四方山話~私が独立直後にやってきた、試行錯誤の記録
私が独立直後にやってきたことを、上手くいったことも、失敗したことも包み隠さず赤裸々に語った連載コラムをまとめてみました。
参考になるかどうかは、貴方次第。
第1話 無謀な独立
私は、平成16年10月に、それまで4年半勤めていた法律事務所を退所し、独立して、赤井・岡田法律事務所を開設しました。
この独立は、今から振り返って考えてみると、あまりにも無計画で無謀なものでした。
4年間の検察庁勤務の後、勤めさせていただいた法律事務所は、かつての司法修習先の事務所で、本当に自由にさせていただきました。
毎日、午後5時少し前に仕事を終えて帰宅していました。
午後5時に仕事を終えるという話しを同業者や他士業の知り合いに話しても、すぐに信じてもらえず、たまたま私が帰路についているところに出くわして、やっと信じてもらえるといった状況でした。
このような時間に帰宅できていたのは、検察庁勤務時代に磨いた事務処理能力に加えて、いわゆる個人事件というものをやらなかったからでした。
法律事務所に勤務する弁護士は、その事務所のボスから命じられた事件(これを事務所事件と言います)を担当します。
そして、それ以外に、事務所を介さずに、直接自分自身に依頼される事件(これを個人事件と言います)も受任することで、収入を増やすとともに、将来独立する際の顧客をあらかじめ獲得していくのです。
私が、事務所事件のみをやって、個人事件をやらなかったというのは、当時、事務所からいただく給与だけで生活し、将来独立することを想定した計画的な行動をとっていなかったことになります。
にもかからず、私は、無計画かつ無謀にも、後先の考えなしに、平成16年10月に独立をしてしまったのでした。
当然、当時の顧客はゼロ、独立しても相談や依頼の来る目途は一切ない状況でした。
(続く)
第2話 重い経費負担
私は、将来的に独立することを想定した計画的な行動をとっていなかったにもかからず、無計画かつ無謀にも、後先の考えなしに、平成16年10月に独立しました。
当然、当時の顧客はゼロ、独立しても相談や依頼の来る目途は一切ありませんでした。
そのような状況であったのに、私は、さらに無謀にも、いきなり50坪の事務所を賃借しました(ただし、事務所を共同で立ち上げた知り合いの弁護士との経費折半でです)。
これは、家賃の負担などすぐに気にならなくなるから広めのところを借りておいた方が良いという、そのころ既に独立していた同期の弁護士からのアドバイスを真に受けてのことでした。
結果的には、このアドバイスに従ったおかげで、今日があるのですが、当初はこの家賃を含めた経費の負担に苦しみました。
ろくに仕事もないのにのしかかる重い経費負担、そんな状況が1年以上も続きました。
ただ、時間だけはたっぷりとありましたので、その間に、私は心理カウンセリングの通信講座を受けたり、経営やマーケティングなどの本を読み、これがその後、非常に役立つことになりました。
この間、何とか経費を捻出できたのは、独立してすぐに立ち上げた手作り感満載のHPのおかげでした。
当時は、まだHPを作っている京都の法律事務所は少なく、HPがあるというだけで差別化ができました。
また、当時は、検索サイト市場を、Yahoo! JAPANが独占しており、その登録サイトになったことが非常に有効でした。
特にSEO対策など何もしなくても、「京都 弁護士」や「京都 法律事務所」といった検索ワードでの検索結果で常にトップに表示していただくことができました。
ただ当時、この登録サイトになるためには、消費税込みで5万2,500円を支払って、ビジネスエクスプレスというものに登録する必要があり、この5万2,500円の支出が財政的に厳しかったため、どうしようかと丸一日迷ったことを昨日のことのように鮮明に覚えています。
とりあえずは、このHPのおかげで、経営的にギリギリの線で踏みとどまることができていましたが、そのような状況がそう長くは続かないことは目に見えていました。
なぜなら、周囲の法律事務所も次々とお金をかけたHPを作り始め、また検索サイト市場も変化し、それに伴いYahoo!登録サイトの特典も失われつつあったからです。
