を大きく変えることになります。)
入所式の日、総代として2000人近い信者の前で表彰を受けながら、私は教祖にすべてを捧げきったことを誇らしく思うと同時に、自分が影山さんへと着実に近づいているのを感じました。
◼︎教団を脱会、連絡を取る手段を失う
19歳の夏、想定外の事態が起きます。
私は教団を脱会せざるを得なくなったのです。
(詳細な経緯は他の記事に譲りますが)長い逡巡の末のある日、私は僻地の漁村にある職員養成所を夜逃げし、19年にわたる信者人生はあっさりと幕を閉じました。
脱会すれば一切の人間関係もそこで終了です。「悪魔にそそのかされた修行が足りない出来損ない」になった私は、およそ7年にわたり寝食を共にした友人たちから翌日中にはラインをブロックされ、同時に影山さんと連絡をとる一切の手立てを失ったのでした。
〈これまで自分は「教祖への信仰」と「影山さんへの憧れ」の二本立てで生きてきた。そんな自分が信仰という支えを失い、加えて影山さんと結ばれる可能性まで無くしたら、いったい何を頼りに生きていけばいいのだろう?〉──東京に戻って冷静さを取り戻した私はそんなことを考え、ほんとうに心の底から途方に暮れました。
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時間の経過とともに教祖への信仰は消えていきましたが、影山さんを好きな気持ちはむしろ強まる一方でした。脱会後、影山さんを思い出さない日は一日も(誇張ではなく本当に一日も)ありませんでしたし、どうにかして彼女と再会が果たせないかを私は考え続けました。
きつい夜職の仕事を終えて帰り道を歩いているときも、Uberの配達で自転車を漕いでいるときも、ドヤの汚い布団にくるまっているときも、日雇い仕事の休憩時間にも、私は影山さんを思い浮かべ、「彼女はいま何をしているだろう」と考えました。
「2世信者交流イベント」で影山さんが私に書いてくれたメッセージカードはポケットに入れて肌身離さず持ち歩き、何千回、何万回と読み返しました。(そのせいで何度も洗濯をしてしまい紙片はボロボロ、文面も4分の1は読めなくなりました。教団ゆかりの品は現在までにすべて処分しましたが、このメッセージカードだけは今でも手元にあります。)
樹海で自殺を図る前日に泊まった河口湖畔の旅館でも、沖縄で首吊りをする数日前、遺書を書くために滞在した残波岬のホテルでも、私は最期まで影山さんと連絡を取ることができないかを模索し続けました。
ただもちろん、共通の友人全員が教団関係者であり、彼らと私との繋がりが切れている以上、影山さんと再会する手筈が整う可能性はゼロです。再会を無駄に切望する日々は過ぎていき、気がつけば最後に彼女と会話をした日から7年が経とうとしていました。
◼︎7年後、影山さんのアカウントを偶然に発見。告白のDMを送りつけて振られる
どんな人の人生にも1度は奇跡のような出来事が起きます。私の場合、それは24歳の初夏に突然やってきました。
その年の春、私は沖縄の離島で服薬首吊りを図って失敗し、その後はしばらく那覇郊外の閉鎖病棟に入っていました。
もちろん病棟での療養生活は快適でしたし、生活保護の受給が決まるなど嬉しい出来事もあったのですが、とはいえその程度のことで希死念慮が消え去るなら初めから苦労はしません。
退院後、保護受給までの経緯をテーマにした文章を3日ほどかけて書き上げたとき、私は「死ぬなら今週中だな」と思いました。首吊り用のロープやお酒、導入剤は準備済みで、実行場所の公園もすでに目星をつけていました。(ちなみに当時の文章では希死念慮について触れていません。せめて「アライさん」の人生だけでも“ハッピーエンド”で終わらせあげようと思ったからです。)
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きっかけは1通のDMでした。
上述の文章をツイッターに投稿した日の夜、私のアカウントに温かなメッセージが届きました。送り主は教団施設で私と机を並べて勉強をしていた法友の方です。
