9年間片思いをしていた人に振られて東大再入学を決意し、どうにか入学を果たし二度目の告白をして再び振られた話

〈長年片思いをしていた方のツイッターアカウントを偶然に発見して告白のDMを送りつけた結果あえなく振られ、そのショックから東大への再入学を決意してキャバクラで働き学費を貯め、どうにか復学を決めて上京し1年越しに2度目の告白を実行した結果、ふたたび振られるまでの話です。〉

(約1万8千字、読むのにかかる時間:約20分)


◼︎人生でいちばん切実な出来事

15歳の夏、私はある女性を好きになりました。
その人は「影山優佳さん」というアイドルの方と顔立ちがそっくりだったので、ここでは彼女の名を仮に「影山さん」としたいと思います。

影山さんは私が6年暮らした教団施設(T県の某園)のひとつ上の先輩で、ハーフアップの髪型が似合うとても綺麗な人でした。初めて会話をしたとき、彼女はしっかりと私の目を見ながら優しい相槌を打ってくれて、すごくドキドキしたのを覚えています。

影山さんは他人のことを思って涙を流せる優しい心の持ち主であると同時に、周りの空気に流されない強さを持つ方でもありました。

当時、私が所属していた宗教の2世信者の多くは教団施設を出たあと(世俗の世界には出ずに)教団の“職員養成所”のような組織に入る道を選んでいました。幼い頃から教団内で過ごしていればそもそも外の世界へ出ようという発想が浮かびませんし、仮に出ようとしても職員から「修行が足りてない」「大学進学や就職なんて次の転生でもできる」などと説教されるので心が折れてしまうからです。

そんな環境にありながら、影山さんはNPOで働く目標を実現するために大学に行く選択をしました。教祖への信仰を美しく把持しながら、同時に職員の圧力に屈せず志を貫く影山さんはなんて強い人なのだろうと思いました。

そんな影山さんのそばで毎日を過ごすうち、私はだんだん彼女の存在が気になるようになり、気がついた頃には頭の中が影山さんでいっぱいになっていました。

影山さんが経典を朗読するときのやわらかな声、機嫌がいいときに唄う鼻唄、教祖に向けて祈る姿など、彼女の振る舞いのすべてを私は美しいと思いました。後ろ姿を見ているだけでも背筋に甘美な戦慄が走り抜けましたし、目線など合おうものならその日は一日中嬉しくてたまりません。施設で相部屋になった友人は「寝言で影山先輩の名前を言うのはやめてよ。うるさいから」などと苦情を寄せてきましたが、恋情ばかりは抑えようがないので致し方ありません。

さて、こうなってしまえば影山さんなしの人生など私には考えられませんでした。選ぶべき道は一つです。すなわち──教団に出家して教祖の秘書部門(教団のエリートコース)に入って、そこで修行を積んで宗教者として身を立てて、そうしたら影山さんに告白してお付き合いの許可を頂いて、その後はずっと影山さんと一緒に生きよう。そのときまで無欲に淡々と勉学に励もう。そう固く心に決めました。

教団で出世をするには東大を蹴って某C村にある“職員養成所”に入るのがいちばんの近道です。私は2年間(半分は教祖に喜んでもらうために、そして半分は影山さんに振り向いてもらうために)一日14時間ほど勉強する生活を続け、合格した東大や早慶、有名医科大をすべて蹴り、そのまま職員養成所に入所しました。(ちなみに東大には籍のみ置くことができました。後年この事実が私の人生を大きく変えることになります。)

入所式の日、総代として2000人近い信者の前で表彰を受けながら、私は教祖にすべてを捧げきったことを誇らしく思うと同時に、自分が影山さんへと着実に近づいているのを感じました。

先述のように影山さんは教団には出家せず、私より1年先に施設を出たあとは東京の大学に進学したと聞きました。もちろん彼女の顔が見られなくなるのは寂しかったですが、ショックはそこまで大きくありませんでした。彼女が養成所に遊びに来る機会は今後いくらでもあるでしょうし、いざとなったら適当に口実を作って誰かに彼女の連絡先を聞けばいいと思ったからです。
〈とにかく二人とも教団にいる限りはつながりは途絶えないから大丈夫だ。影山さんのパートナーにふさわしい人間を目指して、これからも着実に修行を進めていこう。〉──当時の私はそんなふうに現況を楽観していました。


◼︎教団を脱会、連絡を取る手段を失う

19歳の夏、想定外の事態が起きます。
私は教団を脱会せざるを得なくなったのです。
(詳細な経緯は他の記事に譲りますが)長い逡巡の末のある日、私は僻地の漁村にある職員養成所を夜逃げし、19年にわたる信者人生はあっさりと幕を閉じました。

脱会すれば一切の人間関係もそこで終了です。「悪魔にそそのかされた修行が足りない出来損ない」になった私は、およそ7年にわたり寝食を共にした友人たちから翌日中にはラインをブロックされ、同時に影山さんと連絡をとる一切の手立てを失ったのでした。

〈これまで自分は「教祖への信仰」と「影山さんへの憧れ」の二本立てで生きてきた。そんな自分が信仰という支えを失い、加えて影山さんと結ばれる可能性まで無くしたら、いったい何を頼りに生きていけばいいのだろう?〉──東京に戻って冷静さを取り戻した私はそんなことを考え、ほんとうに心の底から途方に暮れました。

法友たちから届いた批難のメールの一部。私にも至らない点は沢山あり、今でも申し訳なく思っています。

時間の経過とともに教祖への信仰は消えていきましたが、影山さんを好きな気持ちはむしろ強まる一方でした。脱会後、影山さんを思い出さない日は一日も(誇張ではなく本当に一日も)ありませんでしたし、どうにかして彼女と再会が果たせないかを私は考え続けました。

きつい夜職の仕事を終えて帰り道を歩いているときも、Uberの配達で自転車を漕いでいるときも、ドヤの汚い布団にくるまっているときも、日雇い仕事の休憩時間にも、私は影山さんを思い浮かべ、「彼女はいま何をしているだろう」と考えました。

「2世信者交流イベント」で影山さんが私に書いてくれたメッセージカードはポケットに入れて肌身離さず持ち歩き、何千回、何万回と読み返しました。(そのせいで何度も洗濯をしてしまい紙片はボロボロ、文面も4分の1は読めなくなりました。教団ゆかりの品は現在までにすべて処分しましたが、このメッセージカードだけは今でも手元にあります。)

樹海で自殺を図る前日に泊まった河口湖畔の旅館でも、沖縄で首吊りをする数日前、遺書を書くために滞在した残波岬のホテルでも、私は最期まで影山さんと連絡を取ることができないかを模索し続けました。