まさに、すぐそこまで経営的な危機が迫っていました。
(続く)
第3話 何とか凌いで
前回は、私が、平成16年10月、無計画かつ無謀に独立し、重い経費負担に1年以上苦しみながらも、作ったHPのおかげで、何とか経営的に凌いでいたというところまでをお話ししました。
今回は、寄り道になりますが、少し、その当時の話しをさせてください。
独立後、固定経費だけで月に約55万円かかり、弁護士会会費やその他諸々を入れると経費の月額は70万円を超えていました。
そして、税金関係が少なくとも月額に直せば30万円はかかりました。
さらに、国民年金、国民健康保険で月に10万円近くが必要で、生活費プラスわずかであっても貯蓄をしようとすると、月の売上げは150万円が必要でした。
独立した年の残り3か月は、なんやかんやでこれをクリアーし、翌平成17年の年間売上げも、ギリギリこれをクリアーしました。
当時、HPからの事件依頼が、全取扱事件数の約4割を占め、全売上の約3割弱を占めていました。
残りは、弁護士会の主催する法律相談を担当することで、事件の依頼を受けていました。
当時は、まだ弁護士の数が激増する前であったので、弁護士会の主催する法律相談を担当するだけでも、事件の依頼を獲得することができました。
そのころ弁護士が事件を獲得するルートの王道は、友人、知人、他士業の先生方、過去の依頼者などからの「紹介」でした。
私は、当時、友人や知人にも自分が弁護士をやっているということをあまり伝えておらず、同業者や他士業の先生方との付き合いもほとんどありませんでした。
また、独立するまでに個人事件をやっていないかったので、自分にとっての過去の依頼者というものが存在しませんでした。
ちなみに、どうして、自分が弁護士をやっていることをあまり周りに伝えていなかったかというと、友人、知人から依頼を受けることを躊躇していたからです。
当時は、友人、知人の非常にプライベートな内容を、仕事として聞きたくはないと考えていました。
また、毎日午後5時に帰宅し、交流会に出たり、飲み会に出ることもなかったので、同業者や他士業の先生方との付き合いもほとんどありませんでした。
このような状態だったので、当然、私に事件を「紹介」をしてくださる方は存在せず、HPから、ないしは弁護士会の主催する法律相談を担当することで、何とか事件を獲得していたのです。
ただ、そのような状況が長くは続かないことは目に見えていました。
周囲の法律事務所も次々とHPを作り始め、また検索サイト市場もYahoo!JAPANの一社独占が崩れだし、Yahoo!登録サイトが検索で優位に扱われなくなってきていました。
「紹介」者を持たない私が、近い将来、経営的に行き詰まることは火を見るより明らかでした。
にもかかわらず、私は、やらいなこと、できないことの言い訳ばかりして、何も必要な行動をしようとしませんでした。
(続く)
第4話 経営的な危機に直面
前回は、独立してから1年と少しは何とか凌いだものの、「紹介」者を持たない私は、近い将来、経営的に行き詰まるのが明らかであったにもかかわらず、やらいなこと、できないことの言い訳ばかりして、何も必要な行動をしようとしなかったというところまでをお話ししました。
見た目からはあまり想像できないと言われますが、私は、もともと、それほど外向的なタイプではありません。
人見知りをするので、初対面の人と話すのは苦手ですし、他人と打ち解けるまでにはかなりの時間を要します。
そういったことを、私は、自分が行動しないこと、できないことの言い訳にしていました。
そのほかに当時の言い訳を挙げると、以下のようなものがありました。
すぐに弁護士にならず、検事をしていたため、他の弁護士よりスタートが遅れているので仕方がない。
元々、営業をやりたくなくて、この業界を目指した。
経営の経験など全くない。
経営やマーケティングについて勉強はしたが、実戦で上手くいくかどうか不安。
何から手を付けて良いのか分からない。
失敗するのがこわい。
他人に批判されたり、悪く思われるのが嫌だ。
何をするにもお金がかかるが、そのお金がない。
事件処理で手一杯で、営業などしている時間がない。
