「浅倉南」になれなかった同志に贈る
1996年春、浅倉南になり損ねた女がいた。彼女は待てど暮らせど結婚式場にやって来る気配のない婚約者の男の家に向かって、人の目を忘れ、東京の街を白無垢姿のまま夢中で走る。婚約者の苗字は浅倉。女の名は南。結婚式が終わって浅倉と夫婦になれば、晴れて浅倉南になるはずだった。なのに、結婚式場に浅倉がやって来ない。
結婚式まで残り15分。婚約者はやってこない。周りの目が痛い。母親は彼女の肩を揺すって、仕切りに「どうなってるの⁉︎」と繰り返すが、そんなこと私が知りたい。結婚式まで残り10分。ついに、耐えきれなくなった彼女は白無垢姿のまま結婚式場を飛び出して、浅倉の家へと向かった。それが、今から20分前のこと。
息を切らしつつ、彼の家にたどり着いたが、そこに彼の姿はない。代わりに見つけたのは自分宛の置き手紙。そこには、「君との結婚はなかったことにして欲しい。すまない」と。まさかの婚約破棄。結婚式当日の逃亡。たった今、彼女は浅倉南になり損ねたのである。
私の勝手な妄想も少し混じっているが、おおよそこんな感じでドラマ『ロングバケーション』はスタートする。なかなかに衝撃的な幕開けではあるが、視聴者の気を引くために物語冒頭に印象的なシーンを持ってくるという手法は連ドラの常套手段だから、この展開はベタと言えばベタである。しかし、その点を考慮しても、ドラマ『ロングバケーション』の冒頭は秀逸であると言える。この冒頭には脚本家、北川悦吏子氏(以下、敬称略)の決意表明が力強くなされているからである。この決意表明は非常に挑戦的なものであり、ともすれば攻撃的だと捉えられかねないが、そこには確かに人を包み込むような優しさがある。
北川が物語冒頭で行った決意表明を解読するには、彼女が「浅倉南」というワードに託したメッセージを理解する必要がある。「浅倉南」とは一体何を象徴しているのか。「浅倉南」になり損なう、とはどういう意味なのか。
そもそも、浅倉南とは何者か。それは、あだち充先生の傑作『タッチ』のヒロインであり、才色兼備、運動神経抜群、同性からの人望も厚いという、謂わば、「全てを手に入れた女」である。恋愛面では、数多くの男子からのアプローチを受け、その中には、入学して早々野球部のエースを務め、端正な顔立ちから校内外の女子たちを虜にしている幼馴染の上杉和也や、高校球界No. 1スラッガーであり、甘いルックスで全国の女子からも絶大な人気を誇る生粋のモテ男、新田明男などがいる。が、これらモテ男たちを含めた沢山の男子どもから散々アプローチされた浅倉南が最後に選んだのは、甲子園予選の決勝で新田明男との壮絶な戦いを制し、最終的には甲子園優勝投手となった天才・上杉達也である。物語終盤、抜群の運動神経とルックスを兼ね備えた天才・上杉達也からの告白を受け入れることによって浅倉南の恋はようやく成就する。これだけでも女性読者からの反感を買うのには十分すぎるのだが、浅倉南は小さい頃からずっと上杉達也のことが好きだったというのだから手に負えない。あれだけ思わせぶりな態度をとっておいて、相手は最初から決まってました、だと?新田はともかく、私たちの和也様が浮かばれないだろうが!クソ女!くたばれ!女の敵!極悪人!カマトト女!今にも女性読者(上杉和也親衛隊)からのこうした叫び声が聴こえてきそうである。しかも、ずっと好きだった男が自分を甲子園に連れて行くために頑張ってくれて、その夢を叶えるばかりか、全国制覇もしてくれて、そのうえ、告白までしてくれる。さらに運動面では、友達に誘われて半ば無理やり始めさせられた新体操で即インターハイ個人優勝。圧倒的な才能を見せる。加えて、勉強面でも成績優秀。おまけに同性からの信頼も厚いときた。浅倉南よ、お前はどれだけの名誉を手に入れれば気が済むのか。それは女性読者から嫌われても仕方ない。浅倉南、お前は腐れ男子からの絶大な支持を得る代わりに、多くの腐れ女子を敵に回したことになる。好きなヒロインランキング1位であるのと同時に、嫌いな(殺してやりたい)ヒロインランキングでも1位になることは間違いない。
浅倉南disはこのくらいにするが、要するに浅倉南はこの世の中で最もタチが悪いと言われている腐れ女子たちを嫉妬で狂わせるほどに、全てを手に入れた女であり、ある意味で理想の女性像を120%体現したような人物と言える。
それでは『ロングバケーション』において「浅倉南」とは一体何を象徴するものなのか。それは、「理想や憧れを実現させた者。または、スポットライトが当たる特別な存在、物語の中心」である。葉山南(以下、南)にとって、浅倉との結婚は理想的な未来であり、もしかすると、結婚そのものが幼い頃からの憧れだったかもしれない。従って、南が「浅倉南」になることは、単に結婚によって姓が変わったことを意味するばかりではなく、ましてや、演出上のちょっとした洒落などでもなく、彼女自身が理想を実現した、謂わば、特別な存在になるということを意味する。反対に、「浅倉南」になり損ねた、ということは、彼女が理想を実現できなかった存在であるということ、もっと言えば、彼女は浅倉南のように物語の中心人物としてスポットライトを浴びるような特別な存在などではなく、一凡人だったということを意味するのである。