ただもちろん、共通の友人全員が教団関係者であり、彼らと私との繋がりが切れている以上、影山さんと再会する手筈が整う可能性はゼロです。再会を無駄に切望する日々は過ぎていき、気がつけば最後に彼女と会話をした日から7年が経とうとしていました。

◼︎7年後、影山さんのアカウントを偶然に発見。告白のDMを送りつけて振られる

どんな人の人生にも1度は奇跡のような出来事が起きます。私の場合、それは24歳の初夏に突然やってきました。

その年の春、私は沖縄の離島で服薬首吊りを図って失敗し、その後はしばらく那覇郊外の閉鎖病棟に入っていました。
もちろん病棟での療養生活は快適でしたし、生活保護の受給が決まるなど嬉しい出来事もあったのですが、とはいえその程度のことで希死念慮が消え去るなら初めから苦労はしません。

退院後、保護受給までの経緯をテーマにした文章を3日ほどかけて書き上げたとき、私は「死ぬなら今週中だな」と思いました。首吊り用のロープやお酒、導入剤は準備済みで、実行場所の公園もすでに目星をつけていました。(ちなみに当時の文章では希死念慮について触れていません。せめて「アライさん」の人生だけでも“ハッピーエンド”で終わらせあげようと思ったからです。)

きっかけは1通のDMでした。
上述の文章をツイッターに投稿した日の夜、私のアカウントに温かなメッセージが届きました。送り主は教団施設で私と机を並べて勉強をしていた法友の方です。

教団内で「禁書」扱いされているらしい自分の記事がかつての親友へ届いたことに嬉しくなって、私はその方に心いっぱいの感謝を伝えるDMを返しました。そのあと、(とくに深い意図はないままに)その方のアカウントの「フォロー欄」を開き、なんとはなしに画面をスクロールしました。そしてその瞬間、懐かしい旧友や先輩たちのアカウントの並びのなかに、私は影山さんの名前を発見したのでした。

激しい衝撃に打たれて、私は叫びそうになりました。影山さんと連絡をとるための手掛かりが、7年のあいだずっとずっと探し求めていたものが、まさにいま手の届くところにあったからです。私が「アライさん」として生きた3年の日々はこの瞬間のためにあったのだと悟りました。

ただもちろん、この時点で喜ぶのは早計です。彼女のアカウントは鍵垢でDMも解放されていませんでしたし、おまけに他のユーザーとの最後のやりとりの痕跡は2018年頃のもので、長らく放置されたアカウントである可能性も高かったからです。

とはいえ、奇跡のような偶然が重なった結果知り得た彼女のアカウントですから、ここでフォロー申請を出さない手はありません。ブロックされたらどうしようという不安を押し殺し、私はほとんど祈るような気持ちで【フォローする】のボタンをタップしました。

数時間後、フォロー申請が通り、おまけに影山さんからフォロバまでされていることに気がついたとき、私は驚愕と歓喜の感情で卒倒しかけました。

〈珍妙極まりない「けもフレなりきり垢」からのフォロー申請なんて無視すればいいのに、どうして影山さんはこんなに優しいのだろう?〉──7年ぶりに彼女の優しさに触れた懐かしさで、胸がぎゅっとなりました。表示された「フォローされています」の文字が愛おしくて、私はそれを眺めるために何度も彼女のプロフィールに飛びました。

『フォローされています』!


さて、影山さんとFFになりDMが可能になった以上、もはや彼女とコンタクトを取らない手はありません。

〈フォロバまでしてくれたのだから、(「アライさん」の中身が私であることに気付いているかは分からないけれど)いずれにせよこちらにマイナスな印象は持っていないはずである。〉

〈仮にDMが無視されたり、(私の知っている影山さんはそんなことをする人ではないけれど)最悪ブロックされてしまったとしても、彼女に対する未練を引きずったまま死ぬよりはよっぽどマシだろう。〉

そんなことを自分に言い聞かせて気持ちを落ち着けたあと、私は国際通りのスタバのテラス席に陣取り、影山さんに送る文面の作成に取り掛かりました。しばらくの推敲の後、私が実際に送信したDMは以下のものになります。

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1時間ほどしてスマホが鳴り、通知欄に彼女の名前が表示されたとき、カプセルホテルで横になっていた私は文面も読まないまま外へ飛び出して近所の公園まで走り、遊具の上にうずくまって1時間以上泣きました。
もう会えないと思っていた影山さんと死ぬ前にもう一度話せる日が来るなんて思わなかった、今日まで生きてきてよかった、そんな思いが溢れるのをどうしようもなかったです。

影山さんがくれたメッセージの内容もこちらを気遣う優しいものでした。
noteに掲載された私の幼少期の写真を見て「アライさん」の中の人間が私だとわかったこと、文章の書き方を私らしいと思ったこと、私が上述のメッセージカードを今でも持っていることを嬉しく感じたことなどが、彼女の人柄が伝わってくるこまやかで温かな文体で綴られていました。

影山さんは7年経ってもやっぱり私の知っている優しい影山さんのままでした。ずっとずっと話したかった影山さんとDMでやり取りが出来ている、その現実がただただ嬉しくて、私は彼女からの返信を読み返しながら「自分はいま人生でもっとも幸福な瞬間を生きている」と感じました。

そもそも上述のnoteは半分が教祖への悪口みたいなものですから、現在も教団に籍を置く彼女がそれを読んで良い思いを抱いたはずがありません。それ以前の話として、親しいわけでもない異性からとつぜんDMが来たところで不快なだけでしょう。にもかかわらず、影山さんは私に心のこもったメッセージを返してくださいました。私は影山さんのこういう優しさを好きになったのです。

さて、もうここまで来たら影山さんに告白をしない手はありません。教団を脱会してから、私は彼女に思いを伝え損ねた後悔を胸に生きてきました。今度の今度こそ、雪辱を果たす最後のチャンスです。

私はさっそく人生初の告白文の作成に取りかかりました。文章を書いていると影山さんとの思い出が甦ってきて、影山さんを愛しく思う気持ちで胸がいっぱいになり、私は再度ホテルを飛び出して公園で泣きました。
人目もはばからず私が遊具に突っ伏すので、しばらくすると知らないサラリーマンのおじさんがやって来て「お兄さん大丈夫ですか?」と声をかけてくれ、(生きてれば辛いこともあるよね…)みたいな感じで私をぐいっと抱き寄せて肩を叩いてくれました。

その後はおじさんが買ってくれたお茶を飲みながらメッセージの書き直しを重ね、1時間後、私は震える指で以下の告白DMを送信したのでした。

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彼女から断りの返事が来たのは翌日でした。
メッセージの内容はまたも私への心配りに満ちたもので、好きだと言ってもらえて嬉しかったこと、しかし付き合うのは難しいこと、「今までちゃんと話したことがないから」(!?)教団施設の先輩としてもっと話せる仲になれたら嬉しいなどといったことが、私を傷つけないように配慮された調子で記されていました。

