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さわやか律子さんと‘干拓’の野良犬―新居浜・西条のボウリングブームの話
1950年代後半からの高度経済成長。
1971年の「ニクソンショック」や1973年の「オイルショック」でその勢いは一段落しますが、「東洋の奇跡」とも称されたその持続的で驚異的な経済成長は、多くの人々の生活にたしかな潤いと余裕をもたらしたようです。
総務省統計局による「家計調査」によると、生活費全体に占める「衣食住費」の割合が、1955(昭和30)年には約70%だったのが1975(昭和50)年には約50%と相対的に低下。一方、娯楽・交際費は約13%から約20%に増加するなど、生活必需品以外にもお金をかけることができる時代になっていきます。
スキーや登山、海水浴などのアウトドアレジャーに加え、新居浜や西条でも映画館やスケート場など、娯楽施設が次々と誕生。特に爆発的な人気を博したのが、ボウリングでした。
よくやったね。昭和49年に、青年会でやったのを覚えてる。昭和42年には、新居浜にもあったかなあ。一番最初からあったのは『イレブンボウル』。加茂川の西側の。ボウリングなんか、新居浜でも西条でもすごい待ちよったんよ。若い人が。僕なんか、4時間くらい待ったことあったもん。そんなの、やる気失せるよね。祭りのときとか正月とか、4時間待ち。それでも、やりたいんやけんね。
祭りや正月など、地元への帰省客も多い時期には4時間待ち(!)という、黒山の人だかりだったボウリング場。この爆発的なボウリング人気の中心は、女子プロボウラー第一期生として1969年に須田開代子さんなどと共にプロデビューを果たした、中山律子さんでした。
昭和40年代からよね。律子さんがパーフェクトを出して、そっからバーッと売れた時代。最高やったわいね、中山律子さん。ミニスカートで。西条には2つ、ボウリング場があって、新居浜にもあったよね。
西条の加茂川沿いにあった『イレブンボウル』など、1960年代後半から全国にボウリング場は急増。1970年8月に中山律子さんが「女子史上初の公認パーフェクトゲーム」を達成すると、全国のボウリング場開設数は年間4,000か所に迫るほど人気は過熱。中山律子さんが出演するテレビCMでのキャッチコピー「さわやか律子さん」が流行語になったり、週に11本ものボウリング番組がテレビ放映されたりなど、ボウリングは当時、日本人の娯楽のトップランナーでした。
ボウリングが流行った時代、自転車で西条ボウルまで通ったんですけど、早朝ボウリングいうて、100円で出来てたんですよ。8時までに入れば100円でやれてたから、家が近かったんですけど、200円握りしめてね。今思えば、100円というのは結構な金額だと思うんですけど。自転車で行ってましたね。その当時は車で動く、というのはまずなかったですから。どこに行くにも自転車。加茂川で泳ぐとかね。プールとかもなかったから、夏は加茂川で泳ぐのが楽しみだったですね。
早朝ボウリングを楽しんでから高校へ行く。いまでは考えられないルーティンですが、それを当たり前にさせるほどの、ボウリング熱。
ここで心配になるのは、彼ら高校生たちの懐具合。喫茶店にこっそり通いながら、ボウリング、卓球、ビリヤード、アイススケートなどに通うとなると、なかなかの出費となりそうですが―
野良犬を捕まえるのが流行ったですね。保健所に持っていくと500円だったんですよ。なかなか捕まらんでね。喫茶店行くにしても、ボウリングとか行くにしても、月にどんだけお小遣いもらってたか忘れましたけど、(西条高校では)アルバイトするのも禁止でしたし。でも犬を捕まえたら500円いうて聞いて。いまでこそ野良犬なんかあんまりいませんけど、当時干拓のほうに行ったら、海の方に行ったら、10匹くらい群れでいたんですよ。犬が500円。犬も必死ですよね。いま考えると、噛まれたらどうなる、とか思うんですけど、500円は魅力でしたね。
(野良犬は捕まえた実績はあったですか?)
いやあ、なかったですねえ。走っても負けますからね。罠でもかけないと。罠言うても、そんな知恵ないし。
上で紹介したのは、1975年に高校を卒業したある西条高校OBの方の話。アルバイトが禁止されている中での、なかなか破天荒なエピソードです。
時代を経てもなお、ボウリングは年齢問わず楽しめる娯楽として人々の間に定着。しかし、人々の志向の多様化により人気は落ち着きを見せ、東予地区のボウリング場も、いまや数えるほどとなりました。