中央沿線の山 秋山二十六夜山
<八王子から>
西の空を黄金色に染めながら夕陽が沈む。南北に長い高尾山・景信山・陣馬山の稜線は黒いシルエットとなって黄金色の空に浮かびあがっている。
人の途絶えた浅川に架かった橋の欄干に腰を下ろしたままで黒いシルエットを眺めていると、冬を感じるような冷たい風が頬を撫でる。川岸のススキの穂がゆれ、浅川の流れにやわらかな夕陽が差して川面はきららかに輝いている。
つがいの水鳥がゆったりと流れに身をゆだね、流れに沿った細長い土手の道をかける子供たちを追うように散る葉桜、のどかなひとときを過ごすことをいつも望みながらあくせく働いてしまってから、あっ、また気持ちと反対の結果になってしまったと後悔しては、この橋に来る。橋の上から浅川の流れを見つめたり、夕陽に黒々ともえ落ちる長い稜線を眺めては、私なりに肩の力を抜くもどかしさ。
江戸時代から、甲州街道の宿場町として栄えた八王子はまた、織物の町としても歴史が古く、その面影を残すように町を歩けば機を織る機械の音が聞こえ、宿場町の名をとどめる追分・千人町・八幡・八日町・横山という町々…。
いつの頃からこの町に親しみを抱いたのかは自分のことなのにわからない。ただ、歴史の好きな高校の先生をしていた浜田さんの腰巾着のようにして、カメラや古い地図を入れたバックを背負わされて日野・八王子の町を歩き回ったことがあった。その頃から浜田さんにすっかり感化された挙句、自分の知らないうちに歴史の小さなうずきが体に染み込んでいたのかもしれない。
今でも鮮明に覚えているのは新選組のゆかりの地を歩きまわったことだ。近藤勇の剣道場のある三鷹・土方歳三の生家やその墓のある日野石田寺とその周辺界隈、府中の大国魂神社付近、八王子の千人町などと新選組に憑かれたように足跡を辿っている。
それはまた、新選組を執拗に追いかけるように甲府鎮撫隊が歩いた甲州街道を山梨県の上野原・大月・勝沼の柏尾峠への道へと足を伸ばしていったことだ。
その執拗さが私の遊びや趣味の歯車を狂わせていった。甲州街道を歩きながら、私はその沿線に聳える山々を眺めているうちに優美な稜線に次第に心を奪われ、いつの間にか畏敬の念を抱くようになり、高校生の頃からひたすら山登りに情熱を注いでいた体と心が、その山々へ足を向かわせしまったのである。
<山へ心が動く>
だからではないが、その頃の浜田さんは歴史の踏跡に心迷わし、私は山登りにのぼせ上がっていたときでもあって、なんとなく心が通じ合い、なんだかんだといっては二人して歴史散策と称して、石仏や神社仏閣・城址を巡りながら、山よ峠よと脇目もふらず歩きまわっていた。
そのことは当然のことであるが、二人とも仕事はほどほどにしたうえ家族を放りだしていたから、家族からは冷ややかな目で見られていた。
そんな折も折り、突然とり憑かれたように甲州街道というか中央本線というか、高尾山・景信山・陣馬山の山々を皮切りに、その沿線に聳える山々を一つひとつ残らず登ることにすると言ったものだから、家族にとってはなんという愚行かと呆れ果ててしまい、また一つの悪夢が増えたものだからたまったものでなかったらしい。
中央本線沿線の山々にとり憑かれたのは、駅から近い山であったのは勿論、稜線の優美さとそれぞれに深遠で敬虔な魅力に溢れていたからだ、というのは私なりのこじつけであるが…。
しかし、中央本線沿線の山歩きにはさすがの浜田さんもついてこなかった。奥さんからこれまで以上に。本格的に山登りに憑かれてしまっては家の中が目茶苦茶になりかねない。本人は私について山登りへ転向しようと目論んでいるが奥さんは、
…夫は凝り性だけど、一人で考えたり行動に移すことはできない。これは、庶民の平穏な生活を護り、庶民の味方であるべき仕事に携わっていなければならない筈の中原が、山という魔女の念術に惑わされて、歴史散策しかやらない夫を山歩きという奈落の底に引きずり込もうとしていることだ。いつもニコニコ笑って聖人君子ぶっているが、手足が人より短いうえ腹の出た狸の化身のような、毒になっても益にならない中原を許すことはできない。中原と絶縁させなければ…
と、呼び捨てにするのである。
