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37年目の真実

昨日は弟の命日だったんだよ
来年は70歳になろうという利用者さんが
おはようございますと朝の挨拶を交わすのも待たずに話し出す
五十回忌までやったんだよ
弟さんがいらしたのですね 
おいくつで亡くなったのですか
そう聞いたのは故人を五十回忌まで偲ぶことができるのは
若くしてこの世を身罷ったときだけだから

一歳のとき
昔は病気で助けられなかったんだって

そうでしたか 
小さい時に亡くなったのは悲しいことですが
こうして五十年経っても忘れないで
お兄さんが思い出してくれたら
それは弟さん喜んでいるんじゃないですか

と話し終わらないうちに
利用者さんはいそいそと朝の支度を始める

聞くのが赤毛のお仕事
思いを吐きだせる器になること
双方向だけがコミニケーションじゃないことだってある
そう教えられてきたと思ってる

ふと祖父の三十七回忌のことを思い出す

祖父は私が一歳のときに
趣味の写真を撮りに出かけて
旅先で急な病に倒れて亡くなったと聞かされていた
亡骸となった祖父を迎えに行った祖母は
まだ50代の初め 行きは黒かった髪の毛が
帰ってきた時には総白髪になっていたと母が教えてくれた

人間というのはとても脆いものだと思ったし
黒髪が身代わりになって母の精神を守ったのかもしれない

祖父は長野の人だったので
何となく勝手に御柱祭を見に行ったのかなと思っていたけれど

親戚が集まるのもこれで最後にしようと
三十七回忌の法事の席で思い出話に花が咲く

オトウチャンはさ
ゆうこと聞かなかったんだよね
止めなさいって言ったのにさ
行くって聞かないで行っちゃったね

そうだね
何日前だったかな
オジイサン、胸が苦しいって救急車で病院運ばれたけど
何でもないって帰ってきちゃったんだよね
安静にしてなさいって言われてたのに
お祭りの写真撮りに行くって聞かないで行っちゃったね

全くもうねえ
今だったら検査して入院とかなったかもしれないね
でもあの頃は今よりずっと大らかだったというか
いい加減だったというか 今とは違ったんだよねえ

お父ちゃんも、なかなか休みが取れない中やっととった休みだったから
この機を逃したら次はいつか分からなかったから
どうしても行きたかったんだろうねえ

と当時を知る祖母や、母や、叔父叔母たちが
遠い目をしてその日のことを口々に語り始めた

え?おじいちゃんは予兆があったってこと??
旅先で突然死じゃなくて、二度目の発作ってこと?
医者や家族の制止を振り切って写真撮りに出かけちゃったってこと?

オジイチャンって具合が悪かったの?
恐る恐る口にすると

母や祖母たちが、肩の荷が下りたような顔をして
ああ、話してなかったかしらね、あの時のことと
もう嫁に行っていた母がたまたま実家に戻っていて
旅行に行くという祖父を皆で引き留めたが
振り切って出かけてしまって
その旅先で訃報が届いたことを話してくれた

知らなかった。
初めて聞いたと私も妹も
三十七年間の事実誤認に面食らったけれど
多分見送った家族としては喉に小骨が刺さったように
あの時止めていたらというタラレバ罪悪感を長年飲み込んでいたのだった
だれからも言い出すことのできない言葉
言ってしまえば誰かが悪かったのかということになるし
祖母を苦しめるだろうから
誰もが飲み込んできた言葉を
やっと言えるようになるまで37年間かかったのかと思うと

真実というのは残酷な一面も持っていて
そして生きている人のために事実しか語られないこともあるんやなと
しんみりした

わいわいと祖父が言ったのは御柱祭りではなく
兵庫のケンカ祭りだったとか
タバコは峰が好きだったとか
あれは高級タバコで爺さんは見栄っ張りだったとか
禿げ頭にインコが乗って滑ったのが記憶に残って
母はなんと元夫家族との結婚前の顔合わせの食事会の時に
同じく義父のぴかぴか光る頭を見て
インコが乗っかって滑った父にそっくりです懐かしいですと
言い放ちその場を凍らせた伝説を久しぶりに皆で思い出して
禿つながりで義理のお父さんのことも話せてよかったねと

都合よく美談にするところが母らしくもあり
反省しろよとも思うし
でもまあもう両家の顔合わせはないからまあいいかと思ったり

ゆく年くる年の頃
生きているものの仕事の一つは
先に向こう側に行った人たちを覚えていること思い出すこと

ナット・キング・コールのアンフォーゲッタブル
昔の音楽ってゆらゆら揺れ幅が声も音も大きい気がするんだけど
なんでかな?




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