見出し画像

誰にも会わない旅。2日目。


誰にも会わない日立の朝。

昨夜ついたホテルはチェックインの際に体温測定と前泊地記入があり、うっかり風邪ひかなくて良かった。コロナ対策でいつも朝食のバイキングは弁当に変更になっていた。出発前にしばし散歩。

日立駅周辺の街は生活感のガヤついた雰囲気はとても薄くスッキリとして架空の都市のようである。かと思えば古い銭湯も残っていて元々の街の姿が分かりにくい。ただ企業の城下町である事は間違いない。街名と企業名のどちらが先かは知らないが駅前に“この木なんの木”がシンボルツリーとしてあれば良かったのに。

画像8

画像1

すぐ近くが海だが、そのイメージは街にない。高台から張り出した総ガラスのモダンな駅からは広く海と高架の国道を眺める。設計は西武線の特急ラビューのデザイナーの建築家、妹島和世氏で地元の日立出身らしい。


画像2

画像3

駅近くの情報交流プラザでは赤字で『東京都の方は利用をお控えください』と貼り紙の警戒心バリバリ。プラス地元のトピックスとしてはジャイアントパンダ誘致活動もしているらしい。

少し北に鵜の岬海岸があり、各地の鵜飼にウミウを供給するという珍しい“ウミウ捕獲場”がある。全国でここだけという珍しい施設だ。笛吹川で鵜飼体験、岐阜の鵜飼ミュージアムに行くくらい、ちょっと鵜は好きな鳥。しかし今回コロナの影響で捕獲施設の見学は叶わないと分かり行先を「天心記念五浦美術館」に定める。


天心と云えば一般的には総合格闘技の那須川天心。しかし五浦で天心といえば総合芸術家(?)の岡倉天心である。ちなみに五浦(ごのうら)ではなく、正しい読みは(いづら)です。大甕(おおみか)といい難しい地名が続くのは古い土地だからだろうか。大津港駅から地図でみると2キロちょい。歩けない事はないけれど、時間を考慮してタクシーで行く。車が走り出してから気がつくが、一本道だが緩やかな登り坂で歩かなくて正解。知らない土地は実距離が掴みにくい。ここ数ヶ月の運動不足の体力を無駄に消耗する所だった。あぶねえな。

画像5

画像7

崖縁に建つ天心記念五浦美術館はエントランスから威風堂々していて咲き誇るヤマユリの強い香りがあたりに漂う。これで入場料は190円なの安い。

正直フェノロサのドキュメンタリーで見た程度の知識しかないので東京美術学校(現・東京藝術大学の前身)の設立者としかザックリ知らないが、谷中の天心の銅像はかき氷カフェを見つめているは知っている。事前に調べても良いが記念館は大抵まとまっているから行く方が効率良い。“場”から受け取るものもあるだろう。

画像6

明治初期なのに天心少年は6歳から英語を習うとか世界で活躍する教育を親が用意していたのは素晴らしいね。英語が出来ると海外視察で舐められないし、情報も今ほど有象無象でもなく素直に伝わりそう。

ボストンなどの海外時代に五浦にはもう住んでいたらしいが、今もなお不便な土地で海外に行くのは大変だろう。だが釣りをするには最適な場所である。美術学校の古墳時代のような制服や釣りファッションの毛皮を背負った姿はまるでゴールデンカムイのアシリパさん。写真から見える姿は優秀だが近くにいると面倒なのが丸わかりのエキセントリックさ。しかし晩年のインドの女性詩人との手紙のやり取りは一転ロマンチックである。

画像9

帰り道はバスがあるというので待っていたら、全然やって来ない。おかしいので駐車場の警備の方に聞くと平日しか走っていないという。何でだ?

アシ(車)がない事は地方観光において予定が立たない事ばかり。どうせタクシーを呼ぶならば時間の都合で諦めた天心邸と六角堂を回る事にした。天心記念五浦美術館からは1キロちょっと、雨もやんできたので歩いていく。


画像10

通りの長屋門から地形にそって下ると天心邸がある。古写真では横山大観、菱田春草等が並んで絵を描く合宿状態の五浦天心邸。写真からは建物の内部だけ映っているが、実際の場所で、その縁側から対岸に見えるのは古代の地層がダイナミックに隆起している崖の風景。地図だけみると不便な場所だが、この地に立つと住むのは面白そうと心動かされるのは分かるような気だけする。住みたくはないから。

画像11

画像17

画像18

建屋からさらに崖を下ると六角堂がある。ここは東日本大震災の津波で丸ごと流されてしまって現在の建物は建て直した新築だ。六角堂から周りをみるとこの高さに津波が来た恐ろしさをありありと想像できる。報道は少なかったが茨城県も被害は大きい。勝田にある従兄弟の家も半壊で、親族の墓がある大洗の寺も未だ復旧出来ていない。現地に来てから驚くばかり。マスクやGOTOに無駄遣いしている場合じゃあないんだよな。