もちろん否定的な返事が来ることは頭ではわかっていましたが、それでも私は無性に悲しくなって、ふたたび件の公園に行って泣きました。(上述のおじさんは本当に来てほしいときに来てくれませんでした。)
そこでひとしきり泣いたあと、私はありったけの明るさを装って以下のDMを送信し、彼女とのやりとりはそこであえなく終了となったのでした。


◼︎振られたショックから大学への再入学を決意する

先述のように、私は近日中に自殺をするつもりで生きていました。未練といえば「影山さんに思いを伝えられなかったこと」が唯一の未練でしたが、それもようやく解消されました。加えて派手に失恋まで遂げたのですから、ふつうに考えれば自殺のモチベーションはいっそう高まりそうなものです。

ところが困ったことに、失恋による悲しみと喪失感があまりにも大きすぎて、首を吊るための気力と体力がごっそり消え去ってしまったのでした。ロープに体重をかけてから意識を失うまでの10秒間を乗り越えられる自信がないのです。教祖が原因不明の頓死を遂げたときですら、私はこれほどのショックは受けませんでした。

〈「いつでも死ねる」という事実だけを救いに、そして影山さんの存在だけを希望に、私はこれまでの苦労を乗り切ってきた。しかし今ではその両方が失われてしまった。これから先、自分はいったいどうしたらいいのだろう…?〉──そんなことを考えて、私はまたしても途方に暮れたのでした。






ある一連の考えが電撃的に閃いたのは6月の終わり、カプセルホテルから一日中出られない日々が続いた先のある晩のことです。

〈そもそもの話、精神閉鎖病棟あがりの生活保護受給者に「あなたを幸せにします」などと言われたところで説得力はゼロである。今回の失恋はおそらく私の社会的身分の不安定さによるところが大である。〉

〈オンライン上での告白も(地理的な懸隔ゆえ致し方なかったとはいえ)きっと不利に働いたに違いない。7年のブランク越しの、それも旧交を充分に温めえぬままの急拵えの告白だったことも敗因だろう。〉

〈であれば、私が大学に入り直してきちんとした社会的身分を得たうえで影山さんとデートの約束をとりつけて、実際に対面のうえで改めて思いの丈をぶつけたら、今度こそ彼女は振り向いてくれるのではないか、あるいは”お試し”ででも自分と付き合ってくれるのではないだろうか……?〉

そんな推測が〈きっとそうだ〉という確信へと変わるのにたぶん2分もかからなかったです。私は自分の人生に希望の光が射したのを感じ、そうなるともう居ても立っても居られませんでした。

〈どれだけ大変な道のりでもいい。どんな手を使ってもいい。私はこれから死力を尽くして生活保護を脱出して学費を貯めて大学に入り直して、来年の春になにがなんでも影山さんと再会を果たそう。そして改めて彼女に告白しよう──。〉

能天気にも程がありますが、とにかく当時の私はそう固く心に決めたのでした。

一般に大学中退者が大学に入り直す方法には「再受験」と「再入学」(=大学を中退した人が面接や学科試験等の特殊な選考を経てふたたび同一学籍で大学に入学できる制度のこと)の二つが存在しますが、今回私が選んだのは後者です。

私は以前に「再受験」は考えたことがありましたが、「再入学」を検討したことは一度もありませんでした。後者の場合、入学先は以前に籍を置いていた学部(私の場合は工学系の学部)に限られてしまい、関心が人文科学や社会科学にシフトしていた私にはそもそも挑戦する理由がなかったからです。(当時は「進振り制度」の詳細も知りませんでした。)

しかしながら、今回の入学の目的は「学問をすること」ではなく「東京に移住して大学生という社会的身分を得ること」です。それさえ達成できるならば──影山さんに自信を持って再会するための条件さえ整うならば──学部なんてどこでもよかったのです。

ある政治家の方によるこの引用リツイートがなかったら、私は再入学制度の存在を知ることなく一生を終えていたと思います。誰かの何気ないツイートが誰かの人生を決定的に変えることがあるのだと知りました。


さて、そうと決まればじっとしている暇などありません。再入学の実現に向けて、私は翌朝からさっそく行動を起こしました。

手始めに大学の教務課に電話をして再入学について問い合わせると、担当者の方は私の境遇にたいへんな同情を示してくださって、昨晩の決意に強力な「お墨付き」を頂いた気持ちになりました。

同時にメンタルクリニックにも電話を入れます。これから学費のために働き詰めの日々を送る以上、病院になど通っている暇はないからです。

「うつ病は先日治りましたので、次回の通院予約はキャンセルしたく思います。今までお世話になりました。」 

そう伝えると看護師さんは困惑を示されましたが、結局「なにかあったらすぐに電話をすること」を条件にキャンセルを了承してくださいました。電話を切ったあと、私は1ヶ月分のルネスタとレクサプロをゴミ箱に突っ込み、首吊り用ロープや病院の診察券も処分しました。

物件探しにもその日のうちに取り組みます。その数日後、NPOの方の紹介を受けて、私は四方八方を風俗店に囲まれた激安アパート(よくいわれる「生保アパート」)に引っ越すことになりました。

アパートの環境は値段相応でしたが、学費のことを考えればワガママなど言っていられません。家賃は安ければ安いほど助かります。

東京の風俗店で働いていた時にとてもお世話になった上司の方が自宅前のソー○で働いているのを発見してびっくりしました。生きているとときどき不思議な再会に恵まれることがあります。


さて、肝心の仕事ですが、給与のことを考えれば夜職に戻るより他に選択肢はなさそうでした。(ナイトワークの業界では週6出勤・1日11時間勤務が標準的な労働時間です。もちろん休憩時間はありません。)

ただ、どうせ働くのであれば影山さんのパートナーにふさわしい人間になれるような──洗練された立ち振る舞いや言葉遣いを身につけられるような──職場が好ましいですから、厳しい夜職の環境はむしろ望むところです。

私はさっそく「沖縄最高級」を謳うキャバクラグループの求人に応募して、翌日には「スーツセレクト」で生活保護費をはたいてスリーピース・スーツを購入し、その足で面接に向かいました。

「グループの中でいちばん大箱で人手が足りていないお店で働きたいです」

私がそんな内容の要望を伝えると、面接担当者の方は(なんでそんなこと言うんだろ?)みたいな顔をされたあと、「じゃあ忙しめの箱に紹介しときますわ」と請け合ってくださり、その場で翌日からの勤務が決まりました。影山さんとの再会に向けた大きな一歩でした。


