「目黒邸」見学レポ 越後の豪農の屋敷にて
戦後の日本は農地改革などで、いわゆる地主階級が没落している。
さらに民主的な教育や、『カムイ伝』(白土三平)のような優れて面白い漫画のおかげで地主、豪農と呼ばれる人々は小作人を搾取する鬼のような存在であるという見解も、まあ、まかり通るほどではないが存在する。
それは一面の真実ではあろう、とは思う。
越後にある旧会津街道沿いの豪農の屋敷、目黒邸は確かに富と権力の集中するところであった。
石垣はごつく頑丈で、冠木門はまるで神社のようにそびえている。門を抜けて入る土間に入ったところで、私とenoさん(鷹見一幸)はニヤリと笑いあい、言ったものだ。
「世が世なら、私らはここまでですよね」
「この上がりかまちのとこでですな、深々と頭を下げて『あけましておめでとうございます』と新年の祝賀を」
「そうそう。でもって、そこの広間から『よう来たな。まあ、茶でも飲んでけ』とゆーて、薄い茶をいただいて、退散すると」
「んで、土産に餅とか酒をもらって帰る」
「日本酒の醸造とかもしていたそうですからな」
その一方で、豪農、庄屋と呼ばれる人々は集められた富と権力を村のために使う義務も果たしたのだ。
江戸時代初期、このあたりに銀山ができて、国境の争いが発生した時、目黒氏は江戸にまで上がって、幕府評定衆に早期裁断を求める嘆願を行っている。
資料館にはこの時に書かれた日記がある。
日記というよりは、業務日誌のようなもので、「*月*日、**様のところへ参候」と、何人もの有力者に話を聞いてもらっている。
マニュアルのない時代、こうやって己の経験を日記にしたため、あるいは口伝することで、人々は子孫にノウハウを伝達していったのだ。
村民の争い事の収め方。
領主や幕府との交渉の方法。
税を集めたり、借米を貸したり。
江戸時代の日本、農村を実質的に統治していたのは武士ではなく目黒氏のような庄屋、豪農達であるという視点は『百姓の江戸時代』(田中圭一)などでも描かれていることだが、その統治が二百年以上にわたって安定していたのは、平和が続くことでノウハウが親から子へうまく伝わっていたからという理由も大きい。
平和が続くというのは、未来に希望がもてるという事である。今日と同じ明日が続くという揺るぎない思いがそこにある。目黒邸でのんびりと縁側に座って池をながめ、そよぐ風を感じていると、それがよく分かる。
日本人が外国からの知識や文化をどれだけ吸収しても、それでもあくまで日本人としての揺るぎなきアイデンティティを保っている背景には、この国がもたらす豊かな自然とその実りがあるのだと。
「なんか、『日本沈没』(小松左京)で田所博士が日本人は、日本列島と一緒に沈むのがええ、とゆー気持ちも分かりますよなぁ」
「ところで、この池をながめていて、『アヴァロンの闇』(パーネル&ニーヴン&バーンズ)のサケもどきとかグレンデルを思い出したのですが――」
古強者のSFファンがふたり並ぶと、まあ、こんな感じでいつまでも縁側に座ってだべっていて、飽くということがない。
enoさんは信州の山奥で、私は備後の田舎で、やはり土間もあれば天井の梁は丸太が通してある祖父の家を子供の頃に経験しているがゆえに、縁側に座るとどうにも自然としっくりきてしまうのである。
しかしまあ、本気でいつまでも居座りかねないので、ほどほどにして屋敷を巡ったのであるが。興味深いのが明治以後に屋敷に加えられた改造である。
たとえば、配電盤。でかいスイッチには唐草の模様がきちんと入れてあり、しかも――
「あ、この配電盤、大理石ですよ」
「うそっ――うわ、本当だっ」
このあたりで最初に電気が通ったという、その頃の日本ではこうした今なら当たり前の機材が高級品であったわけだ。
他にも、明治以後に建てられた茶室には各地の銘木が使われていたり、家族の住む間には古いピアノが置いてあったりもする。
明治になり、庄屋、豪農の地位は相対的に低下したろうが、逆に日本各地、そして外国から入ってくる産物を利用できるようになり、生活の潤いは増えたはずだ。
この目黒邸の資料館にもカメラが展示され、自動車の写真が残っている。
ただ、そうなると贅沢な暮らしをする一方で、昔のようには村のために尽力しないタイプの豪農も増えてきて、プロレタリアート文学などで描かれる、『銀河英雄伝説』(田中芳樹)のバカ貴族みたいな人間もけっこういただろう。
だから、結果として豪農や庄屋が姿を消した現代は、彼らにとっても我々にとっても良い時代なのだ。
「私なんか、警察官やってても、ここにはご挨拶ぐらいしかできんでしょうからなぁ」
「私でしたら、さしずめ書生ですな。んで、屋敷の娘さんに手を出して裏庭でずばーっと」
「そうそう、ずばーっと。ああでも、銅師匠なら、息子に手を出すんじゃないですか」
「殺されるだけですめばいいですがね、それはっ!」
そして我々は、ありもしなかった座敷牢とか、納屋にあった拷問器具、土蔵の壁につけられた血の跡の話をしながら目黒邸を立ち去ったのである。