教団内で「禁書」扱いされているらしい自分の記事がかつての親友へ届いたことに嬉しくなって、私はその方に心いっぱいの感謝を伝えるDMを返しました。そのあと、(とくに深い意図はないままに)その方のアカウントの「フォロー欄」を開き、なんとはなしに画面をスクロールしました。そしてその瞬間、懐かしい旧友や先輩たちのアカウントの並びのなかに、私は影山さんの名前を発見したのでした。
激しい衝撃に打たれて、私は叫びそうになりました。影山さんと連絡をとるための手掛かりが、7年のあいだずっとずっと探し求めていたものが、まさにいま手の届くところにあったからです。私が「アライさん」として生きた3年の日々はこの瞬間のためにあったのだと悟りました。
ただもちろん、この時点で喜ぶのは早計です。彼女のアカウントは鍵垢でDMも解放されていませんでしたし、おまけに他のユーザーとの最後のやりとりの痕跡は2018年頃のもので、長らく放置されたアカウントである可能性も高かったからです。
とはいえ、奇跡のような偶然が重なった結果知り得た彼女のアカウントですから、ここでフォロー申請を出さない手はありません。ブロックされたらどうしようという不安を押し殺し、私はほとんど祈るような気持ちで【フォローする】のボタンをタップしました。
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数時間後、フォロー申請が通り、おまけに影山さんからフォロバまでされていることに気がついたとき、私は驚愕と歓喜の感情で卒倒しかけました。
〈珍妙極まりない「けもフレなりきり垢」からのフォロー申請なんて無視すればいいのに、どうして影山さんはこんなに優しいのだろう?〉──7年ぶりに彼女の優しさに触れた懐かしさで、胸がぎゅっとなりました。表示された「フォローされています」の文字が愛おしくて、私はそれを眺めるために何度も彼女のプロフィールに飛びました。
さて、影山さんとFFになりDMが可能になった以上、もはや彼女とコンタクトを取らない手はありません。
〈フォロバまでしてくれたのだから、(「アライさん」の中身が私であることに気付いているかは分からないけれど)いずれにせよこちらにマイナスな印象は持っていないはずである。〉
〈仮にDMが無視されたり、(私の知っている影山さんはそんなことをする人ではないけれど)最悪ブロックされてしまったとしても、彼女に対する未練を引きずったまま死ぬよりはよっぽどマシだろう。〉
そんなことを自分に言い聞かせて気持ちを落ち着けたあと、私は国際通りのスタバのテラス席に陣取り、影山さんに送る文面の作成に取り掛かりました。しばらくの推敲の後、私が実際に送信したDMは以下のものになります。
1時間ほどしてスマホが鳴り、通知欄に彼女の名前が表示されたとき、カプセルホテルで横になっていた私は文面も読まないまま外へ飛び出して近所の公園まで走り、遊具の上にうずくまって1時間以上泣きました。
もう会えないと思っていた影山さんと死ぬ前にもう一度話せる日が来るなんて思わなかった、今日まで生きてきてよかった、そんな思いが溢れるのをどうしようもなかったです。
影山さんがくれたメッセージの内容もこちらを気遣う優しいものでした。
noteに掲載された私の幼少期の写真を見て「アライさん」の中の人間が私だとわかったこと、文章の書き方を私らしいと思ったこと、私が上述のメッセージカードを今でも持っていることを嬉しく感じたことなどが、彼女の人柄が伝わってくるこまやかで温かな文体で綴られていました。
影山さんは7年経ってもやっぱり私の知っている優しい影山さんのままでした。ずっとずっと話したかった影山さんとDMでやり取りが出来ている、その現実がただただ嬉しくて、私は彼女からの返信を読み返しながら「自分はいま人生でもっとも幸福な瞬間を生きている」と感じました。
さて、もうここまで来たら影山さんに告白をしない手はありません。教団を脱会してから、私は彼女に思いを伝え損ねた後悔を胸に生きてきました。今度の今度こそ、雪辱を果たす最後のチャンスです。
