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スネ夫の情けなさと報われない出来杉

 今年もこの季節がやってきた。花粉を撒き散らす杉の木が日本人の大多数から疎ましく思われるこの季節、ある国民的アニメではもう一つの「杉」が除け者にされることになる。
 そう、3月はドラえもんの新作映画が公開される月なのだ。その映画において出来「杉」がのび太たち仲良しグループから仲間外れにされる。まるで日本国民の杉の木に対する憎悪を、そのまま出来杉にぶつけるが如く、のび太たち仲良しグループは出来杉を無視する。多くの日本国民が3月になると杉の木を嫌悪するように、のび太たちも出来杉を嫌悪しているのかもしれない。出来杉が出来過ぎるが故に。
 そして、今年も出来杉は私たちの期待を裏切ることなく、塾の合宿というなんとも都合の良い、取ってつけたような理由によって映画の本筋に参加することを許されなかった。
映画製作陣の会話が容易に想像できる。

製作陣部下 「今年の映画で出来杉君が物語から
       離脱する理由どうしましょう?」
製作陣上司 「あっ?そんなん適当でいいよ。
       めんどくせぇから塾の合宿って
       ことにでもしとけ」
製作陣部下 「了解です(笑)」
                    (終)

出来杉会議終了である。10秒程度の会話で出来杉の今年の春の処遇は決したのだ。
が、出来杉に同情するスタッフはいない。何故なら、今回のシナリオにおいて、出来杉のような天才は邪魔な存在だからだ。

        
前置きが長くなったが、先日、ついに『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争2021』を鑑賞してきた。
今回の記事では、これまでのエッセイっぽい記事とは打って変わって、今作品の感想をダラダラと書いていく。
ちなみに、今回の記事は今作品を既に観た人、内容を知っている人、またはネタバレしても気にしない人を対象に書いているので、それ以外の方は読まないことをおススメする。
簡単なあらすじに関しては、以下のサイトで確認出来る。


結論を先に申し上げると、今作品は非常に面白かった。
これを読んだ読者諸君にも自信を持っておススメできる作品に仕上がっていると思う。

今作品は1985年に公開された、『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争』のリメイク版である。リメイク版の作品はオリジナル版と比べ酷評されることがほとんどであるが、今作品はオリジナル版と比較しても全く見劣りのしない出来であり、特に戦闘シーンの迫力は圧巻だった。オリジナル版と同様、反乱軍が政権中枢部に攻め込むシーンから始まる。反乱軍の勢力に押され、ほとんど壊滅状態の最中で、大統領(パピ)は側近たちに半ば強引に脱出ロケットへと押し込まれ、不本意ながら劣勢の仲間たちを残して1人星を脱出することとなる。この一連シーンの迫力が凄かった。エヴァンゲリオンの旧劇において戦略自衛隊がNERV本部に攻め入ったシーン
(宮﨑駿の『On Your Mark』という作品に大いに影響を受けていると言われるシーン
*それについては岡田斗司夫が詳しく解説しているので、興味のある方は以下の動画を視聴されたい。添付動画の56:00あたりからが該当部分。添付動画を視聴したのちに『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 Air/まごころを、君に』、通称「旧劇」の11:43あたりから始まるシーンを視聴して欲しい。)


を彷彿とさせる程であった。勿論、子どもたちも鑑賞するものであるから、血を流す場面をはじめとした残酷な描写は上手に省略されていた。が、このシーンの迫力故に泣き出す子どもが居てもなんら不思議ではなかった。そのくらいのパワーがあったのだ。
冒頭シーンを観たとき私は思った。「どうやら製作陣マジだな…」と。

ここからは感想をより具体的に述べていく。


良かった点

1, ジャイアンの暴力性

 当たり前すぎるので、今更言及する必要はないとは思うのだが、映画版のドラえもんを観たことがある人ならば誰もがジャイアンの異様さを知っているだろう。映画版のジャイアンは普段のジャイアンからは想像がつかないほど、仲間思いで優しいのだ。
今回もジャイアンは仲間思いで、強くて、優しかった。
             