いつもは中原さんづけで呼ばれ、<最近の主人見ていますとね、生き生きしていますのよ。中原さんのお蔭ですわ。歴史の故郷を訪ねての山歩きは素晴らしいことですよ。主人を宜しくお願います。中原さんとならわたし安心ですのよ>
と歴史めぐりの発端が浜田さんから起こったことであれ、私であれ感謝されていたのであるから、絶縁とか名前を呼び捨てにされるなんてことは思ってもみなかったし、ただただ驚くというより心外であった。
浜田さんはひと言の申し開きもしない。それどころか、素直に奥さんの苦情を受け入れ<山登りは僕の趣味に合わないからやめるよ>と、私の…裏切り者、女房の尻に敷かれた腑抜け野郎、男だったら女房の横面でも張り倒して、オレと一緒に山に行くんだ…と言う声をも柳に風のごとく受け流し、彼はひたすら自分の殻に閉じこもってしまった。まさに貝のごとくである。
こんなことを妻にいったらそれこそ、物笑いの種だ。そのうえ<それが普通の人の考え方よ。仕事も家族も放りだして、山登りにうつつ抜かすこと自体が狂っている。仕事で馘(くび)にならず、私が離婚しないのは、いつかまともな生活に戻ってくれるだろうという期待があるからなのよ。さすが、浜田さん偉いワ。大人よね。奥さん想いだわ。あなたも見習うべきよ>なんて言われるのがオチだ。
その頃の私は休みになると浜田さんの絶縁宣言がなされるまでは、歴史散策のほかに山に向かっていた。
今は、少し体力も衰えて山登りを月2,3回に抑えているが、浜田さんとコンビを組んでいたころは、体があくとホレ歴史散策・ホレ山だ山だと忙しい生活だった。
だから、玄関にはいつもザックと登山靴を置いていた。このザックなどを妻は<また、こんなところにゴミを置いて…>と当たり散らしていた。そんな状態だから、浜田さんの奥さんから絶縁状をたたきつけられたなんて言えるはずがない。そういうことから、中央沿線の山歩きも浜田さんと一緒に登っていることにしていた。
そして<浜田さんは歴史より山登りが好きになってしまったよ。登りながら次はどこの山にしょうかなんて考えているんだから、付き合いきれないよ>なんて嘘を言って、妻を騙しつづけたのである。
私の話を信じていた妻は…浜田さんとの付き合いをやめてくれたら、仕事に集中してくれるだろう、家庭に戻ってくれるだろう…と思っていたかもしれない。
それでかもしれないが、絶縁後もたまに訪ねて来る浜田さんに出ていた酒がコーヒーになり、お茶に変わっていった。粗略されていく浜田さんは絶縁したことなのだから仕方ない、と思っていたのではないだろうか。その浜田さんも今は亡くなり、奥さんは長男夫婦と同居している。お線香をあげにたまに訪れると<山登りだけはいつまでもつづけてくださいね。あなたと登らなくなった主人の淋しい顔が今でも思い出されて…>と言われることがあって、心の痛むことがある。
<一人での山歩き>
八王子から松本までの中央沿線の数ある山の中で、登りはじめは陣馬・景信・高尾の長い稜線歩きである。バスで陣馬高原まで行き、そこから和田峠までの林道を登りつめていった。今でこそ舗装されて車で行けるが、40年代のはじめ頃はそうではない。本当の山道があった。鳥の声を聞き木漏れ日に心を和ませ、情緒豊かな山の香気を十分に味わうことができた。
当時日帰りできるときでも私はツエルトを張って野宿していた。この野宿は雨を除けば素晴らしい旅の宿である。星の輝きが大きく美しい。野生の動物たちとの出会いに心が疼く。
人里に近い山でも、その山にはいろいろな動物たちが棲んでおり、前触れもなく断りもないままに自分たちの縄張りに突然現れて夜を明かす私に抗議しようと、ツエルトに近づいてくる彼らを息をころして見つめるとき、そこに山歩きの一つの喜びとスリルを味わうのである。
浜田さんも来なくなって一人で登ることが多くなってから、ゆっくりと頂上や峠から遠くの山々を眺めることが多くなった。山並みを眺めることは疲れた心に小さな潤いを与えてくれる。どの山に登っても私は遠くの山々を心行くまで眺めるようになった。立ったままで眺めるときもあれば座ったままで眺めることもある。ときには、一人悦にはいったり陶酔しきって無の境地に至ることもある。