私はさっそく人生初の告白文の作成に取りかかりました。文章を書いていると影山さんとの思い出が甦ってきて、影山さんを愛しく思う気持ちで胸がいっぱいになり、私は再度ホテルを飛び出して公園で泣きました。
人目もはばからず私が遊具に突っ伏すので、しばらくすると知らないサラリーマンのおじさんがやって来て「お兄さん大丈夫ですか?」と声をかけてくれ、(生きてれば辛いこともあるよね…)みたいな感じで私をぐいっと抱き寄せて肩を叩いてくれました。
その後はおじさんが買ってくれたお茶を飲みながらメッセージの書き直しを重ね、1時間後、私は震える指で以下の告白DMを送信したのでした。
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彼女から断りの返事が来たのは翌日でした。
メッセージの内容はまたも私への心配りに満ちたもので、好きだと言ってもらえて嬉しかったこと、しかし付き合うのは難しいこと、「今までちゃんと話したことがないから」(!?)教団施設の先輩としてもっと話せる仲になれたら嬉しいなどといったことが、私を傷つけないように配慮された調子で記されていました。
もちろん否定的な返事が来ることは頭ではわかっていましたが、それでも私は無性に悲しくなって、ふたたび件の公園に行って泣きました。(上述のおじさんは本当に来てほしいときに来てくれませんでした。)
そこでひとしきり泣いたあと、私はありったけの明るさを装って以下のDMを送信し、彼女とのやりとりはそこであえなく終了となったのでした。
◼︎振られたショックから大学への再入学を決意する
先述のように、私は近日中に自殺をするつもりで生きていました。未練といえば「影山さんに思いを伝えられなかったこと」が唯一の未練でしたが、それもようやく解消されました。加えて派手に失恋まで遂げたのですから、ふつうに考えれば自殺のモチベーションはいっそう高まりそうなものです。
ところが困ったことに、失恋による悲しみと喪失感があまりにも大きすぎて、首を吊るための気力と体力がごっそり消え去ってしまったのでした。ロープに体重をかけてから意識を失うまでの10秒間を乗り越えられる自信がないのです。教祖が原因不明の頓死を遂げたときですら、私はこれほどのショックは受けませんでした。
〈「いつでも死ねる」という事実だけを救いに、そして影山さんの存在だけを希望に、私はこれまでの苦労を乗り切ってきた。しかし今ではその両方が失われてしまった。これから先、自分はいったいどうしたらいいのだろう…?〉──そんなことを考えて、私はまたしても途方に暮れたのでした。
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ある一連の考えが電撃的に閃いたのは6月の終わり、カプセルホテルから一日中出られない日々が続いた先のある晩のことです。
〈そもそもの話、精神閉鎖病棟あがりの生活保護受給者に「あなたを幸せにします」などと言われたところで説得力はゼロである。今回の失恋はおそらく私の社会的身分の不安定さによるところが大である。〉
〈オンライン上での告白も(地理的な懸隔ゆえ致し方なかったとはいえ)きっと不利に働いたに違いない。7年のブランク越しの、それも旧交を充分に温めえぬままの急拵えの告白だったことも敗因だろう。〉
〈であれば、私が大学に入り直してきちんとした社会的身分を得たうえで影山さんとデートの約束をとりつけて、実際に対面のうえで改めて思いの丈をぶつけたら、今度こそ彼女は振り向いてくれるのではないか、あるいは”お試し”ででも自分と付き合ってくれるのではないだろうか……?〉
そんな推測が〈きっとそうだ〉という確信へと変わるのにたぶん2分もかからなかったです。私は自分の人生に希望の光が射したのを感じ、そうなるともう居ても立っても居られませんでした。
〈どれだけ大変な道のりでもいい。どんな手を使ってもいい。私はこれから死力を尽くして生活保護を脱出して学費を貯めて大学に入り直して、来年の春になにがなんでも影山さんと再会を果たそう。そして改めて彼女に告白しよう──。〉