等々、まさに言い訳のオンパレードでした。
しかし、思っていたよりも早く、危惧していた状況が訪れました。
忘れもしない、平成18年。
年明けから、新規の相談や依頼が少なく、1月は売上が約39万円しかなく、経費にも事欠き、生活費を持って帰ることができませんでした。
そして、2月に入ってもその状況は変わらず、半月が過ぎても、売上は約59万円と散々たるもので、2月も生活費を持って帰れないことがほぼ確定していました。
そのような切羽詰まった状況の中で、私は、41歳の誕生日を迎えることになりました。
誕生日の前日、どうしたものかと、ぐずぐず悩んでいるうちに時刻は23:00を過ぎ、間もなく41歳になろうとしていました。
(続く)
第5話 人生の分岐点
前回は、独立してから約1年と少しが経過し、平成18年に入ってすぐに、経営的な危機に直面したというところまでをお話ししました。
そんな状況下で、私は41歳の誕生日を迎えようとしていました。
私は、誕生日前夜、パソコンの前にいて、SNS(当時は、FBではなく、mixiでした)のページを意味もなく眺めながら、これからどうしようかと自問自答をしていました。
午後11時になり、あと1時間ほどで、自分が41歳になると考えたとき、ふと亡くなった母親のことが私の頭をよぎりました。
母親は、私が26歳のときに、病気のため51歳という若さで亡くなっていました。
母親のことを思い出しながら、早いもので、私も、母親の亡くなった歳まで、あと10年という年齢になってしまうのだなと思いました。
そして、気がつくと、既に零時を越え、私は41歳の誕生日を迎えました。
このとき、私は、自分の人生の持ち時間は限られているのだということを痛切に感じていました。
と同時に、私は、無性に、自分自身を変えたい、変わりたいという強い衝動にかられました。
そして、私は、「今、この瞬間から、やらないこと、できないことの言い訳をするのはやめよう。何事についても、やらない理由、できない理由を探すのはやめて、これからは、どうやったらできるかだけを考えて、行動するようにしよう。」と決意しました。
そう決意すると、私は、まず手はじめに、早起き生活を始めて、考え方を前向きに変え、人見知りを克服しよう決め、そのための行動として、先程までただ眺めていただけのSNSのページで、朝食会のコミュニティを立ち上げ、メンバーを募集しました。
この日が、私の人生の分岐点となりました。
平成18年2月18日のことでした。
(続く)
第6話 早起き生活と行動
前回は、経営的な危機に直面していた平成18年2月18日。41歳の誕生日を迎えた私は、「今、この瞬間から、やらないこと、できないことの言い訳をするのはやめよう。何事についても、やらない理由、できない理由を探すのはやめて、これからは、どうやったらできるかだけを考えて、行動するようにしよう。」と決意し、SNSのページで、朝食会のコミュニティを立ち上げ、メンバーを募集したところまで話しました。
この朝食会には、約10名の応募がありました。私が弁護士ということもあって8割は士業の方々でしたが、それ以外の方にも参加していただきました。
この朝食会は、月に1回で、その後約4年継続することになりました。
私は、これをきっかけに、早起き生活を始めました。
毎朝5時に起きて、事務所に7時には着き、誰よりも早く仕事を始めるようになりました。
初めのうちは、眠たくて、あまり効率はあがりませんでしたが、一月もすると身体が慣れてきて、考え方も次第に前向きに変わっていきました。
時間を見つけては、片っ端から経営やマーケティングに関する本を読み、少しでも良いと思っことは全て実行していきました。
私は独立した当初から、「1人経営戦略会議」ということをしていました。これは意識的に経営戦略について考える時間を取るようにして、考えたことを文字に起こし、書き残すようにしたものです。データとしては、この平成18年ころ以降のものが現在でも残っています。
平成18年初頭ころの「1人経営戦略会議」では、以下のような記載をしていました(一部抜粋)。
・ ホームページ ’05の事件依頼の40%はここから、売上の27.6%
・ これまでの依頼者等からの口コミ これが現在はまだ、全く機能せず