◼︎治安最悪のキャバクラで学費を貯める

就職したキャバクラの職場環境の厳しさは想像を超えるものでした。

勤務初日、私が系列店に挨拶に行くと、控室では某格闘技団体の社長さんにそっくりの人が部下をタコ殴りにしており、キッチンでは忙しさにパンクして大汗をかく中年のボーイを若い上司が「とっとと準備しろや!このとんま  • • • 野郎が!」などと叱り飛ばしていました。接客練習も容赦なく、新人ボーイたちはお客さんのいない間、「鏡月」を満載させたトレンチを片手にホールをひたすら行ったり来たりさせられていました。

私自身もさっそく“夜の洗礼”を受けます。
トレンチの技術が認められて初日からホールに出させて頂いたはいいものの、あるときトイレから戻られたお客様が背後にいることに気付かないままドリンクを配り続けてしまい、店長からインカム(業務連絡用の無線)が壊れるんじゃないかというくらいの怒声で「てめぇ新人なにやってんじゃゴルァ!!専務の前でそんな事やったら今頃殺されてっぞ!このガキが!」などと叱られました。
(叱られるのは平気ですが、先輩が駆け寄ってきて「べつにあんな言い方しなくてもいいじゃんね。気にしなくて大丈夫だよ」と声をかけてくださったのには泣きそうになりました。)

後日知ったのですが、私が就職することになった某マイナーなキャバクラグループはあまり良くないネットワークを持っているようでした。

そんなグループの幹部たちの迫力は果たして凄まじく、エリア統括者たちの風貌はまるで『闇金ウシジマ君』のキャラクターが現実に飛び出してきたかのようです。彼らを最高級VIPルームで接待する際は些細な失敗も許されず、たとえばミミガーのジャーキーの出し方──味違いを2つ並べ、マヨネーズと醤油、七味を入れた小皿も用意し、同時に少量のスナック菓子を出すのも忘れない云々──を間違えただけでもボーイは(比喩ではなく本当に)半殺しにされます。

そんな環境ゆえ、新人の子は早くて初回の勤務時間中に姿を消しますし、比較的根性のありそうな顔立ちをした現場上がりの子もだいたい5日以内に連絡を絶ちました。(初日、先輩に「自分以外に何人バイトがいるんですか?」と尋ねたら、「……飛びすぎてわからん。」とのことでした。)

いくらなんでも厳しすぎではないか、いったいどんな人がどんな理由であんな場所で働いているのだろうと、いま振り返ると不思議な気持ちになります。理由は人の数だけあるでしょうが、きっとそれぞれが哀切な事情──ヤミで作った借金を返すため、年齢や犯罪歴のせいで他に就職先がないため、夜逃げをしたため、あるいは柔弱な自分を変えたいという切実な動機のために、あの厳しい環境で頑張り続けているのだと思います。

ただそんな厳しさのおかげか、職場の皆さんは鋭くも美しい目つきをしていましたし、皆さんの立ち振る舞いにも自信と色気がみなぎっていました。苛烈な環境で怒鳴られ蹴られ、死にたくなるような失敗を重ね、さんざんクレームも受け、飛んでしまおうかと悩みながら出勤することを繰り返して、松山社交街の黒服は一人前になっていくのだと思います。

いつだったか、泥酔したお客様が大暴れを始め、テンパってしまった私は上司に電話をかけました。するとすかさず上司と見知らぬ男がやってきて、二人でそのお客様を”連行”してしまったのでした。その男がどういう人なのかは知りません。(どうでもいいですが、キャバクラには他にも様々な”珍客”がいらっしゃいます。機動隊が徒党を組んで街にやってくることもありますし、警察も24時以降にときどき偵察に来ます。さらにヤクザから借金をしているボーイがいれば取り立て役が堂々と店内に闖入してきて、借金を踏み倒していた先輩はその場で恫喝を受け、ひととおりの話し合いが終わったあと「俺の人生、やっと順調になってきたところだったのになあ…」とうなだれていました。返済をしないと拉致され、波の上ビーチ近くの公園とかで詰められたりするそうです。)


さて、そんな職場に馴染むべく、私は最大限の熱意で仕事に取り組もうと心に決めました。
勤務開始の40分前に出勤して(タイムカードを押さずに)仕込みと営業準備を終わらせるのはもちろん、開店まではダイソーで自費購入した掃除道具でキッチンやホールの清掃をし、営業が始まると頭をフル回転させて働きました。場を盛り上げるためなら(私は下戸ですが)テキーラだってハブ酒だってガンガン飲みます。

仕事の忙しさは凄まじいもので、ピークタイムにはドリンク注文が20個も重なった挙句にシャンパンやフードのオーダーも飛び、その準備をしている最中にもタバコの買い出しや出前をお願いされ、そんなときに限ってお客さまがゲロを吐いたり女の子がショックを起こしたりしてしまいます。
おまけに送迎ドライバーが欠勤した日には女の子の送迎もしなくてはならず、帰宅できる時間など見当もつきません。
(車を猛スピードで飛ばしているととつぜん眠気に襲われ、FM沖縄から流れてきた時報の音で我に返る、というようなこともありました。)

ただもちろん、同じ空の下で影山さんが今日も生きているのだと思えば、そしてこの日々を乗り越えた先にある彼女との再会を思えば、そんな忙しさや疲労などどうでもよいことです。
泥酔したお客様から痛罵や暴力を受けることもありましたが、それだっていくらでも耐えられます。傷つけられるごとに私は強くなり、そのたびに影山さんのいる場所に近づくことができると思えるからです。

退勤する頃にはすでに夜が明けていて、店先で朝日を浴びていると「少なくとも今日一日、自分は影山さんとの再会のためにやるべきことをやったのだ」という充足感で胸がいっぱいになりました。職場からアパートまでの道を私は勝手に「影山さんロード」と名付け、毎日意気揚々とその道を帰りました。

頑張りが認められたのか、「グループ史上最速」で正社員に昇格することができ、
同時に生活保護も脱出することができました。
話を振られたときのネタ。(職場をバックれたその足で沖縄行きの飛行機に乗り、「会社をバックれました」などとツイートをしたあとはスマホの電源を切って離島めぐりをしていた。その後、1日ぶりに電源を入れてツイッターを開くと自分のツイートに10万いいねがついており、おまけに「バックレ」「沖縄」もトレンド入り(?)、会社の先輩にも無事に逃亡がバレてしまったという話。)


さて、仕事と並行して、私は再入学に向けての取り組みもスタートさせました。

まずは書類の準備です。教務課の求めに応じて、再入学希望理由書や就労証明書、過去の仕事の給与明細、履修計画書、授業料を納入する旨を一筆した念書等々、私はさまざまな書類の作成・取得に奔走しました。