能天気にも程がありますが、とにかく当時の私はそう固く心に決めたのでした。
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さて、そうと決まればじっとしている暇などありません。再入学の実現に向けて、私は翌朝からさっそく行動を起こしました。
手始めに大学の教務課に電話をして再入学について問い合わせると、担当者の方は私の境遇にたいへんな同情を示してくださって、昨晩の決意に強力な「お墨付き」を頂いた気持ちになりました。
同時にメンタルクリニックにも電話を入れます。これから学費のために働き詰めの日々を送る以上、病院になど通っている暇はないからです。
「うつ病は先日治りましたので、次回の通院予約はキャンセルしたく思います。今までお世話になりました。」
そう伝えると看護師さんは困惑を示されましたが、結局「なにかあったらすぐに電話をすること」を条件にキャンセルを了承してくださいました。電話を切ったあと、私は1ヶ月分のルネスタとレクサプロをゴミ箱に突っ込み、首吊り用ロープや病院の診察券も処分しました。
物件探しにもその日のうちに取り組みます。その数日後、NPOの方の紹介を受けて、私は四方八方を風俗店に囲まれた激安アパート(よくいわれる「生保アパート」)に引っ越すことになりました。
アパートの環境は値段相応でしたが、学費のことを考えればワガママなど言っていられません。家賃は安ければ安いほど助かります。
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さて、肝心の仕事ですが、給与のことを考えれば夜職に戻るより他に選択肢はなさそうでした。(ナイトワークの業界では週6出勤・1日11時間勤務が標準的な労働時間です。もちろん休憩時間はありません。)
ただ、どうせ働くのであれば影山さんのパートナーにふさわしい人間になれるような──洗練された立ち振る舞いや言葉遣いを身につけられるような──職場が好ましいですから、厳しい夜職の環境はむしろ望むところです。
私はさっそく「沖縄最高級」を謳うキャバクラグループの求人に応募して、翌日には「スーツセレクト」で生活保護費をはたいてスリーピース・スーツを購入し、その足で面接に向かいました。
「グループの中でいちばん大箱で人手が足りていないお店で働きたいです」
私がそんな内容の要望を伝えると、面接担当者の方は(なんでそんなこと言うんだろ?)みたいな顔をされたあと、「じゃあ忙しめの箱に紹介しときますわ」と請け合ってくださり、その場で翌日からの勤務が決まりました。影山さんとの再会に向けた大きな一歩でした。
◼︎治安最悪のキャバクラで学費を貯める
就職したキャバクラの職場環境の厳しさは想像を超えるものでした。
私自身もさっそく“夜の洗礼”を受けます。
トレンチの技術が認められて初日からホールに出させて頂いたはいいものの、あるときトイレから戻られたお客様が背後にいることに気付かないままドリンクを配り続けてしまい、店長からインカム(業務連絡用の無線)が壊れるんじゃないかというくらいの怒声で「てめぇ新人なにやってんじゃゴルァ!!専務の前でそんな事やったら今頃殺されてっぞ!このガキが!」などと叱られました。
(叱られるのは平気ですが、先輩が駆け寄ってきて「べつにあんな言い方しなくてもいいじゃんね。気にしなくて大丈夫だよ」と声をかけてくださったのには泣きそうになりました。)
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さて、そんな職場に馴染むべく、私は最大限の熱意で仕事に取り組もうと心に決めました。
勤務開始の40分前に出勤して(タイムカードを押さずに)仕込みと営業準備を終わらせるのはもちろん、開店まではダイソーで自費購入した掃除道具でキッチンやホールの清掃をし、営業が始まると頭をフル回転させて働きました。場を盛り上げるためなら(私は下戸ですが)テキーラだってハブ酒だってガンガン飲みます。
