中央沿線の山 高畑山~倉岳山
* 古き思い出の山道
小篠貯水池から眺める扇山は、扇を逆さに開いた様な形で裾野が大きく広がっている。
秋も深まり見渡す山々は鮮やかな紅葉の色合いに染まって、馴染みの君恋温泉や梨ノ木平も紅葉にすっかり身をつくろい、眼をみはるばかりの荘厳な美しい光景をくりひろげている。
郷里福岡に戻って教職の身にあるHは、小篠貯水池の大堰堤から眺める秋の扇山がとても好きであった。毎年、秋の頃に寄越す便りの端々に、扇山・倉岳山などの紅葉のようすはどうだろうか、もう一度紅葉にうずもれた扇山などの山々に登ってみたいものだ、と書き添えるほどだ。
Hは高校時代、野球の選手として活躍し甲子園の土を踏んだが、飯田橋にある大学に入ってからは野球をやめて山歩きに汗を流していた。
その頃の私は山また山に狂っていて、日本アルプスや八ヶ岳・谷川岳などの高い山ばかりに足を向けていて、標高千メートル前後の低山などには見向きもしなかった。
しかし彼は、高い山に登っていただけでなく、低山にも興味をもっていて、中央本線沿いや丹沢・奥多摩の山にちょくちょく登っていた。
はじめて倉岳山に登ったのは東京オリンピックが終わった直後だと覚えている。
当時マラソンの日本代表選手となった友人の応援に上京したHは、一日の余暇を私との山歩きにとっていて倉岳山に登ったのだ。
倉岳山に登ろうといったのはHだった。郷里の麗峰“福智山”に似ているといって学生時代に登っていた山で、彼の好きな山の一つでもあった。
当時の倉岳山は登山道も藪に覆われた細々として暗く、登山者に会うことはほとんどなかった。山道でまれに会ったのは、穴路峠を越えて鳥沢と道志を行き来していた村人らであった。
教職に身をおいてからの彼は、高校野球の指導者として生活の大半を野球の指導に傾け、ひたすら甲子園を目指し、生徒らと汗や埃にまみれた日々を送っている。
それで、山とはすっかり手が切れたのだろうと思っていたが、根っから山歩きの好きな彼は山歩きでの醍醐味が忘れられないらしく、野球の練習の合間をみては一人で九州の山々を歩きまわっていると。
だからではないが、私からの山便りを読むと、関東中部の山々のことを思い出し、思いきり登ってみたくなって野球の指導をやめてしまえばそれなりの時間がとれると考え、監督辞退の意思をもったりするが、グランドの土をならしている部員やバットの素振りなどに汗を流す部員らの姿を見ると、辞表を破ってしまうと…。
* 穴路峠
記録によれば、小篠貯水池の完成は昭和27年の夏ころで、大堰堤を築いてオシノ沢の流れを堰き止めた。貯水池の完成は降雨によってもたらされていた地すべりなどの災害を防いだ。しかし、工事の着手から完成までに多くの人々の汗と労力が費やされ、尊い人命すら失ったとある。
今の貯水池から、当時の困苦などを想像することが場違いなほど静寂さを保っている。それはまた、春にエメラルドグリーンの色を帯びた水を湛え、秋には紅葉と青葉の入りまじった色合いに染まって、まるで、裏磐梯の五色沼を彷彿させるような鮮やかな装いを水面に漂わせているからだ。
倉岳山周辺の、春の青い芽吹きから秋の紅葉にうずまる自然の移りかわりを見つめていると、額田王(ぬかだのおおきみ)の
『冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来(き)鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山われは』
の万葉の歌を思いおこす。
王は、春山の花々の美しさにまさる秋山の彩りに心をときめかして、心奥(しんおう)から「秋山われは」…私(王)は、秋山が良いと思います…と叫びに似たような素直な表現をしている。そこには、王の偽らぬ心境がある。
王と同じように、紅葉万華の美しさにまみえた私は「秋山、然りなりけれり」と、王の心に共鳴すらおぼえるのだが…。
小篠貯水池から穴路峠への山道は、樹間の細いゆるやかな登りからはじまる。朝の木漏れ日がやわらかくふりそそぎ、朝露に濡れた土を山靴で踏みしめると、靴音が辺りに響くほどの静けさだ。
オシノ沢をまたぐ朽ちかけた木橋は人の重みに耐えかねてひしめく。あまりの静けさに、水量の豊富なオシノ沢の沢音がさらに高く聞こえ、苔むした岩はふりそそぐ木漏れ日を思うままに吸いこんでいる。
またその傍らで、木漏れ日に身を隠すように建つ石仏。石仏の背石の端が風化して年代が読みとれず、辛うじて「左 秋山村」の刻字が読める。
秋山村は、道なりにオシノ沢に沿って登りつめる穴路峠を越えた倉岳山と道志山系のはざまにある村である。
石仏は、今では小篠集落から登って来た登山者にとって、高畑山と秋山村との分岐を示す道標となって導いているが、かっては穴路峠越えをした人々の道祖神であったのだろう。
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