画像13

旧六角堂は屋根部分に水晶が埋め込まれて建築における天心のロマンというかスピな匂いを若干感じる。本当は茶室。周囲は入江に反響した波の音が大きくザバンザバンと五月蝿いくらいなので落ち着けるかどうかは不明。ただ台風は怖そうだ。


諸々もたつく移動をしたので、いわき駅に着いたのは昼頃だった。これから仙台方面に抜ける2ルート。磐越東線の郡山行きは20分程、常磐線は2時間半の待ち時間。軽く熟考し、改札を出ると美術館のポスターが貼ってあり『リサ・ラーソン展』があると知る。この時点で常磐線に決定。

以前もこの街に来てその時はアクアマリンふくしまで魚と戯れた。あれから10年、寒い夏の日だった。

画像15

画像15

茨城と同じ海に面しているのに、“フラシティ*IWAKI”のイメージ幕が街中にありスパリゾートハワイアンズが地域を明るく盛り上げているのが分かる。共通のイメージが街にあるというのは苦境になった際の地域の旗印になるのだろう。そこに影は見えない。

道中、フラ教室の看板がある福島の人はハワイが好き。ハワイというかハワイアンズ(架空ハワイ)。過去のバイト先で福島浜通り出身者も南国好きが多かった。そんな事を思い出しながら美術館に向かう。

画像16

いわき市立美術館『リサ・ラーソン展 創作と出会いをめぐる旅』商品になった絵や陶器は目にする事は多い。ユニクロとコラボなど身近で馴染みがある作家である。だが作品の状態を見たのは初めてかも知れない。猫は気が強く、犬は全て困り顔でトリはトリ。商品や画像で見るのと同じ形でも作品は不思議に生き生きとしたエネルギーを放っている。知っているようで知らないを再認識。思っているより陶器は自由で素晴らしい。

次回はメスキータ展で良い展示をする美術館と覚えておこう。


さて昼飯。前に来た時にまるまるとした魚を食べられなかった(スーパーなので調理できない)リベンジをしたいが上手く店が見つけられない。ご当地のオススメ店を駅に貼り出して欲しい。結局イマイチな店に入ってしまい悔しさのあまりGoogleのレビューは辛口にした。別の店で食べた紫陽花を模したデザートが美しく美味しく、なんとか心を持ち直す。

画像17


待ち時間を食事以外は充実して過ごしたのでさくっと進む。いわき駅からの北の富岡駅〜波江駅間は震災以来10年近く不通で今年3月に全線開通した。周辺は未だ帰還困難区域で許可なしに立ち入ると罰金刑か勾留となる。最後までこの区間で降りる人はいなかった。

画像18

竜田駅を過ぎた海側に福島第二原子力発電所が見える。現在稼働はしていないが、こんなに近いと心配になる。車窓からは戻ってきたのか人の暮らしが見える。富岡駅を過ぎると、そこはもう帰還困難区域で放置された家が目につくようになる。家がある所も更地も入り交じり、そもそもの街の姿を想像するのが難しくなる。

画像19

夜ノ森駅に停車すると、どこかの作業服の人が乗車してきた。仕事で乗車する人が多いのか駅での停車時間はずいぶんと長かった。その間にも車両を出て駅の看板を鉄道ファンが撮影をしている。

夜ノ森駅という素敵な駅名はまるで宮沢賢治の童話に出てきそうで桜並木が名物らしい。夜ノ森で検索すると美しい桜の画像がでてくる。誰もいなくなっても桜は毎年咲いている。

画像20

画像22

ここから波江駅まで各駅の停車時間が非常に短かった。放射線は目に見える訳じゃないから危険の度合いが分からない。流れる車窓からは重機で掘り起こし袋詰めになった土を壁のように並ベているのが見える。それがずっと続き、その合間にポツポツ残る家は夏草にすっかり覆われている。人の生活の気配は感じられない。

広く見える場所のほとんどを大型重機が掘り返している。オリンピックで浮かれた昨年や、コロナで自粛の今年も変わらずここで働く人がいる。復興なんて全然のいつ終わるかも分からない工事が現実である。もしここが自分の実家であったらという想像もつかない。そうだったらどうするだろう。

列車が原ノ町駅まで来ると、コンビニも普通にあって当たり前の暮らしが見えてくる。通り過ぎた街にもあったのかと思うとなんだか切ないな。


画像21

暮れかかる空には、薄い虹が現れては消えた。



いいなと思ったら応援しよう!