仕事の忙しさは凄まじいもので、ピークタイムにはドリンク注文が20個も重なった挙句にシャンパンやフードのオーダーも飛び、その準備をしている最中にもタバコの買い出しや出前をお願いされ、そんなときに限ってお客さまがゲロを吐いたり女の子がショックを起こしたりしてしまいます。
おまけに送迎ドライバーが欠勤した日には女の子の送迎もしなくてはならず、帰宅できる時間など見当もつきません。
(車を猛スピードで飛ばしているととつぜん眠気に襲われ、FM沖縄から流れてきた時報の音で我に返る、というようなこともありました。)
ただもちろん、同じ空の下で影山さんが今日も生きているのだと思えば、そしてこの日々を乗り越えた先にある彼女との再会を思えば、そんな忙しさや疲労などどうでもよいことです。
泥酔したお客様から痛罵や暴力を受けることもありましたが、それだっていくらでも耐えられます。傷つけられるごとに私は強くなり、そのたびに影山さんのいる場所に近づくことができると思えるからです。
退勤する頃にはすでに夜が明けていて、店先で朝日を浴びていると「少なくとも今日一日、自分は影山さんとの再会のためにやるべきことをやったのだ」という充足感で胸がいっぱいになりました。職場からアパートまでの道を私は勝手に「影山さんロード」と名付け、毎日意気揚々とその道を帰りました。
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さて、仕事と並行して、私は再入学に向けての取り組みもスタートさせました。
まずは書類の準備です。教務課の求めに応じて、再入学希望理由書や就労証明書、過去の仕事の給与明細、履修計画書、授業料を納入する旨を一筆した念書等々、私はさまざまな書類の作成・取得に奔走しました。
再入学可否の審査においては「前在籍時にどれだけ真面目に大学生活をしていたか」も重要な考慮対象になります。この点、かつて私は単位を一つも取らないまま(休学可能年数を上限まで使い切ったうえで)中退していることに加え、キャンパス周辺で布教誌配布や戸別訪問イベントを企画したり、渋谷のスクランブル交差点で宣教演説をしたり、さらには自分の学籍を使って駒場祭に偽装サークル(悪名高い「心◯◯◯テ」)を出店したりとやりたい放題でしたから、自分の来歴について弁明する書類も準備しました。
学科試験が課される可能性もあるので勉強も欠かせません。
お店は日曜が休業日だったので、土曜日の勤務後は2時間ほど仮眠をとって朝食(自分にとっては夜食)をかき込んで沖縄県立図書館に向い、そこで夕方まで数学や物理の復習をしました。眠気が襲ってくることもありましたが、そのときは冷水で顔を洗って頬を引っぱたいて階下のスタバでコーヒーを飲んで、ふたたび机に向かいました。
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さて、そんなこんなで慌ただしい日々は過ぎていき、夏が去って秋も終わって、冬らしくない沖縄の冬も過ぎ去って、気がつけば春がやって来ていました。
勤務をする中で、私は自分の性格が根本的に変わったのを感じました。
夜職をしているとキャストの方からデートのお誘いやお付き合いの話を頂くこともありますが、その頻度も東京や大阪で働いていたときより増えました。(もちろん私は生涯で頂いたすべての告白をお断りしています。影山さんほど美しい人が世の中に存在しようとはとても想像できなかったからです。)
2月には駒場キャンパスで面接試験が行われました。
かつての私なら教団のペンダントを身につけて臨むところですが、今は影山さんからもらったメッセージカードがその代わりです。
面接の内容はさんざんなものでしたが、かりに私の人生について何も知らない人たちの胸先三寸で入学不許可の決定が下されるのであれば、今度こそ大学の不寛容を怨みつつ沖縄に骨を埋めればいいだけの話なのでした。
◼︎再入学が決定、上京する
令和6年の3月中旬、ついに大学から再入学の許可通知が届きました。