※ 今後は、これを地道に伸ばしていく必要がある
最低でも5年、下手すると10年かかるかもしれないが、根気強く
① 毎回の相談、事件処理を誠実に行う
② どんなに小さな相談、事件でも手間暇を惜しまず、こなしていく
・ 専門訴訟
弁理士登録する → 弁理士とのコネクション作りが必要
医療過誤弁護団 → 本年1.18に参加させてもらった
先物被害、消費者被害勉強会も検討する
・ 損保会社 単価は低くても、ここは我慢して維持
※なお、弁理士登録により、月の固定経費が約5万円アップするので、他の経費、特に共通以外の個人負担分の月約15万円をできるだけ節減していく必要がある
とにかく、色々なことをやりました。
当然、上手くいかなかったことも山ほどありました。
ただ長い目で見ると、やったことが、その後何らかの役に立っています。
京都産業21という機関の専門家派遣に登録しましたが、当時は一件も仕事は来ませんでした。
ゼクシーという雑誌に、セミナーの企画書(こうすれば円満な結婚生活を送れるみたいな内容)を送りましたが、何の反応もありませんでした。
中小企業法務研究会という弁護士の勉強会を立ち上げ、その勉強会メンバーで、自主開催のセミナーを2回くらい企画しましたが、ほとんど集客ができませんでした。
コミュニティFMの「チャレンジ・ディスクジョッキー」という企画に応募して採用され、ラジオのDJもしましたが、当時は全く仕事には結びつきませんでした。
一見、空回りをしているようでしたが、それまでと比べて行動ができるようになっていっていたので、そのうちに必ず結果は出ると信じて、私はひたすら行動を続けました。
(続く)
第7話 やってみたこと①
前回は、平成18年2月18日に、SNSでメンバーを募集して朝食会を始め、これを契機に、とにかく色々なことをやったということを話しました。
本当に、上手くいかなかったことも山ほどありました。
ただ、長い目で見ると、やったことが、その後何らかの役に立っています。
今回からは、そのようにやってみたことについて、思いつくままにお話ししたいと思います。
私は、差別化を考え、とりあえず専門分野を、片っ端からやっていこうと考えました。
専門分野の1つとして、医療過誤事件という分野があります。私は、この分野に関しては、医療過誤弁護団という団体に入れてもらいました。この団体は、弁護士会がやっているわけではなく、患者側で医療過誤事件を扱う有志の弁護士が組織している団体です。
この団体に入ると、当時は半年~1年に1件程度の頻度で、相談事件の割り振りがありました。
ただ、医療過誤事件というのは、なかなか訴訟にまで進むことはなく、せっかく回ってきても、相談や調査の段階で終わってしまう事件ばかりでした。
要は、あまり売上には結びつかなかったのです。
あるとき、その医療過誤弁護団の関係で、ある学者さんが書籍の共著者を募集しているという話を聞きました。各章ごとに数名の共著者を探しているということでした。
私の周囲の人たちは、面倒くさいのかみんな引き気味で、半ば押し付け合いのようになっていました。
そんな中で、私は、躊躇することなく手を挙げました。当時、初めてのビジネス書の出版も決まっていたので、引き受けると大変になるのは目に見えていましたが、なんとかなると思いました。
ちなみに、その時に共著した本は、「人の一生と医療紛争」という本で、かなり後に青林書院から出版されました。
この本の編者であった学者さんが、京都で勉強会を主催されており、本を共著した縁で、誘っていただきました。
初めて参加してみると、現役の医師、学者、弁護士が参加するという珍しい勉強会だったのですが、完全に形骸化していました。
参加者は、年配の方ばかりで、しかも数名の参加しかありませんでした。
私は、その学者さんから、この勉強会は由緒正しい会なので、なんとか活性化させたいという相談を受けました。
私は、また後先のことを考えずに、今後の運営を私が担当するからと安請け合いをしました。
そして、それから私は毎回発表する判例を用意して調べ、当初の数回は自ら発表するなどして、活性化に努めました。
その甲斐あって、1年もすると、参加者も増え、勉強会は息を吹き返しました。