再入学可否の審査においては「前在籍時にどれだけ真面目に大学生活をしていたか」も重要な考慮対象になります。この点、かつて私は単位を一つも取らないまま(休学可能年数を上限まで使い切ったうえで)中退していることに加え、キャンパス周辺で布教誌配布や戸別訪問イベントを企画したり、渋谷のスクランブル交差点で宣教演説をしたり、さらには自分の学籍を使って駒場祭に偽装サークル(悪名高い「心◯◯◯テ」)を出店したりとやりたい放題でしたから、自分の来歴について弁明する書類も準備しました。

面接試験で詰問されるに決まっていますから、己の恥ずべき過去は先手を打って白状するに限ります。

学科試験が課される可能性もあるので勉強も欠かせません。
お店は日曜が休業日だったので、土曜日の勤務後は2時間ほど仮眠をとって朝食(自分にとっては夜食)をかき込んで沖縄県立図書館に向い、そこで夕方まで数学や物理の復習をしました。眠気が襲ってくることもありましたが、そのときは冷水で顔を洗って頬を引っぱたいて階下のスタバでコーヒーを飲んで、ふたたび机に向かいました。

酔い潰れて横たわるカップル、路上に撒かれた吐瀉物、立ち小便をするおじさん、オラついているヤクザや半グレ、散乱するガラス片──松山のそんな光景にも私はしだいに愛着を覚えるようになりました。沖縄の繁華街では人と人との距離が近くて、どこか居心地が良かったのです。(書いていて思い出しましたが、フロントをしていた際、ぜんぜん知らないホストの男の子に「だーれだ?」(背後から目を覆い隠すいたずら)をして仲良くなったこともありました。)
退勤後は松山公園に寄り、早朝の涼やかな蝉時雨を聴きつつおにぎりを食べました。入道雲がよく似合う沖縄の空を旅客機たちが気持ちよさそうに滑っていく、そんな風景を見ていると気分が少しだけ楽になります。(空にいちばん映えるのがスカイマークの機体だと思ったので、上京するときは少し贅沢をしてスカイマークを使おうと決めました。)
ほとんどの薬は服用をやめたものの、こればかりは手放し難かったベンゾ。ここ5年間私を支えてくれました。いつだったか、少量ずつの服用であれば主作用である眠気を催すことなしにただ頭をぼんやりさせることが──ようするに悲しみや苦しみを和らげつつ時間をやり過ごすことが──できることを発見し、以来通勤の途中であれ勤務の最中であれ、私は不安に襲われるたびにサイレースやデパスをハサミで砕いては(お医者さんに言われた用量は守りつつ)飲んでいました。 (どうでもいいですが、一部の精神系の薬を服用後、たまに感性が信じがたく鋭敏になるのは私だけでしょうか?雨がふだんよりも綺麗に見えたり、幾度となく読み込んだはずのツェランやロルカの詩にこれまでにない鮮烈な印象を抱いたり、新人歓迎会のカラオケで30回は歌ったはずの「あいみょん」や「藤井風」のなかに新しい音?を発見したりしました。)

〈余談〉職場の思い出
本筋とはぜんぜん関係ありませんが、ここで仕事の思い出についても少しだけ書き残しておきたいと思います。
夜職をしていると辛い出来事や事件──この記事にはとても書けないレベルの──にも遭遇しますし、したくない事やしてはいけない事をしなくてはならない状況もたくさんあるのですが、その一方で「この仕事に携われてよかったな」と感じる瞬間もいっぱいありました。

いちばん嬉しかったのはなんといっても優しい先輩たちに巡り会えたことです。
閉鎖病棟を退院したあと、縁もゆかりもない沖縄で私は独りぼっちでした。それでも、職場の先輩たちはそんな私を優しく迎え入れてくださり、ほんとうのお兄さんやお父さん、血の繋がった家族のように私に接してくださいました。

(いつだったか、送迎ドライバーさんが無断欠勤をして代わりに送迎に出た帰り道、私は追突事故を起こしてしまいました。お相手や会社にご迷惑をおかけした申し訳なさに耐えきれなくて、私はその日にでも保険証をポストに返却して石垣か宮古に飛ぼうとその場で腹を括りました。
(加えて貯金計画が頓挫しかけたことで自暴自棄になり、ほとんど投げやりな口調で事故の報告をしたことを覚えています。私はいちばん他人のことを考えなくてはならない時でさえ自分のことばかり考えてしまう人間なのです。)
それでも電話を受けた先輩は
「怪我は大丈夫?俺の車とってくるから送迎のことは心配しないでね」「何も気にしなくていいから、現場検証が終わったらひとまず戻っておいで」
そんな言葉をかけてくれ、車の破損具合の確認すらせず真っ先に私の身を心配してくださったのでした。(折り合いが悪かった副店長からは「そのまま一生土下座しとけ」と言われたきりでしたが…)

また、その日の勤務後、私が自宅で塞ぎ込んでいると、仕事が休みのはずの先輩から「アパートの下まで降りてきて」とLINEが来ました。私が玄関まで走って行くと先輩が笑顔で立っていて、
「○○くんが落ち込んでると聞いて飛んできましたよ」
そう言いながら一冊の付箋にまみれた人文書を手渡してくれ、私に大事な話をしてくださいました。その先輩から頂いた本を、私は今でも大切に手元に置いています。

沖縄の職場で働いた10ヶ月のあいだ、私は誰かとともに社会を生きていくうえで大切なことをたくさん学ぶことができました。皆さんに出会えなかったら、私はおそらく目標半ばに人生を諦めていたと思います。)


ところでそんな職場の温かさはもちろん、仕事のやりがいだってなかなかのものでした。自分が重要なポジションを務めた日の売上が低いと申し訳なさで一睡もできないのですが(だから毎日祈るような気持ちで帳簿をつけていました)、その一方、みんなで力を合わせて最高売上を更新したときの達成感は滅多に味わえるものではありません。

キャストさんから頂くお声もやりがいになりました。なかには残念な形でお店を去っていく子もいましたが、本土から出稼ぎに来ていた子を空港ゲートで見送るとき、「ここで働けてよかったです」と仰って頂けると嬉しい気持ちになりました。

チームワークでホールを回すのにもキャバクラならではの楽しさがあります。開店時間直前、有線が営業用のジャズに切り替わるときの気の引き締まる感じ、ネクタイをしめてベストを着てインカムをつけて、ママさんに淹れてもらったコーヒーを飲んで、さああとは一組目の客を待つだけだと気合を入れるときの気持ち、あのワクワクはやはり他の職種においては得難いものです。

沖縄での毎日のことを思い出すと、私は今でも楽しい気持ちになります。
行政や社会からは白い目を向けられがちな夜の業界ですが、この仕事に長く携われたことを私は極めて誇らしく思っています。

