人生ってなんだろう(13)

ルドルフ 坂本竜馬と盃を交わす

昨年の夏、亀山焼の盃に触れることが出来ました。焼き物とは思えない薄手の盃で、手の内に収めても、その重みを感じないものでした。この盃で呑むことが出来ればさぞ日本酒も美味しかろうと思った次第です。盃は無銘でありましたが、虫食いの跡が残る共箱に亀山焼、泉屋の銘が記されております。絵柄は雷紋に縁どられ、波間を飛ぶ海鳥が描かれておりました。

亀山社中記念館やWikiにてその名を調べることが出来ます。
亀山社中記念館HPには、
“亀山焼は、文化4年(1807)から長崎・八幡町の大神甚五平(おおがみごんべい)らにより、伊良林(いらばやし)郷垣根山(亀山)で焼かれ始めました。初めはオランダ船向けの水がめ等(陶器)を焼いていましたが、のちに中国産呉須(ごす)を用いた格調高い白磁染付(はくじそめつけ)を製作するようになりました。また田能村竹田(たのむらちくでん)・木下逸雲(きのしたいつうん)ら文人による絵付作品でも知られています。慶応元年(1865)頃に廃窯(はいよう)となり、龍馬たちはその亀山焼関連の家屋を借り受けて、亀山社中をおこしたとされています。”
Wikiには、
“亀山焼(かめやまやき)は、江戸時代後期の長崎で作られた陶磁器のこと。上質の白磁に中国から輸入された呉須による文人画風の絵付けが有名であるが、竹花氷裂文や石畳文など、長崎特有の異国情緒を感じさせる図柄も多い。伊万里に比べ呉須が全体的に濃いのが特長である。製陶期間が約50年と短く、伝世品が少ないことから幻の焼き物と呼ばれ、とくに上手のものは収集家の間で珍重されている。銘は一重四角内に「亀山製」の文字を紋様化したものや、「崎陽亀山製」「亀山」など楷書や行書で記したものが散見される。坂本龍馬の愛用茶碗は亀山焼である。”
解説の中からは、下記の様な事柄が読み取れます。
“文化4年(1807年)、創業資金は長崎奉行所産業御調方からの借入金でまかなわれた。長崎は天領であり長崎奉行の下、各藩ごとの陶工の一子相伝の技術を、平戸藩の三川内焼を始め、大村藩の波佐見焼、佐賀藩の有田焼等の高い技術を持った磁器の陶工達を呼び寄せる事が出来た。柿右衛門手の亀山焼きと言われる物もある、原料の陶石は上質の天草陶石と佐世保市針尾網代の陶石を使用した。網代の陶石は三川内より長崎の奉行所宛に三川内の網代陶石枯渇の恐れが有ると使用を減らす様嘆願書が出ている。顔料も良質の花呉須を中国から取り寄せたこれも天領長崎故可能となったと思われる。”
また“崎陽三筆と称される木下逸雲・祖門鉄翁・三浦梧門や当時豊後に居住していた田能村竹田など著名な文人が下絵を引き受け、文人画風の雅味のある絵付けとなった。”
“慶応元年(1865年)3月、財政難のためついに廃窯となった。同年、小曽根乾堂の資金援助を受けて(小曽根と高田家の関連の確認は取れていない)亀山焼工場跡地を高田利平が購入。同年から二年間、坂本龍馬が率いる亀山社中の活動拠点となる。現在は三川内焼の嘉泉窯の協力で再興中。”

私なりに解釈すると、九州伊万里近くの諸藩による産業振興から磁器の輸出が盛んになり、おそらく多額の利益を得た時期も多くあったことと思います。長崎にて貿易を統括していた奉行所も、この大勢に乗り、貿易からの利益拡大を試みたのでしょうか。各産地の名工を集め、当時の文人画壇の名筆を揃え、また陶石、呉須(青色の顔料となります)なども最高品質のものを使用した官製の磁器工房の創立ということでしょう。残念ながら国際情勢の変化もあり、官製の産業振興は50年余りで幕を下ろすことになりましたが、その窯の跡地に坂本竜馬が亀山社中を起こし、開国への一歩を踏み出す舞台の一端を担うとは、歴史の妙味を感じます。
竜馬愛用の品は湯呑みや茶碗とのことですが、その時代をともに経てきた盃に触れることに、喜びを感じた次第です。

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