これも、いくら時間と労力を使えど、全く売上には結びつきませんでした。
しかし、この勉強会に、(私は知らなかったのですが)京都府保険医協会の方が毎回参加されていました。そして、この勉強会がきっかけで、後に、協会の相談協力弁護士の1人に選んでいただきました。
現在では、そこから医療関係者からの相談や事件依頼が入ってくるようになっています。
それだけでなく、医療関係の事件を扱っているという噂が広まり、当時は6名しかいなかった医療協議会(毎年1回、裁判所、府立医大、京都弁護士会が共同開催している会議)のメンバーに入れてもらったり、地区医師会の会報誌にコラムを書かせてもらったり、医療機関の顧問先もできるなど、医療関係者からの相談、依頼が増えていきました。
(続く)
第8話 やってみたこと②
前回より、私が、平成18年2月18日に行動をすると決めてから、色々とやってみたことについて、思いつくままにお話ししています。
私は、当時、専門家派遣登録をすることのできた機関のほとんどに登録をしました。
当然、そこから仕事の紹介があることを期待してのことでした。
京都では京都産業21に、滋賀では滋賀県産業支援プラザ に登録しました。
滋賀県産業支援プラザについては、書類提出のみで登録できましたが、私は、自分はこういう相談に対応できるし、こういうネタのセミナーなら無料でやりますよといった内容のプレゼンを、資料まで作って担当者に対してやりに行きました。
しかし、当時から現在に至るまで、一件も仕事の紹介は来ていません。
京都産業21は、登録時に書類審査だけでなく、面接までありました。
そして、その面接の際に、登録してもらっても、仕事の紹介は全くない旨を直接、面接担当者から告げられました。
そして、その言葉のとおり、登録後一件も仕事の紹介はありませんでした。
ただ、面接時に対応してくださった面接担当者とは別の事務員の方がたまたまブログをやっておられたのを後日見つけ、それにコメントをして、当時私のやっていたブログを紹介したところ、しばらくお互いのブログを通じてのやり取りが続きました。
そして、その方が、もし何か弁護士対応の相談なりが入ったら、必ず私に回してくれると言ってくれました。
しかし、実際には、仕事の紹介はないまま、その方とのやり取りも自然消滅しました。
その後、京都産業21は、他の類似の複数機関と統合され、京都高度技術研究所(アステム)に引き継がれました。
そして、登録から、確か5年以上は経過していたと思うのですが、そんなある日、突然、アステムから専門家派遣の依頼が舞い込んで来ました。
私は、喜んでその依頼を受け、専門家派遣の業務を遂行しました。
そして、業務終了後に、どうして私に依頼をしてもらったのかを、そのときの担当の方に聞いてみました。
すると、以前ブログを通じてのやり取りのあった方が、その担当の方に申し送りをしてくれていたとのことでした。その申し送りは、もし何か弁護士対応の相談なりが入ったら、一件目は必ず私に回すようにとの内容であったとのことでした。
本当に嬉しい話しでした。
私は、その後、アステムからの依頼は、私が対応可能なものである限り、どんな内容のものでもお受けするようにしてきました。
アステムからの依頼は、現在も続いています。
せっかくいただいたご縁なので、これからも大切に続けていきたいと考えています。
そこでは、ベンチャー企業やスタートアップしたばかりの企業からの相談を聞く機会を多く持つことで、そういった企業に対する相談対応等のスキルやノウハウを積み上げることができました。
(続く)
第9話 やってみたこと③
前回より、私が、平成18年2月18日に行動をすると決めてから、色々とやってみたことについて、思いつくままにお話ししています。
私は、当時、仕事が少なく、時間だけはあったので、一見仕事の獲得には直接結びつかないようなことにも片っ端から手を出していました。
心理カウンセリングの通信講座を受け、事務所の会議室で教材のビデオを観ていたこともありました。
これは、のちに相談者や依頼者からのヒアリングや信頼獲得に役立つことになりました。
また、突飛なところでは、FMラジオのディスクジョッキーをやったこともありました。