思えば誰もが昔は「浅倉南」であった。産まれた瞬間、自分は疑いようもなく、この世界の中心であり、自分の一挙手一投足に反応して周りの大人たちは慌ただしく動いた。自分が笑えば大人たちも笑い、泣けば慌てる。初めて立ったときは喜び、初めて歩いたときは涙を流して喜んだ。そして、祖父や祖母は自分のことを神童だと信じて疑わず、ことあるごとに「〇〇は天才だ、〇〇は天才だ」と繰り返す。大袈裟ではなく周りにいる人間全てが自分のことを特別な存在として扱った。しかし、時は流れ、自分と同い年くらいの人間に囲まれていくと、多くの子どもたち、それこそ99%の子どもたちは自分が決して世界の中心ではないということを幼心にも悟るようになる。そのタイミングは様々で、人によってはかけっこでビリになったときかもしれないし、小学校の授業で周りの子より九九の覚えが悪くて先生に叱られたときかもしれない。はたまた、バレンタインデーで親友は沢山チョコを貰っているのに、自分は一つも貰えなかったときかもしれない。タイミングは人それぞれだが、99%の人々は成長していく過程で自分は天才でもなければ、特別な存在でもないし、ましてや、世界の中心でもないということを知る。それと同時に、自分がアンパンマンやプリキュアになって世界を救うと疑いなく信じられた季節は終わる。これが人生最初の挫折である。しかし、それでも人生は続く。自分は特別な存在でもなければ、世界の中心でもない、ただの一凡人なのにも関わらずこれから先も生きていかなくてはいけない。
ようやくここで、『ロングバケーション』の冒頭に北川が込めた決意表明が解読できる。『ロングバケーション』のシナリオを簡単に整理すると、物語冒頭で南が婚約者の浅倉から逃げられたことにより「浅倉南」になり損なう所から幕を開け、その後、瀬名(木村拓哉)と出会い、紆余曲折ありながらも、新しい人生を発見していくとなる。つまり、このドラマの主題は、「自分は特別な存在でも何でもなかったという事実を知り、人生に絶望した状態から南がどのようにして新しい人生を切り拓いていくか」ということになる。物語冒頭であえて「浅倉南」になり損なったことを書くことにより、北川は「これから私は、浅倉南のような特別な人間(1%の人間)ではなく、普通の人間(99%の人間)の人生を描きます」という決意表明をしたのである。しかも、天下の月9で。私はこのメッセージに心打たれ、思わずスタンディングオベーションしたくなった。
たしかに、あだち作品は素晴らしい。素晴らしいどころではない。あだち作品は最強最高である。が、時々、あだち作品を読むのがどうしようもなく苦しくなるときがある。あだち作品に出てくるキャラたちが余りにも輝いているから、現実の自分とのギャップに胸が詰まりそうになるのだ。だって、あだち作品の主要キャラたちの恋愛って、謂わばメジャーリーガー同士の恋愛でしょ。一軍も一軍。スタープレイヤー同士の恋愛。私のような凡人には全く縁のない世界で行われている夢物語。神同士の戯れ。そりゃ、夢はある。だから、あだち作品を愛している訳だし、それはこれからも変わらない。あだち作品が世界一であると断言できる。が、心が弱っているとき、何かに縋りつきたいとき、あだち作品を読むと胸が苦しくなることがある。もちろん、あだち作品に助けられたことは何度もある。けど、あだち作品のキャラたちが余りにも眩しすぎて、その輝き故にあだち作品を思わず遠ざけたくなるときが、やっぱり、ある。そりゃ、私だってできることなら上杉達也になりたかったし、浅倉南になりたかった。だけど、そんなの限られたごく一部の特別な人間であって、それは決して私ではない。私は特別な人間でもなんでもない、ただの凡人。凡人中の凡人。それでも否応なく明日は来るじゃないか。どうすればいいんだよって聞いても、達也は答えてくれない。
『ロングバケーション』の冒頭を初めて観たとき、このドラマでは、自分が凡人であることを悟り、その事実に絶望しながらも、それでも続く毎日を前向きに生きようとする人物を丁寧に描いてくれるのではないかと思った。この作品は私のような凡人(99%の人間)のための作品だと思った。
『タッチ』に登場したモブキャラたちにも、彼・彼女らなりの青春があって、それは上杉達也や浅倉南の青春ほど煌びやかで劇的でスケールの大きいものではないかもしれない。しかし、それがなんだって言うのか。絶望の先にしか見えない景色だって必ずある。『ロングバケーション』を通じて、南はそのことを教えてくれた。やはり、このドラマは「浅倉南」になれなかった私のような99%の人々に贈られたプレゼントだったのだ。
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