再入学を決意してから10ヶ月後のことでした。貯金は目標には届きませんでしたが、どうにか入学金や授業料を納められるぐらいの額は貯めることができました。
アパートの大家さんに「アライくんおめでとう。人生を変えろよ」などとお祝いの言葉を頂いたり、郵便局員さんからも「すごいねえ、沖縄の誇りだよ〜」などとお声をかけられたりして、私はいよいよ有頂天です。(そしてもちろん、長らくご心配をおかけしてしまったフォロワーの皆様に良いご報告ができて嬉しかったのは言うまでもありません。)
キャバクラでの最終日の勤務も無事に終えることができました。
心地よい気分で退職した日の昼下がり、開け放った窓から聴こえてくるフェリーの汽笛を自室の布団の上で聴きながら、私はこれまでの嫌な思い出のすべて──小学校を不登校になって惨めな気持ちで毎日を過ごしたことも、教団を脱会してすべての人間関係を失ったことも、病棟で物々しい病名を宣告されて自暴自棄になったことも、真冬の樹海で首を吊り損なって河口湖駅前で震えながら一晩を過ごしたことも、離島で自殺に失敗して巡視船で警察署まで連行されたことも、閉鎖病棟で正気を保つために映画『1900年』のサントラを一日に何十回も聴いて過ごしたことも、とにかく嫌な思い出のすべてが過去のものになったと感じました。
〈あまりにも長い迂回だった。これで私は自信をもって影山さんに会いに行ける。今度こそ自信をもって影山さんに告白ができる。きっと影山さんは振り向いてくれる。アライさん万歳…!〉
その数日後、会社の方たちやフォロワーの皆様に別れを告げて、沖縄でお世話になった方々に感謝の手紙やメールを書き送り、亡くなった10年来の旧友(「アライさん」の正体が私だと気付いた知人がわざわざDMで彼の死を知らせてくれました)にも報告を済ませ、私は意気揚々と東京へ向かったのでした。待ちに待った、影山さんがいる東京の街です。あとは影山さんにDMを送るだけ、影山さんのいる場所までもう少しだと思いました。
◼︎あっけない終わり
上京して数日が経ったある日の夜、私はついに意を決し、1年ぶりに影山さんにDMを送りました。(もし万が一断りの連絡がきた場合、当時滞在していた狭苦しい漫画喫茶ではメンタルを保てる自信がなかったので、私はわざわざ海辺のホステルに逃げ籠ったうえでDMの送信におよびました。)
ともあれ、あとは温泉に浸かったりロビーでコーヒーを飲んだりしながら影山さんから返信が来るのを待つだけです。私は近所の海岸を散歩しながら「自分の人生もやっとここまでこれたな」「影山さんと会えたらどこへ行こう」などと呑気なことを考えていました。
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ところがです。予想外の事態に私は焦りました。
待てども待てども影山さんから返信が来ないのです。本当に心の底から嫌な予感がしました。
「影山さんはあまりSNSをチェックしない人なのかもしれない」「きっと休み明けで忙しいのかも…」
そんな想像で不安を抑えながら、私は彼女からの返信を半日待ち、1日待ち、2日待ちました。3日待っても返信がないので私はホステルの延泊を申請し、帰りの特急も大学のオリエンテーションもすっぽかして、来る日も来る日もホステルで返信を待ち続けました。天気が晴れると気持ちに希望が兆し、雨が降り始めると不安に襲われました。不安に襲われるたびに私は布団に篭り、保健センターで貰ったリボトリールを山のように飲みました。
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不都合な事実をどれだけ視界から追いやっても、現実を直視しなくてはならない瞬間はいつか必ずやってきます。
ホテルでの滞在も5日目に差し掛かった日の午後、いつものように影山さんのXのプロフィールに飛んだ私は、そこで彼女が教団広報アカウントの直近の投稿をリツイートしているのを発見し──つまり影山さんがしっかりXを見ていること、したがって自分のメッセージは見事に「既読スルー」されていること、そこから導かれる結論として、自分が返信に値しない人間として影山さんから厭悪されているということを、今更ながら悟ることになったのでした。