    「安心しな。俺たちは味方だ」

 これは、今作品における、ジャイアンの名言である。なんともジャイアンらしい、愛と優しさに満ちた言葉である。私は1人でも多くの人に劇場でこのセリフを聞いて貰い、ジャイアンという人間のもう一つの顔に気がついて貰いたいと心から思う。
 私は常々疑問に思ってきた。どうしてドラえもんの新作映画が毎年毎年公開されるのかと。しかし、毎年映画館に足を運び、ジャイアンの勇姿を観てきた今なら分かる。ドラえもんの新作映画が毎年公開されるのは、他でもない、ジャイアンのためなのだ。1年間の罪を映画での活躍によって帳消しにしてしまおうとしているのである。なんともジャイアンらしい短絡的で都合の良い発想である。が、我々にジャイアンを馬鹿にする権利はあるのだろうか。年に一回、初詣のときだけ神社に赴いて、少額のお賽銭であれこれと神にお願いする私たちに。

 しかし、いくらジャイアンのイメージアップビデオとはいえ、ジャイアンの本質はその暴力性のなかにこそあるということを忘れてはならない。ジャイアンがジャイアンである以上、その行動原理は暴力性に基づかなくてはならない。つまり、「仲間のため」や「地球を守るため」などのような、いかにも高尚な動機があったとしても、それらはあくまで表面的な動機であって、もっと根本の部分には「あいつらをボッコボコのギッタギタにしてやらねぇと俺の気が済まねぇ」という真の動機がなくてはならないということだ。ジャイアンの行動原理はシンプルである。「殴りたいか殴らなくてもいいか」だ。
 そして、今作品ではそのことがしっかりと踏まえられていた。最終的には「仲間を救うため」という動機のもと戦争に加わったのだが、ジャイアンが反乱軍に対して最初に敵意を持つようになったきっかけは、自分たちが苦労して作り上げた特撮映画のセットをドラコルル長官たちが破壊したことである。自分の遊びを邪魔した存在は、即ち敵であり、ボッコボコのギッタギタにしてやらなくてはならないのだ。
 
 これぞジャイアン流の「悪・即・殴」である。
 
 また、これらはジャイアンにとって、異星に乗り込み、その星の軍隊を壊滅させる動機としては十分すぎるのだ。
 こういったジャイアンの暴力性を排除し、単なる仲間思いの力持ちというキャラにしてしまうことで、ジャイアンがジャイアンで無くなってしまうのである。大切なのは、いつでもジャイアンはジャイアンであるということなのだ。そして、ジャイアンでありながらイメージアップを図るということなのである。

2,物語を深めるスネ夫の存在

 今作におけるスネ夫の役割は非常に重要である。
 私たち視聴者は仲間を助けるために奮闘するのび太たちの正義を信じて疑わず、彼らの勇姿を讃える。が、一度立ち止まって考えてほしい。果たして、本当にそれだけでいいのか、と。確かに、のび太たちの行動は称賛されるに値するものなのかもしれない。しかし、異星人同士の戦争に、縁もゆかりもない地球人ののび太たちが介入する必要なんてものはないというスネ夫の意見にも一理ある。私たちは登場人物たちに対して、「危険を冒しても仲間を救う」などといった勇敢な姿を求め、それを観てある種の快感を得るのだが、その際に当然考えられるであろう至極真っ当な反対意見を忘れがちである。その反対意見がしっかり物語の中に反映されているかが、物語の深さであると考える。物語をスムーズに進めることを考えれば、スネ夫のような弱虫は必要ない。しかし、敢えてその弱虫を登場させて、反対意見を述べさせることによって、物語は深みを増す。その意味で今作におけるスネ夫の存在は非常に重要なものであった。
 余談だが、反乱軍の奇襲に遭いビビり散らかし、物置の影に体育座りになって隠れるスネ夫と、それを発見したシズカの2人のシーンは、さながらエヴァの旧劇におけるシンジとミサトのシーンと酷似していた。1985年版でも似たようなシーンがあったことから、公開の時期的にはエヴァの方が後なので、真似したとすればエヴァの方なのだが、どうなのだろうか。偶然なのか、それともSF映画ではあるあるのシーンなのか…。
 ただ、映画を観終わった後、友人に