自分の誕生日に職場の皆様が贈ってくださったコーヒーメーカー
アパートの目と鼻の先がビーチだったので、ときどき隣人の教育実習生の子と泳ぎに行きました。真昼の空や海の目の眩むような青さも良いし、ひと気のない夜に星を眺めながら泳ぐのも良いです。

さて、そんなこんなで慌ただしい日々は過ぎていき、夏が去って秋も終わって、冬らしくない沖縄の冬も過ぎ去って、気がつけば春がやって来ていました。

勤務をする中で、私は自分の性格が根本的に変わったのを感じました。
夜職をしているとキャストの方からデートのお誘いやお付き合いの話を頂くこともありますが、その頻度も東京や大阪で働いていたときより増えました。(もちろん私は生涯で頂いたすべての告白をお断りしています。影山さんほど美しい人が世の中に存在しようとはとても想像できなかったからです。)

2月には駒場キャンパスで面接試験が行われました。
かつての私なら教団のペンダントを身につけて臨むところですが、今は影山さんからもらったメッセージカードがその代わりです。
面接の内容はさんざんなものでしたが、かりに私の人生について何も知らない人たちの胸先三寸で入学不許可の決定が下されるのであれば、今度こそ大学の不寛容を怨みつつ沖縄に骨を埋めればいいだけの話なのでした。

どうでもいいですが、「教務課主任の方と一対一でお話をする程度だろう」と高を括っていた私は、入室するなり7人の面接官が鎮座して自分を待ち構えているのを目にし、完全に戦意を喪失してしまいました。

喋れば喋るほど言葉が空回りするのがわかり、しだいに「なんだこいつ…」みたいな空気が醸成されていくのもはっきりと観取され、挙げ句理科系の教授の方には「君の学修計画書を見るかぎり、ほんとに工学の勉強がやりたいの?っていうのは正直感じるけどなあ」などと図星を突かれてしまい、焦った私は質問への回答もそっちのけで「ほんとにどうかお願いします、自分にもう一度勉強をする機会をください」などと頭を下げました。工学に興味がないのは本当でしたが、でも勉強がしたいのは本心だったので、だから面接後半はずっと項垂れていました。
(文系の高名な教授の方が「まあ、以前は大学がどういう場所かわからないまま中退しちゃったってことかな?なかなか入学後のイメージも湧きづらいよねえ」などと助け舟を出してくださった覚えがあります。)
自分の100倍頭の良い方々にあれこれ尋問を受けるのは恐ろしく、半グレに詰められる方がよっぽどマシだと思いました。

◼︎再入学が決定、上京する

令和6年の3月中旬、ついに大学から再入学の許可通知が届きました。
再入学を決意してから10ヶ月後のことでした。貯金は目標には届きませんでしたが、どうにか入学金や授業料を納められるぐらいの額は貯めることができました。

アパートの大家さんに「アライくんおめでとう。人生を変えろよ」などとお祝いの言葉を頂いたり、郵便局員さんからも「すごいねえ、沖縄の誇りだよ〜」などとお声をかけられたりして、私はいよいよ有頂天です。(そしてもちろん、長らくご心配をおかけしてしまったフォロワーの皆様に良いご報告ができて嬉しかったのは言うまでもありません。)


キャバクラでの最終日の勤務も無事に終えることができました。
心地よい気分で退職した日の昼下がり、開け放った窓から聴こえてくるフェリーの汽笛を自室の布団の上で聴きながら、私はこれまでの嫌な思い出のすべて──小学校を不登校になって惨めな気持ちで毎日を過ごしたことも、教団を脱会してすべての人間関係を失ったことも、病棟で物々しい病名を宣告されて自暴自棄になったことも、真冬の樹海で首を吊り損なって河口湖駅前で震えながら一晩を過ごしたことも、離島で自殺に失敗して巡視船で警察署まで連行されたことも、閉鎖病棟で正気を保つために映画『1900年』のサントラを一日に何十回も聴いて過ごしたことも、とにかく嫌な思い出のすべてが過去のものになったと感じました。

〈あまりにも長い迂回だった。これで私は自信をもって影山さんに会いに行ける。今度こそ自信をもって影山さんに告白ができる。きっと影山さんは振り向いてくれる。アライさん万歳…!〉

その数日後、会社の方たちやフォロワーの皆様に別れを告げて、沖縄でお世話になった方々に感謝の手紙やメールを書き送り、亡くなった10年来の旧友(「アライさん」の正体が私だと気付いた知人がわざわざDMで彼の死を知らせてくれました)にも報告を済ませ、私は意気揚々と東京へ向かったのでした。待ちに待った、影山さんがいる東京の街です。あとは影山さんにDMを送るだけ、影山さんのいる場所までもう少しだと思いました。

刻々と移りかわる眼下の景色を眺めていると妄想はいよいよ捗ります。


◼︎あっけない終わり

上京して数日が経ったある日の夜、私はついに意を決し、1年ぶりに影山さんにDMを送りました。(もし万が一断りの連絡がきた場合、当時滞在していた狭苦しい漫画喫茶ではメンタルを保てる自信がなかったので、私はわざわざ海辺のホステルに逃げ籠ったうえでDMの送信におよびました。)

ともあれ、あとは温泉に浸かったりロビーでコーヒーを飲んだりしながら影山さんから返信が来るのを待つだけです。私は近所の海岸を散歩しながら「自分の人生もやっとここまでこれたな」「影山さんと会えたらどこへ行こう」などと呑気なことを考えていました。

ところがです。予想外の事態に私は焦りました。
待てども待てども影山さんから返信が来ないのです。本当に心の底から嫌な予感がしました。

「影山さんはあまりSNSをチェックしない人なのかもしれない」「きっと休み明けで忙しいのかも…」

そんな想像で不安を抑えながら、私は彼女からの返信を半日待ち、1日待ち、2日待ちました。3日待っても返信がないので私はホステルの延泊を申請し、帰りの特急も大学のオリエンテーションもすっぽかして、来る日も来る日もホステルで返信を待ち続けました。天気が晴れると気持ちに希望が兆し、雨が降り始めると不安に襲われました。不安に襲われるたびに私は布団に篭り、保健センターで貰ったリボトリールを山のように飲みました。

不都合な事実をどれだけ視界から追いやっても、現実を直視しなくてはならない瞬間はいつか必ずやってきます。
ホテルでの滞在も5日目に差し掛かった日の午後、いつものように影山さんのXのプロフィールに飛んだ私は、そこで彼女が教団広報アカウントの直近の投稿をリツイートしているのを発見し──つまり影山さんがしっかりXを見ていること、したがって自分のメッセージは見事に「既読スルー」されていること、そこから導かれる結論として、自分が返信に値しない人間として影山さんから厭悪されているということを、今更ながら悟ることになったのでした。