時々は、時の過ぎゆくのを忘れることもあって、日が暮れて足元のおぼつかない山道を、明りの細いライトを頼りに慌てて下る始末だ。若い頃からの習慣で、ツエルトをザックの底にしまっていたから、僅かばかりの台地を求めてツエルトを張り、一夜を過ごすことも少なくなかった。特に、兆しの顕著だったのが道志山系の旅だった。無理すれば下山できるのに下らなかったのは山バカといわれるゆえの私なりの意地だったのか、それとも山を良しとしていた私なりの見栄だったのか…。
道志と言えば、菜畑山・赤鞍ヶ岳・長尾山の長い稜線が思い出される。浜田さんとの山歩きがなくなって一人の登りがつづいたけれど、山はいつまでも私を一人ぽっちにはしておかなかった。
山へ向かう列車やバスの中、登りはじめから途中の峠や頂上などでいろいろな人と知り合いとなり、その人たちとの山歩きがあったりする。
倉岳山ではあの人、滝子山ではこの人と思い出もつきないが不思議なことだけど<秋山二十六夜山>だけは、友人などと登った記憶がない。珍しいことだ。はじめ一人で登っても、その後には必ずと言っていい程仲間を誘って登っているのに。
先だってベルクの山仲間が二十六夜山に登ると言う話を聞いて、一緒に登ろうと思ったがどうしても時間がままならず、その2,3日前に登った。
そのとき私は<秋山二十六夜山>と思っていたのだが、それは私の勘違いで<道志二十六夜山>がベルクの仲間の登る山だった。よくよく秋山二十六夜山は山仲間などと一緒に登ることの縁薄い山と言うことになる。
<秋山二十六夜山>
初冬の晴れた日で風もなく暖かな陽ざしのある小春日和を思わせる朝、私は上野原駅8時30分発無生野行きのバスに乗る。乗客は4人、年配のご婦人と、山登りの恰好をした男3人。そのうちの一人が山仲間から狸の化身と言われている私。年老いた男性は神野で下りた。おそらく、ナカダシ沢に沿い大タギレの急登の道を登りつめて岩道峠を越え、道志の久保集落へ出るのだろう。
私は秋山のマス釣り場で下りる。もう一人は青年で、寺下か無生野まで行くのかバスに乗ったままで地図を広げていた。どの山に登るのか聞けばよかったが、秋山二十六夜山は一人で登りたいと思っていたし、私にしてはなんとなく口をきくのが億劫になっていた。
秋山二十六夜山は、秋山川とその支流の玉入川に挟まれた971.8メートルの低い山である。
マス釣り場を左に見てガソリンスタンドの先を右に折れ、さらに右の道を秋山川とバス道を見下ろしながら歩いて、栗田小学校の北側のゆったりした道を辿る。やがて、秋三夜の石仏のある民宿御庵につき当たる。道を左に歩けば自然と山道へと変わっていく。
しばらく玉入川を右に左にして登りつめれば、右手に堰堤を見る。秋山二十六夜山への登り口で、川原から飛び石伝いに川を渡ると小さな標識が目の前に見える。
川を渡ったところでザックを下ろして一休みする。さぁーてと朝食とザックの中かをまさぐり、アンパンとゆで卵、コッヘルに蹴帯コンロをとり出して準備にとりかかる。一人旅の気安さだ。急ぐこともない。川水をコッヘルで掬い湯を沸かす。木々の葉は散り染めるも、空は高くてどこまでも青く澄み、川瀬の音が響く。吸う息が快い。
熱いコーヒーの湯気が立ちのぼり、挽きたてのコーヒーの香ばしさ、ゆで卵もパンもうまい。この気分は贅沢だ。都会の埃と汚れた空気の中であくせくと働いている人たちに分けてあげたい。
踏み跡の消えた山道を登る。自然と鼻歌もでる。ジワリジワリと汗をかくが爽快な気分で急登の斜面に伸びた道をつめる。いきなり稜線に飛び出す。東に秋山二十六夜山の頂上が見え、南に道志山系の豪壮な稜線がひろがっている。ひと際高く聳えているのが赤鞍ヶ岳である。赤鞍ヶ岳は山頂付近が篠竹の多い珍しい山だ。
稜線を北へ登りつめ、赤鞍ヶ岳と秋山二十六夜山を分ける道標を仰ぐ。頂上はそこを右に10分ほど歩き南に突出した尾根を辿る。
頂上から道志山系は無論のこと三ッ峠山を西に眺める。三つ峠山は頂上の電波塔が目印だからすぐにわかる。小さな秋山二十六夜山の山頂にある三等三角点の頭がわずかにのぞき風化していた。