〈影山さんから肯定的な返事が来ることを期待していた私は、あるいは断りの内容でも何らかの返信くらいは来るだろうと予想していた私は、いったいなんて馬鹿で大甘だったのだろう?──〉
1年に及ぶ再会計画がこんなにもあっけなく終わった事実を受けいれることができなくて、胸が寂しさと悲しさで押しつぶされそうでした。影山さんとの再会が叶わない。その事実に耐えることができなくて、私は白浜海岸に走っていってゲロを吐きました。空っぽの酸っぱい胃液を地面めがけて吐いていると、一年前にも同じように夜の海岸でゲロを吐いたときの感覚が──慶良間諸島の海岸でOD首吊りに失敗し、覚醒後にハルシオンの催吐作用でのたうった感覚が──きれいに蘇ってきました。
影山さんとの再会を目指してひた走りに走ってきた私の自分勝手な自己中物語は、こうして私の予想もしないかたちであっけなく終焉を迎えることになったのでした。
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◼︎その後のはなし
教祖に人生を捧げる計画が頓挫したうえ、ついに影山さんと再会できる見込みも消滅してしまって、東京の漫画喫茶に戻ってきた私はほんとうに心の底から途方に暮れました。影山さんとのDM履歴をみるたびに悲しさで胸が潰れそうになりましたし、もう一度影山さんの声が聞けるなら何だってしたいと思いました。眠剤を飲んで布団に入るたび、「自分はこれからこの寂しさを抱えたまま生きていけるのだろうか」と考えました。
副産物として手元には理科一類の学籍が残りましたが、もとはと言えば影山さんと再会を果たすためだけに入学した大学です。べつに今さら線形代数学や熱力学の勉強がしたいわけではありません。陽気な学生たちでごった返すキャンパスを歩きながら、私は今度の今度こそ生きる理由がなくなってしまったと感じたのを思い出します。
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ただ、そんな悲しさや寂しさに悩まされる一方で、入学して数週間のあいだに少しだけ心境に変化も生まれ始めました。
そんな諸々の出来事や出会いのあと、私はバイトやレポート作成の合間を縫っていろいろな授業に出てみるようになりました。
教室を覗いてみると、本の著者としてしか知らなかった偉大な先生方が自分の知らない研究分野について講義をしていて、私はあらためて大学の学習環境の贅沢さを実感すると同時に、世界は自分の知らない事柄で満ちているのだという当たり前の事実に打たれました。
図書館に行くたびに読みたい本のリストも増えていきましたし、学習意欲の高まりとともに、少しづつ心の空白が埋まっていくのも感じられました。
生きる理由について考えすぎるのも止めにしました。
きっとそんなものは「夏休みに沖縄に遊びに行くのが楽しみだから」くらいで充分なのだと思います。もちろん勉学に打ち込むなかで何か立派な生きがいが見つかれば儲けものでしょうが、あるいは何も見つからなかったとしても、靴を履いたり傘をさしたりしているうちに夏はかならず巡ってくるし、そうしたら沖縄に行って海に飛び込んでわーっと泳いで、これからのことはパラソルの下でソーダでも飲みながら考えればいいのです。
そもそもの話、私は一年前に沖縄で死んでいるはずでした。
そんな自分がどういうわけか、影山さんとの奇跡のようなコンタクトをきっかけにもう一度頑張ろうと思い直すことができて、たくさんの方々の支えのおかげでこの1年を生き抜くことができて、そしてどうにか大学への再入学も果たすことができました。
だからこの一年の貴重な経験や、仕事を通して出会った沢山の素敵な人たちとの思い出や、私がいま視野に収めている素晴らしい景色は、(影山さんにとっては知ったことではない話だと思いますが)すべて影山さんからの、そして私を支えてくださった方々からの贈り物なのです。その贈り物をこれからも大切にしたいと思いました。(了)