私が影山さんから嫌われている──そんなこと考えてみればわかりきったことです。団体の悪評をネットにばら撒く一方でとつぜん気色の悪い告白DMを送ってよこし、一度丁重に断ったにもかかわらず性懲りもなく一年越しにふたたび手前勝手なDMを送りつけてくる「けもフレなりきりインターネットピエロ」など嫌われて当然、おまけに大学生なる社会的身分で以って異性の気を引こうなどという魂胆もあさましく下劣で、いま振り返ってみてもここ一年の私の振る舞いは「人間を舐めている」としか評価のしようがありません。そんなこともわからないから私はいつまでたっても社会に馴染めないのです…。

〈影山さんから肯定的な返事が来ることを期待していた私は、あるいは断りの内容でも何らかの返信くらいは来るだろうと予想していた私は、いったいなんて馬鹿で大甘だったのだろう?──〉

1年に及ぶ再会計画がこんなにもあっけなく終わった事実を受けいれることができなくて、胸が寂しさと悲しさで押しつぶされそうでした。影山さんとの再会が叶わない。その事実に耐えることができなくて、私は白浜海岸に走っていってゲロを吐きました。空っぽの酸っぱい胃液を地面めがけて吐いていると、一年前にも同じように夜の海岸でゲロを吐いたときの感覚が──慶良間諸島の海岸でOD首吊りに失敗し、覚醒後にハルシオンの催吐作用でのたうった感覚が──きれいに蘇ってきました。

影山さんとの再会を目指してひた走りに走ってきた私の自分勝手な自己中物語は、こうして私の予想もしないかたちであっけなく終焉を迎えることになったのでした。

ホストに必要以上にハマってしまうキャストの方々/キャバ嬢に必要以上にハマってしまうおじさんと仕事を通して親しく付き合いながら、しかし私は彼女ら/彼らが生きる世界をずっと他人事のように感じていました。実は自分がいちばんしっかり皆さんの気持ちを理解できる立場にいたのですが…。


あえて書くまでもないことですが、私は自分をとりまく問題から目を逸らすために、たぶん影山さんの存在を利用してしまったのだと思います。

閉鎖病棟を退院して“現実世界”に戻ったあと、私は「なんの目的も生きがいもない、ただひたすら死を待つだけの苦しい生活」をあらためて眼前に突きつけられて猛烈な不安に襲われました。

もちろんやり甲斐のある仕事も経験してきたし、図書館でテキストと向き合う時間も面白くはあったけれど、それらを「生きる意味」にまで昇華できるかといわれれば、少なくとも当時の私には自信がありませんでした。

それにそもそも、私が心身に抱え込んだ病気はいつか必ず私を捉える日が来るのだし、だから将来への希望など絶対に持ちようがないと思ったのです。
当時は「いつ死ぬか」だけを考えながら首◯り用ロープを詰めたリュックを背負ってカプセルホテルと図書館を往復して過ごしていました。

そんなタイミングで(いま考えれば本当に幸運なことに)積年の憧れの人であった影山さんとふたたび言葉を交わすことが叶い、喜びが爆発するにまかせてマイナスの感情を脳内から押しやった挙句、私は「彼女と再会する(ために大学に入り直す)」という目標をでっちあげ、同時に自身をとりまく問題と向き合うことを先送りしたのだと思います。

(ところでそんな言い訳はともかく、駒場の『イタトマ』で4時間かけてこの備忘録を書きながら「やっぱり私は頭が変だ」と思いました。『コレラの時代の愛』じゃあるまいし、10年近く会ってもいない人に強烈な片思いの感情を抱き続けるなんて変です。おそらく自分には単一の「誰か・何か」(教祖であれ「憧れの人」であれ極端な政治思想であれ)に自分を全托し、それを通して自身の生に意味づけをしようとする傾向があって、これを矯正しないかぎり、今後も私は教祖や影山さんにかわる「誰か・何か」に縋りついてしまうのかもしれないのだと思いました。)






◼︎その後のはなし

教祖に人生を捧げる計画が頓挫したうえ、ついに影山さんと再会できる見込みも消滅してしまって、東京の漫画喫茶に戻ってきた私はほんとうに心の底から途方に暮れました。影山さんとのDM履歴をみるたびに悲しさで胸が潰れそうになりましたし、もう一度影山さんの声が聞けるなら何だってしたいと思いました。眠剤を飲んで布団に入るたび、「自分はこれからこの寂しさを抱えたまま生きていけるのだろうか」と考えました。

副産物として手元には理科一類の学籍が残りましたが、もとはと言えば影山さんと再会を果たすためだけに入学した大学です。べつに今さら線形代数学や熱力学の勉強がしたいわけではありません。陽気な学生たちでごった返すキャンパスを歩きながら、私は今度の今度こそ生きる理由がなくなってしまったと感じたのを思い出します。

ただ、そんな悲しさや寂しさに悩まされる一方で、入学して数週間のあいだに少しだけ心境に変化も生まれ始めました。

いちばん大きな変化が兆したのは入学式に出席したときのことだと思います。当日、武道館会場に掲げられた「入学式」の堂々たる垂れ幕を見て、私は「自分はほんとうに大学生になったんだな」などと妙な感慨に打たれました。もちろん「大学生になること」はあくまで再会計画の付属物でしかなかったのですが、入学式という儀礼への参加を通して、その事実の意味合いが自分の中で少しだけ変容したように感じられました。

そして同時に、宗教上の理由により大学に進学しなかった/できなかった昔の友人たち、そして縁が切れてから6年になる弟のことを思い出しました。私は彼らが来たくても来れなかった場所に(ほとんど奇跡のような偶然が重なった結果)来ることができている、その事実が改めて重く感じられたのです。来賓の方々の祝辞を聞きながら、私は大学で勉強に打ち込んでいる自分の姿を心に描きました。(理科一類から文系学部に進学するのがまったく難しくないことも初めて知って嬉しかったです。)

大学で何人もの優しい子たちに巡り会えたのも気持ちが上向くきっかけになったように思います。
対面授業初日、緑のまぶしい1号館の教室で第二外国語の授業が始まるのを待っていると、前に座っていた子が「そういえばオリ合宿来てなかったよね。クラスラインには入らないの?」と話しかけてきてくれました。
私が「じつは自分、ほかの子たちと入学経路が違ってすこし年上なんだ。だからみんな気を遣っちゃうと思うし大丈夫なんだよ〜」などと答えると、その子は
「そんなの誰も気にしないよ、いいから入ろう。5月祭の企画も進んでるし」
そんな言葉をくれて、大学での初めての居場所を私につくってくれたのでした。(ちなみに本記事の話をしたら爆笑してくれました。僕にとっては笑い話ではないのだけど、でも心が楽になったよ!ありがとうSくん!笑)