 「今回のスネ夫、エヴァのシンジみたいだっ    
      ね」

と言ってみたところ、

 「今回のスネ夫を極限まで引きずったのがシン
  ジなんだよ」

と言われて、かなり腑に落ちた。

3,強敵ドラコルルの活躍

 物語を面白くするためには、敵がどれくらい魅力的な人物なのかという点も重要になってくる。
アホすぎてもダメだし、圧倒的に強すぎても良くない。
 その点、ドラコルル長官は圧倒的な強さを持っていないものの、驚くべき知能を有しており、それに基づく知謀の数々には驚かされた。従って、敵役としては充分魅力的だった。
 1985年版では、クレバーだが少し粗暴なイメージがあったドラコルルも、今回はクレバーであり尚且つ軍人らしく潔くクールな存在にリメイクされていてとても良かった。まさしく悪のカリスマといったような存在である。
 ところどころで、ドラコルルがパピたちを慮るような不思議な表情を浮かべる場面があったが、あれはなんだったのであろうか。私は映画を観ながら、実はドラコルルはパビの父親または兄だったのではないかという仮説を立てたのだが、最後までそれに関する明確な答えは提示されなかった。おそらく、そこに関する裏設定は存在しているのであろう。


疑問点

1,スモールライトの効果について

 今回の物語において最も重要な意味を持つ秘密道具は間違いなくスモールライトだ。のび太たちが戦争に巻き込まれるきっかけとなったのも、ドラコルル長官にドラえもんの持つ文明水準の高さを知られるきっかけになったのも全てスモールライトが原因である。
 そんなスモールライトに関してだが、今回の作品でもやはり、その効果に対する疑問が残った。

 「スモールライトの効果って時間が経てば
  消えるんすね(⌒-⌒; )」

これに関してはオリジナル版を観た時から気になっていたことなのだが、時間が経てばスモールライトの効果が切れるって少々都合が良すぎではないか。物語終盤、ピリカ星において反乱軍の強力な軍事力を前にのび太たちが敗北を覚悟したその刹那、スモールライトの効果が突然切れて、のび太たちは巨大化(通常の大きさに戻った)。それにより、戦況は一変し、のび太たちが逆転勝利する。確かに、相当な戦力差があったことを考慮すれば、スモールライトの効果が切れ、のび太たちが巨大化するくらいのアドバンテージがあっても良いのだが、そうは言っても余りに唐突すぎた。物語の中盤あたりに、時間が経てばスモールライトの効果が切れる、または、何らかの要因によってスモールライトの効果が切れることがあるということを匂わせる描写をさりげなく忍ばせておければ、少なくとも今回のような唐突感や、それに伴うご都合主義感を薄めることができたように思う。もしかしたら、「ドンブラ粉」の効果が時間経過に伴い消失したというシーンが、後半のスモールライトの効果消失を暗示していたのかも知れないが…


2,力をねじ伏せるのは結局力なのか

 ギルモア将軍率いる反乱軍は圧倒的な軍事力によって、現政権を打倒しようとしている。悪の姿としては典型的なものである。対して、問題はこれにパピたちがどうやって対抗していくのか、ということであるが、パピたちは力で対抗することとを決めた。当然といえば、当然である。現時点で軍事力によって攻め込んできている敵に対して、なんの軍事力も持たずに民主主義的な手続きによって問題を解決しようとするのはほとんど不可能だからだ。しかし、そうであっても物語のなかくらいは、新たな可能性を感じさせるものであって欲しかった気もする。力をねじ伏せるには力で対抗するしかない。この作品を見て、私はそう思ってしまった。これに関しては、いちゃもんに近い感想なのかもしれない。元も子もない意見だから、無視して頂いて結構。


