光る君へ二次創作:文、燃ゆる、夜
寛和二年(986年)、夏。東三条殿。その深夜。
兼家は、燈の灯りで、文に目を通す。
ゆらめく灯りで文に陰影が動き、兼家は目を瞬かせた。
──わしも年か。
兼家はため息をついた。彼は今年の正月で、五十八才となった。老いぼれた、という自覚はないが、元気に動けるのは、もって数年であろう。
文箱に伸ばした指が、乾いた紙に触れた。ざらついた古紙の表面に書かれたのは、円融天皇の文である。叱責の手紙であるから、私的な文箱に入れ、人目に触れないようにしてきた。
読み直す。
書は、兼家と兼通へ、お前たちは兄弟なのだから、もっと仲良くしなさい、という内容だった。拙さの残る字に、幼さが感じられた。
──我ら摂関家にとり、兄弟は最初の敵よ。力を合わせることはあっても、仲良くは、なれぬ。
兼家は、今ひとたび、ため息をついた。
衆目の集まる陣定で倒れて意識を失ったことで、兼家の政治生命が終わることは、確定した。兼家がこれから十年、二十年を生きられたとしても、周囲は、兼家が倒れたことを忘れず、事あるごとに吹聴し、利用し続ける。
それも、表面上は、兼家の健康を気遣い、無理させないよう心を配るように見せかけて。そうやって、兼家の影響力はじわじわと削られていく。
兼家にはわかる。若いとき、兄の兼通の病を利用しようとしすぎて、逆鱗に触れてしまった。苦い思い出だ。失敗は、繰り返さない。
──こたびの謀で、わしが畏れられている間に、息子たちへの権力の継承を急がねばならん。
兼家は、己の権力を受け継ぐべき、三人の兄弟を思う。
──長男の道隆は、穏やかで真面目に育った。反面、危機感がない。なさすぎる。不安だ。
そう育てたのも、兼家である。長兄たるもの、度量大きく、日の当たる場所を堂々と歩かねばならない。だから、これまでは意図的に穢を遠ざけさせてきた。
──それがよくなかったか。
花山天皇を玉座から引き下ろし奉ったこたびの謀は、失敗すれば一族の破滅ともなる大事だ。露見を防ぐためならば、死穢を恐れている場合ではないと考え道隆の尻を叩いたところ、ぽかん、と口をあけて驚いていた。
──あれは、そういう後ろ暗いところは弟たちにやらせればいいでしょう、という顔だったな。口にしなかったのだけは、評価して‥‥いや、ダメだ。弟たちもあの場にいたのだ。道隆の腹のうちは露見ているに決まってる。
近くで暮らしていれば、言葉にせずとも、人の思いは読み取れるものだ。
長兄にそう思われたことは、弟たちに伝わっていよう。特に、道兼には。
──道兼は、覇気があり、度胸もある。しかし、それが兄への過度な対抗心となっている。不安だ。
花山天皇を玉座から引き下ろし奉ったこたびの謀において、功の第一は、道兼だ。自らの身体を傷つけてまで、花山天皇の信を得、懐に入った。
道兼がいなければ、謀は失敗に終わっただろう。だからといって、道兼を手放しで褒めることは、兼家には、できない。
──親から授かった大事な体を、自分の手で傷つけ、しかもそれを誇る。道兼には、孝悌というものが欠けておる。わざわざ家族の前で徳のなさを見せびらかすとか、やはり危うい。
古代の日本に大陸から伝わった思想に、仏教と儒教がある。
仏教は民草を救うため、災厄から国土を守る霊的守護として広まった。
儒教は民草を率いるため、正しい道筋を制度化するものとして広まった。
儒教のひとつに孟子がある。孟子に書かれた、親や年長者への崇敬の心が、孝悌だ。
──長男の道隆のように、覇気がないのも困るが、次男の道兼のように、徳がないのも危うい。長短それぞれをもつふたりを、合わせてひとりにできれば‥‥ふむ。我が家では三郎が、そうか。やはりわしと同じ三男だからか。
花山天皇を玉座から引き下ろし奉ったこたびの謀において、長男と次男が、それぞれに不甲斐のなさを晒しただけに、三男の三郎道長のみせた成長は、兼家にとって、嬉しい驚きだった。
──幼いころの三郎は、何でも卒なくこなすが、道隆と同じく覇気がなかった。それがどうだ。道兼とは殴り合いの喧嘩ができるようになったし、高御座の件では渋る使いの者に恫喝までした。この企みで、あいつは一皮むけた。
兼家の見るところ、同腹の息子たち三人で、現時点で、権力をもっともうまく操れるのは、三郎道長に他ならない。
度胸と決断力があり、心の内を秘する自制力をもっている。
──惜しいことだ。兄ふたりがいなければ、三郎に‥‥いや、三郎がここまで育ったのは、弟として兄ふたりを見てきたからか。それに、詮子も可愛がっておったからな。
詮子は、東宮から即位を果たし、一条天皇となった孫の母だ。父の兼家を蛇蝎のごとく嫌っているが、兼家の方は、娘を可愛く思う。
自分に向ける詮子の憎しみが、近親憎悪だと思っているからだ。
──詮子は、わしの企みを見抜くほどに聡い。そのせいで父を憎んでおるのは残念なことだが、そのおかげで、息子を愛しているのはよいことだ。わしの助けなく左大臣を後ろ盾として引き込んだやり口も、なかなかどうして、見事なものではないか。