日当たりは良い。誰もいない山頂。ザックからコンロやコッヘルをとり出し、久しぶりにバターをたっぷりきかした茸ピラフを作る。わかめスープを飲みながらピラフを食べる。満腹になると眠くなるのが癖で、ザックを枕に枯草を寝床として寝る(…狸寝入りではない…)
どのくらい眠ったろう。枯れ木を踏む音で目を覚ます。頂上へと歩いて来たのはバスに残った青年だった。<無生野から登ったのですが、途中で道に迷い、藪尾根を登って来ました>と人懐っこく笑って私の顔を見る。東京の足立に住んでいると言った青年は<近藤>と名乗った。
最近、職場の友人に山登りをすすめられ、休みになるとこの付近の山を登っている、と言って汗を拭く近藤青年に熱くしたコーヒーをすすめる。
彼も中央沿線の山々に魅せられた一人のようだ。真新しい高尾・陣馬の山地図をひろげて、今まで登った山、これから登る山を一つひとつ話してくれる目が輝いており好漢がもて、心があたたかくなる。
かっての私も、近藤青年のように瞳を輝かして地図の稜線を追い、山並みを眺め、誰彼となく話しかけたのである。少し年を重ねた今は、よりゆっくりと登りながら、草花に心和ませ、山並みの眺めを楽しみながら、一つひとつの山に岳友を偲び、出会って別れた人々との語らいを思い出しては、さらに山で知り合いとなった人との縁を大事にしようとしているが…。
近藤青年との語らいの中にかっての自分を見るようで…オレも年をとったんだな…と苦笑することは避けられな。
<やっと下山へ>
山頂で2時間ばかりを過ごす。近藤青年との語らいが楽しく、つい時を忘れてしまった。
玉入沢に下る近藤瀬年と別れ、尾崎集落への道をとる。山頂を少し下がったところで<秋山二十六夜山>の石碑を見る。背丈以上もある石碑を見上げながら、信仰や祈願とはいえ、ここまで持ち上げた人々の強い意思に敬意を表さずにはおれない。人間の偉大な力をまざまざと見る思いがする。
体が埋まるような落ち葉の中に身を横たえてカメラのシャッターを切る。落ち葉の寝床はやわらかく暖かい。ツエルトを持ってくればよかった。今夜はこの落ち葉を寝床にひと夜の惰眠を貪るのに…と心をそこに残しながら、落ち葉で隠れた道を、葉の散った木々の間から矢平山-・甚之函山・三杉山の頂を眺めながらゆっくりと下る。
尾崎集落に下ってから寺下峠を越えて中央本線の簗川に出ようと、下尾崎のバス停の西、秋山川にかかった橋を渡り舗装された道を辿る。トヤ沢にかかった小さな橋を渡ると左に寺下峠に向かう細い山道が沢伝いに北へとのびている。峠までは30分くらいだった。峠から東の寺下山に登ってザックをおろし秋山村を見渡す。
寺下山の頂上から道志の山々を眺めるのが好きだった。夕陽に黒いシルエットとなる御正体山・道志山系の長い稜線、夕陽に暮れなずむ秋山二十六夜山と秋山村の集落が、時には浅川の橋上から眺める高尾・景信・陣馬の長い稜線と重なりあうからで、眺めているとあくせく汗をながして働いた心の疲れが失せていくようだ。
往々にして、ここで夕暮れを迎えることがしばしばあった。夕暮れての道は細いライトの明かりでは足元がおぼつかないが、歩きなれた道だ。
木々の枝のゆれる音・枯れ枝や落ち葉をふみしめた音を聞くたびに足を止め、動物の光る目を探しながら下るのも楽しいものだ。この山々での触れ合いが深いから、どこかで顔見知りのキツネや狸などの動物たちがいるかもしれない。夜の山道はこんな期待に胸がふくれる。
時折、後ろを振り返る。秋山二十六夜山は勿論、寺下峠も闇の中だ。その秋山二十六夜山はまた、岳友と登る機会がなかった。浜田さんが生きていたら絶縁などお構いなく、無理やりでも誘って登って来たかもしれないが、もうそれも叶わぬことだ。
とうとう岳友たちと登る機会がなかった秋山二十六夜山だが、近藤青年と会って語り合ったことや人懐っこい笑顔が忘れられない。彼とはまたどこかの山で会うことがあるに違いない。楽しみなことだ。
落ち葉を踏みしめながら下ると、木々の間に塩瀬集落の灯りが暗闇の中に浮かんで見える。今日一日の山歩きに満足し、明りの見える塩瀬の集落に私の足は少しづつ早くなりながら下って行った。
なかはら しんペい復刻版