3,勧善懲悪すぎた

 そもそも、ピリカ星ではどうして戦争が起きているのか。反乱軍、特にギルモア将軍がパピに対して不満を抱いているのは明白なのだが、それでは果たしてギルモア将軍は反乱が成功したのちに何をしようとしているのか。そこら辺があまり明確でなかった。
 勧善懲悪ものは全て良くないというわけではないが、私個人の好みの問題として、悪役にも悪役なりの正義があって欲しいし、味方にもそれなりの欠点があって欲しい。
 正義と正義のぶつかり合いがあるからこそ、作品に深みが出ると思う。一つの偏った正義やイデオロギーが絶対的に正しいものとされ、それの正当性をただただ主張するだけの作品は、いわば「オナニー映画」である。今回の作品がそうだと言ってる訳ではないのだが、悪役に関する深掘りがもう少しされて然るべきだとは思っている。
 子どもが見ることを意識して、わかりやすくしているというのは理解できるのだが、ギルモアや反乱軍の見た目が悪役すぎる点も少し気になった。ここはまあ仕方ないか…。

 

4,「小」戦争であることの意義

 なんで「小」戦争なのだろうか。パピたちピリカ星の人々が皆小さいからだろうか。恐らく、それも正解だろう。しかし、「小」という文字にはもう少し深いメッセージが込められているのではないかと思う。
 つまり、この作品において展開される戦争は、あくまでも戦争の小さい版だよーってことだ。地球人から見れば、遠くの星で、親指サイズの人々が電子レンジ程の大きさの「巨大戦艦」に乗って行なっている戦争など、保育園の子どもたちがおもちゃを振り回して戦争ごっこしてるのとほとんど同じ小規模なものであって、言ってしまえば取るに足らない事象の一つだ。私たちはこの映画を鑑賞する際、その事実を大前提に置かなくてはならない。ピリカ星において展開されている戦争は、スモールライトの効果がなかった場合を考えれば、小学生の子どもたち数名によって簡単に鎮圧されてしまうものなのだ。加えて、地球人からすればピリカ星の戦争は全くもって関係のないものであるといえる。
 従って、のび太たちとピリカ星での戦争との間には、規模の大きさ、関係性が有無といった点でかなりの距離があるといえる。そして、この距離感こそが大事なのだ。
 パピと出会い、ドラコルルら反乱軍に目をつけられ、スモールライトを奪われるという経緯があってはじめてピリカ星の戦争とのび太たちの距離が近づく。小規模で尚且つ関係ないと思われていた戦争が、いざ目の前にやってきて、知らず知らずのうちに巻き込まれた挙句、それらが自分たちの生命を脅かすという状況になったとき、人々はどのように立ち振る舞うのかというのが、この映画のメインテーマである。その距離感の変化を表現するには、登場人物の心情変化や、カメラの位置(アップで撮るか、ルーズで撮るか)などが有効だと考える。その意味で、今作品はピリカ星での戦闘描写に迫力がありすぎたことにより、視聴者がピリカ星で起きている戦争の規模を大きく見積もってしまい、結果としてのび太たちとピリカ星での戦争の距離感を正確に把握しにくくなってしまったのではないかと感じる。だからこそ、のび太たちが最初からピリカ星での戦争に関して好戦的すぎることに私たちはあまり違和を抱かない。そして、スネ夫の正直な発言が必要以上に異様なものとして捉えられてしまうのではないだろうか。



 

まとめ


 色々と書いてきたが、まだまだ書きたいことが沢山ある。ただ、私の情報処理能力では未だそれらを言語化できていない。頭の整理ができたら書きたいと思う。
 
 これは毎年思うことなのだが、ドラえもんの映画の脚本を考えるのはとても大変な仕事である。子どもも大人も楽しめる作品を作り出すのは容易ではなく、あらゆる制約(今回の場合では戦争映画であるのにも関わらず人が死んだシーンを描いてはいけないなど)に縛られながら、物語を展開させていかなくてはならない。しかし、だからこそ楽しい仕事なのかもしれないし、20過ぎの私が未だに魅了され続けるのかもしれない。



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