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おたいけなとこの、子どもたち―『ナポリ』で食べる晩ごはん
江戸時代に西条藩の陣屋が置かれ、城下町として栄えたいまの西条市。そのにぎわいの中心だったのが、いまも「紺屋街」「銀座街」「さかえまち」などのアーケード街がある、一帯の商店街です。現在、西条商店街まちづくり協議会の会長で、ブティックシーハーを経営する越智將文さんは、昭和の頃のにぎわいをこう回顧します。
とりあえずねえ、昔は空いてる店はなかった。映画館もたくさんあった。いまはもう、ないけどね。で、やたら、西条は魚屋さんが多かった。7-8軒あったかなあ。魚市場も端っこにあったし。いまはもう市場機能はないけどね、形は残ってますよ。この時代で、店が260軒、ピークで300軒くらいあって、商店街の外にもいっぱい店があって。いま市役所の駐車場になってるけど、そのへんからずーっと続いてたのが、戦前からの商店街。で、喫茶店がなんぼでもあったからねえ。商店街は全体で大きな市場みたいな感じの機能だった。小さい商売人が集まって、それでもお互い競い合って、すごいパワーがあったですよね。
商店街で洋品店を営む両親の元に生まれた越智少年は、商店街の子どもとして多感な少年時代を過ごします。
子どものころはね、商店街の子どもっていうだけで、わあ、おたいけの子、つまり、金持ちの子、そういう感じ。商店街は景気がよかったから派手になるし、着るものも「町の子!」いう感じで、そういう感じで子どものころから、育ってる。ここ(今のブティックシーハー)のとなりのとなりがパチンコ屋で、そこの三女と僕が同級生でね。で、ツイスト大会を今日するからおいで、いうて。行ったら、ジュークボックス。ガーっとレコードが下りてきて、回りよん。もう、おしゃれやなあ、いうて。昔の青春グラフティそのもの。小学校のとき、そんなことしてた。盆踊りとは違うからね。そういうおしゃれな感じだったんですよね。西条の田舎で、ほんまに、そんなことをしよったんよ。
ジュークボックスを備える友人宅で、小学生がツイスト大会。まさに‘おたいけ’な光景です。
小さな店でも、10人くらい店員さんがいましたからね。ふつうにこれくらい。とくに婦人服屋は。従業員だけでそれくらいなのに、そこにお客さんも来るから。もう、毎日バーゲンセールしよるみたいなもんよね。ぼくは、中学校のときはいつもバーゲンのときはレジを手伝わされて。紺屋町では、『ドリップ』がとにかく有名だったと思いますけど、それよりもぼくはずーっと、家の近くにあったから、『ナポリ』とかはよく行ってたかなあ。親の店が忙しいから、「おい、ちょっとこれで晩飯でも食べてこい」言うて。お金渡されて。
のちに、新居浜にも出店する『和風レストラン ナポリ』は、越智家を含めた商店街の人々の胃袋を、何度もおいしく満たしました。
しかし、バブル後の景気低迷や「大店法(大規模小売店舗法;大規模店舗の床面積を規制する法律)」の廃止による大規模店舗のいっそうの大型化などにより、商店街のかつての活気は徐々に落ち着いていきます。
氷見や小松から西条の街に来る人は、いっちょまえの服を着て、男の子は蝶ネクタイをして。じゃないと、ここらは歩けなかった。ていうくらいのね。そんな昔のように「夢をもう一度」みたいなことはできないし、そんな時代でもないし。しかもこのコロナになって、モノの買い方がネットとかになって。それが当たり前になって。これが元に戻っても、その便利さがね、頼んだら家まで翌日来るわけですから。だから、そんな中で商店街はなにをしたらいいんだろうって。江戸時代から続いている商店街、西条の商店街っていうのを、なんとか形で残したいからね。だから、にぎわいですよね。商店街なんか、哀れやのう、だれも歩いてないやん、って言われるのが一番つらいからね。
今ではブティックの経営に加え、ライブハウスやシェアキッチンの運営など、活動の幅を広げる越智さん。
かつての越智少年たちにとっての『ナポリ』のような、にぎわいのある店舗が増えるよう、精力的な活動が続きます。
※おたいけ:大家(たいけ)。お金持ちの家。