京都伏見にある「京都リビングエフエム FM845」というコミュニティFM局が、「チャレンジディスクジョッキー」というコーナーを設けていました。
これは、素人が週一で1か月だけ30分の音楽番組のディスクジョッキーをやってみるという企画でした。
公募されていたので、私は、早速、履歴書を送付して、面接を受けました。
男性で、弁護士というのが珍しかったのか、即採用になりました。
いくつかの音楽ジャンルの中から、自分のできるジャンルを選ぶ必要があったのですが、このFM局のリスナーは高齢者が多かったので、音楽のジャンルとしては演歌などの高齢者向けのものばかりが予定されていました。
そんな中で、唯一「懐かしのフォーク音楽」というジャンルだけが、私にもなんとかできそうなジャンルであったので、私はこれを選びました。
そして、曲の選定、曲によっては音源の用意、喋る内容についての原稿の用意などをして、私は、収録に臨みました。
曲は、吉田拓郎さん、風、グレープといった私が中学生のころにフォークギターを少しかじっていたときの教則本に載っていたような曲ばかりを選び、これに高校生当時のエピソードを織り交ぜながら、なんとか4回分の収録を無事に終えることができました。
最後の収録が終わって数ヶ月が経ったころ、そのFM局から連絡がありました。
今更何の連絡だろうと思いながら電話に出たところ、「番組審議会の委員」をやって欲しいというオファーの電話でした。
このような放送局では、月に一度、有識者による審議会を開くことが義務づけられているとのことでした。
そして、既存の委員が1人都合により辞められるので、代わりに入って欲しいということでした。
私は、これも何かの縁と思い、快く引き受けることにしました。
月に一度、午後の2~3時間を拘束され、出るのは交通費だけという、ボランティアのお仕事でした。
確か、4~5年ぐらい、もしかしたらもっと続けていたかもしれません。
その間、3年目ぐらいに、委員長をやっておられた大学教授が辞められ、まだ新参者であった私が委員長をやることになりました。
審議会のメンバーの多くは、伏見界隈の有識者の方々で、審議会でお目にかかる以外にも、暑気払いや忘年会をやったりと、楽しくお付き合いをさせていただきました。
そして、審議会を辞めて数年したころから、ぽろぽろとそのころのメンバーの方から事件の相談を受けたり、紹介を受けたりするといったことが増え、長い目で見れば、仕事の獲得につながりました。
しかし、何よりも、ラジオのディスクジョッキーや番組審議会委員という、普通では経験できないような経験をすることのできたことが貴重であったことは言うまでもありません。
(続く)
第10話 選択を迫られて
前回まで、数回にわたり、私が、平成18年2月18日に行動をすると決めてから、色々とやってみたことについて、思いつくままにお話ししました。
そろそろ話しを本筋に戻しましょう。
平成18年。
年明けから、新規の相談や依頼が少なく、1月は売上が約39万円しかなく、経費にも事欠き、生活費を持って帰ることができませんでした。
そして、2月に入ってもその状況は変わらず、半月が過ぎても、売上は約59万円と散々たるもので、2月も生活費を持って帰れないことがほぼ確定していました。
そのような切羽詰まった状況の中で、私は、41歳の誕生日を迎え、そこから行動するようになったというところからです。
はっきり言って、その年の売上は半ばあきらめていました。
それでも、何とか生活していけるだけは確保したいと願って、空回りをしながらも動きまくっていたわけです。
ところが、ちょうどその頃から、いわゆる過払金バブルという現象が始まりかけていました。
私は、過払金の事件を積極的に取っていたわけではありませんでしたが、それでも、その恩恵を少なからず受けました。
元々は自己破産をするべく相談に来られた依頼者が、実際に着手してみると、かなりの過払金があり、破産するどころか、高額な過払金を手にして帰って行かれるということが何度となくありました。
そして、この時、私は選択を迫られました。
一つは、過払金の事件をたくさん扱って、売上を一気に上げていくという選択肢でした。