詮子が源雅信を恫喝するようにして東宮の派閥に引きずり込んだやり口は、彼女が嫌う父のやり方とそっくり同じだった。
そのことに諧謔心をくすぐられ、兼家の口の端に、笑みが浮かぶ。
苦労して娘を入内させた甲斐があったというものだ。次の代でも、同じように一族から帝に娘を入内させられれば──
緩んだ兼家の口の端が、再び引き結ばれた。
──だというのに、道兼のやつは‥‥辛抱というものを、知らんのか。
身内だけの宴であればともかく、陰陽寮から安倍晴明を呼んでの宴に乱入した道兼の振る舞いを思うと、不快感しかない。
家族兄弟の不和を、こともあろうに晴明の前で明らかにすることが、政治的にいかに危険か。わかっていないなら愚かだし、わかってやったなら度し難い。
──こたびの即位における高御座の件、晴明が関わったものであろうからな。
花山天皇を出家させ、一条天皇を即位させる。この謀を兼家に売り込んだのは、晴明である。
その他ならぬ晴明が、一条天皇の即位の儀を邪魔するかのような高御座の穢に関わるなど、常識では考えられないことだ。
だが、古くからの付き合いである兼家には、晴明という男ならばそうするであろう、という確信に近い思いがあった。証拠はないし、必要もない。首を置いた犯人こそ、花山院の手の内の誰かだろうが、見つからずに高御座に近づけた時点で、晴明が手を回している。
理由もわかっている。
──ひとつには、呂雉の一族になるな、という警告であろうな。
呂雉は漢帝国の初代皇帝劉邦の妻だ。
劉邦の死後、息子を皇位につけて呂太后として恐怖政治を敷き、そこに呂氏一族が外戚として関わったと伝わっている。
実際にどうであったかは、歴史の分厚い霧の向こうなのでわからない。呂氏の乱のような政変の後では、勝者が敗者に罪を押し付けるために歴史の改ざんを行うことも珍しくない。
だが、帝の外戚という地位が、権力者にとって都合がいいのは、洋の東西を問わない。帝の権威を利用して、権力をふるえるのだから、これほどにおいしいことはない。
だからこそ、兼家は娘を入内させたし、生まれた子を東宮にすることに全力を尽くした。花山天皇に新たな男子が生まれぬよう、晴明に命じて腹の子に呪詛をかけさせたのも、兼家だ。
しかし、そのことで仕返しをするような浅い男では、晴明はむろん、ない。
──もうひとつ。こちらが重要だが、穢を利用した晴明の仕込みだ。
将来、朝廷で政変が起き、兼家が失脚すれば、即位式での高御座の生首の一件は、“なぜか”朝廷内に広まり、一条天皇は退位を余儀なくされるだろう。
晴明の狙いは今ではない。この国の未来の舵取りだ。
──陰陽師らしい。穢を商売道具として使うか。
晴明のやり口に腹は立つが、不快ではない。
兼家もまた、朝廷内の権力闘争で似た手口を使ってきたからだ。
同じ野心家として、親しみすら、感じるほどだ。
だからこそ──
──為時の娘。あれは許せぬ。
為時が謀からほど遠い、学者としての清い心を持ち続けているのは、わかっていた。
兼家とは真逆の存在。
それゆえ、為時は花山天皇の信を得られた
それゆえ、為時は間者であることが苦しくなり、兼家から離れた。
──それはよい。それはよいのだ。為時は、そういう男というだけだ。
無官となった為時を救うため、その娘が陳情に訪れたと聞いて、兼家は、使える、と思った。
晴明が高御座の穢を将来の布石として仕込んだのと同じである。
謀でもって天皇を引きずりおろした自分に、あえて近づく度胸のある娘だ。恩を売って手懐ければ、新たな手駒になる。将来の朝廷工作に利用できる。
──だが、ダメだ。あの娘はダメだ。
為時には、まだ弱さがあった。家族を養い、家職を保たせるため、どうしても兼家の力が必要で、そのことを理解していた。
──為時の娘。まひろといったか。あの娘は、わしの手駒にはできん。
一目でわかった。強い娘だ。一人で生きられる娘だ。
言葉を交わして、印象は確信に変わった。賢い女だ。兼家の手にあまる女だ。
──会わねばよかった。やはり市井の者に会うものではないな。
権力の泥沼の中でしか生きられぬ藤氏長者の兼家にとって、空を自由に飛びまわる小鳥のようなまひろは、あまりに眩しかった。
兼家は、摂政である。兄弟で争い、他の貴族と争い、入内させた娘に嫌われ、天皇すら謀で退位させ、今の地位にのぼりつめた。野心家で、謀略家だ。
自覚があり、自負もあり──これまで己のしてきたことへの自責と恐怖もある。
なればこそ、ここまでの自分の人生を否定するかのような、まひろの真っ直ぐな瞳を認めることはできなかった。
──わしは悪人よ。わしの手は血に汚れておる。だが、天神地祇に誓って、わしの悪業は我が藤原の一族がため。一身の栄華のためではないわ。
兼家は、燈の中に、手にした文を投じた。
燃え上がる炎が、老いへ向かう男の顔を、陰影くろぐろと浮かび上がらせた。