学外の相談機構の皆様にも支援の手を差し伸べていただきました。
相談員の皆様は学生寮担当窓口で門前払いをくらった私のために窓口への同行を提案してくれただけでなく、奨学金制度について調べてくれたり、住居や食糧を提供するNPOへ繋いでくれたり、さらには(昔からの持病の影響で講義に出られなかった私のために)担当の教授に欠席理由を説明して落単を回避出来るよう取り計らってくださったりしました。

教団時代の知り合いの何人かと連絡をすることが叶ったのも嬉しい思い出です。Xに再入学の報告をあげたとき、むかし自分に勉強を教えてくれた先輩信者の方が連絡をくれたのですが、(ネットでさんざん教組の悪口を書いてきたこともあり)気まずくなって私が謝罪の言葉を口にすると「たとえ信仰を失っても君が一生懸命生きてるのを見て先生(教組)が喜んでないはずがないよ」と声をかけてくださって、それがとても嬉しくて懐かしかったです。(同時に自分が情けなくもなりました。)
またみんなで手を繋いで『おなじ時代』(青年信者によく歌われていた教団歌)を唄いたいなとか、そんなことを思ったりしました。

皆様の存在なくして、私は上京後の諸々の苦労を乗り越えることができませんでした。皆様からいただいた親切を、私は今後も忘れないでいたいと思います。

以前に入学した際は学生証を受け取ったその足で実家にも寄らずに教団施設へ蜻蛉返りしたので、入学式に出席するのは今回が初めてです。


そんな諸々の出来事や出会いのあと、私はバイトやレポート作成の合間を縫っていろいろな授業に出てみるようになりました。
教室を覗いてみると、本の著者としてしか知らなかった偉大な先生方が自分の知らない研究分野について講義をしていて、私はあらためて大学の学習環境の贅沢さを実感すると同時に、世界は自分の知らない事柄で満ちているのだという当たり前の事実に打たれました。
図書館に行くたびに読みたい本のリストも増えていきましたし、学習意欲の高まりとともに、少しづつ心の空白が埋まっていくのも感じられました。


生きる理由について考えすぎるのも止めにしました。
きっとそんなものは「夏休みに沖縄に遊びに行くのが楽しみだから」くらいで充分なのだと思います。もちろん勉学に打ち込むなかで何か立派な生きがいが見つかれば儲けものでしょうが、あるいは何も見つからなかったとしても、靴を履いたり傘をさしたりしているうちに夏はかならず巡ってくるし、そうしたら沖縄に行って海に飛び込んでわーっと泳いで、これからのことはパラソルの下でソーダでも飲みながら考えればいいのです。

そもそもの話、私は一年前に沖縄で死んでいるはずでした。
そんな自分がどういうわけか、影山さんとの奇跡のようなコンタクトをきっかけにもう一度頑張ろうと思い直すことができて、たくさんの方々の支えのおかげでこの1年を生き抜くことができて、そしてどうにか大学への再入学も果たすことができました。
だからこの一年の貴重な経験や、仕事を通して出会った沢山の素敵な人たちとの思い出や、私がいま視野に収めている素晴らしい景色は、(影山さんにとっては知ったことではない話だと思いますが)すべて影山さんからの、そして私を支えてくださった方々からの贈り物なのです。その贈り物をこれからも大切にしたいと思いました。(了)

〈付記〉
・個人の特定防止その他諸々の事情により、上記文章中の出来事および人物には本筋を損なわない程度の改変を施しております。

・文章内容の統一のため、今回は影山さんに関する出来事に絞って記事を書きましたが、再入学までのあいだにはそれ以外にも文章にしてみたい出来事が沢山ありました。一番はもちろん職場のこと、とりわけそこで出会った人々のことです。
松山の街で働くなかで、私は信じ難いほど苛烈な環境を力強く生きる同世代の子たちと知り合いました。虐待をする両親から逃れて松山にやってきた姉妹、唯一の肉親を亡くされたショックで何年も引きこもりを経験されたあと、やりきれない日々を変えようと思いきって沖縄にきた子、6人姉弟の長女として生まれ、弟妹たちの学費のために自分の学業を断念して働いている子、寿命を削ってでも働かないと借金を返せないからと毎日50錠近い薬を飲んで出勤している先輩のボーイ、激しいDVの末に精神を病み、ビルの屋上から飛び降りたい衝動と闘いながら一日一日を生き延びている子、妊娠が判明したとたんにパートナーが蒸発し、現在は一人で子供を育てる二十歳そこそこのシングルマザーの子──職場で出会った一人ひとりのことは今後も忘れることはありません。
家族がいることも、予備校や進学校に通えることも、勉強机が置ける広い部屋に住めることも、健康な心身でいられることも、大学で勉強ができることも、すべて当たり前のことではないのだと思いました。命が脅かされない平穏な日々が明日以降も続いていくのは奇跡なのだと知りました。
(全く私の勝手な欲求ですが)やがてすべてが過去の話になって、お世話になった方たちが無事に夜の業界を旅立ったら(こちらもプライバシーには充分に注意を払わねばなりませんが)松山で見聞したあれこれについて書いてみたいと思っております。

・学費について質問や相談を頂戴することが多かったので、少しだけ書いておきます。
保護者等がいない状況で援助制度の申請をしようとすると、一人では解決が困難な問題にたくさん直面することになります。その際は決してお一人で悩まず、まずはご自分の事情を窓口に相談すること、それも出来るだけ複数の職員や窓口にダメもとで相談してみることです。大学窓口の業務には「現場の職員に判断の裁量が認められているもの」と「認められていないもの」があります。後者に関しては各々の学生の事情を踏まえて特例的な対応をとれる余地が残されていますから、マニュアルの細かい規定なり基準はさしあたり脇において、まずはご自分の事情を職員さんにぶつけてみましょう。(あまりこういうことは書きたくないのですが、大学の職員さんにもさまざまな方がいらっしゃいます。親身に話を聞いてくださる方もいれば、ひとを一瞬で鬱状態に追い込むに足る言葉を吐く方もいます。たまたまハズレの職員さんに当たって門前払いをされては元も子もないですから、窓口で否定的な答えや冷たい対応を返されても諦めたりせず、部会なり委員会なりの上位の判断機構に諮問してもらうようにその場で確約を取り付けるようにしましょう。対応した職員さんが「お話にならない」のなら別の担当者に変わるようお願いをすればいいし、しつこくメールでも問い合わせればいいのです。)
もちろん事務員の皆様のお仕事を増やしてしまいますし、それはそれで心苦しいことですが、皆さまが納めた高額の入学金や検定料が事務員の方々のお給料の原資になるわけですから、多分それぐらいのことはしてもいいのです。たった一度きりの人生なのですから、皆様の事情について何も知らない大人たちの胸先三寸に、どうか皆様の人生を預けないでほしいと願っています。






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