そして、もう一つは、必要以上に過払金の事件は扱わず、その代わりに専門訴訟などをメインにすることで弁護士としてのスキルを上げ、将来的に事件単価を上げていくという選択肢でした。
今でも、まずは過払金の事件を積極的に取りにいって、一財産築いてから、余裕を持ってスキルアップしていくという選択肢もあったのではないかと考えることがあります。
しかし、当時から私は、時間>お金という価値観であったので、前記のようにお金に困っていたにもかかわらず、少しでも早く弁護士としてスキルアップして事件単価を上げたいと、後者の選択肢を選びました。
その結果、かなり運が良かったとしか考えられないのですが、その年の後半には、そこそこ高単価な事件の依頼を一定数受けることができ、そこに過払金バブルの恩恵が多少は加わり、終わってみれば、年間の売上は目標額の倍を超えていました。
しかし、この結果が、また翌年からの苦悩を生んでいくことになるのでした。
(続く)
第11話 行動を続ける
前回の続きです。
平成18年は、年初こそは売上がほとんどなく苦しみましたが、運と過払金バブルの恩恵が加わり、終わってみれば、年間の売上は目標額の倍を超えていました。
このように売上が増えたことを喜んでいたのもつかの間、税務申告の時期になり、それまでは自分でしていた申告をこの年からは税理士さんに依頼することにしていました。
申告が終わったころ、その税理士さんから、その年の納税予定額を知らされました。
そして、その金額の多さに驚きました。
なんやかんやで、確か、年間1,200万円以上の納税が待っていました。
もう一年、平成19年度も昨年並みの売上を上げなければ、キャッシュフローがかなり厳しくなることが予想されました。
とは言っても、昨年は運に助けられた部分がかなり大きく、もう一年同じ程度の売上を上げられる保証は全くありませんでした。
毎月300万円以上の売上を上げていかなくてはならないというプレッシャーは並大抵なものではありませんでした。
月単位の売上に一喜一憂していてはいけないと、頭では分かっていても、常に頭の中は、売上のことでいっぱいでした。
毎朝、通勤の電車の中で、その日までの売上を見て、悶々としていたことを、今でも鮮明に覚えています。
私は、これを何とかするには、事件単価を上げ、かつ、事件を早く処理して回していくしかないと考えました。
私は、事件の最低着手金を旧弁護士報酬規定の10万円の倍額である20万円に設定し、事件単価の低かった損保会社の顧問を辞めました。
これにより事件の依頼が減ることは分かっていましたが、それでも自分が目指すビジネスモデルを実現していくことが、唯一今後も売上を確保していく方法だと覚悟を決めました。
そして、相談についても依頼についても、一件一件そのときに自分ができるベストを尽くすことを心に誓い、少しでも楽をしようという甘えを排除して、スキルアップに努めました。
最も成果の分かり易かったのが、破産管財事件でした。
私は、独立してから破産管財人を受けるようになったのですが、初めのうち、裁判所は報酬額が20万円を切るような事件ばかりを依頼してきました。
それでも、これを上記のように、とにかく最大限の能力を使って、丁寧にしかも早く処理していきました。
そうしたところ、ロールプレイングゲームのように次々と裁判所から依頼される事件のレベルが上がっていき、破産管財事件をするようになって3年目には、報酬額が当初の10倍以上になっていました。
また、時間があれば経営やマーケティングなどの書籍を読み漁り、良いと思ったことや思いついたことは、とにかく実行してみました。
さらに、まだ過払いバブルの恩恵か少しはあったことも幸いし、何とか、平成19年度も前年並みの売上をキープすることができました。
だからといって、まだ、毎年安定した売上を確保していくだけの自信はこのころにはありませんでした。
私は、それ以降も、それまでと変わらず、いつも危機感を持って、とにかくいつも何かしらを考え、そして行動をする、それを繰り返して今日まで何とか過ごしてきました。
(了)
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