習作『天竺から来た男』
※詳しく調べてません。
鎌倉時代、日本から宋(中国)に渡った僧侶がいた。
僧侶の名を慶政(けいせい)という。慶政はそこで西の方から来たという異国の商人たちと出会った。
慶政は彼らを天竺から来たのだと考え、浅黒い肌をした異国の商人たちに紙を渡し、筆で言葉を書いてもらった。寄せ書きの様に書かれたそれを仏典として日本へと持ち帰り、同じ僧で親交のあった明恵上人に贈った。
その紙が現在、重要文化財として正倉院に納められてある。
明治の始めまで、その紙に何が書かれてあるのかずっと謎だった。
京大の学者の目に止まって解ったことだが、書かれてある文字はインドのサンスクリット語ではなかった。ということは、慶政が出会った異国の商人たちは、天竺から来たのではなかったのである。
では、一体彼らは何処から来たというのか?
紙にはそれぞれアラビア語で、グルガーニーの恋歌、ルバイヤートと呼ばれる四行詩、フェルドウスィーが書いた叙事詩『王書<シャー・ナーメ>』の一説が書かれてあったという。
この事から慶政が出会った彼らは、西は西でも大陸の西側、つまりペルシャから来た商人だったのだ。
仏教徒にとって西と言ったら天竺。天竺といえば西にあるのだから、慶政がペルシャの商人を天竺から来たのだと勘違いするのも無理はない。
だからきっと、いや、ひょっとしたらだが、慶政と同じように当時の日本人たちは天竺をシルクロードの先のエルサレムと混同していたのではないだろうか。(江戸時代、カンボジアのアンコールワットが天竺の祇園精舎だと考えられていたから、十分考えられる話だ。)
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地に仏教が加わっていた。
そんな可能性を想像してみると、これほど面白い話はない。
天竺、聖地、メッカが同じ場所にある。
世界の果ては絶壁で、滝が流れている。
科学万能の現在では笑い話にしかならない。しかし、人間性は昔の人の方がずっと高く、馬鹿に出来ないほど教養が遥かにあったのだ。
異国の人間に出会い、言葉を求められたペルシャの商人の様に、スラスラと詩を諳んじる事なんて自分にはとても出来やしない。
毎日の様に物語を消費しているのに、何一つ心には言葉が残っていない。
そう思うと少し悔しい気分になった。
そんな訳で、ペルシャの文学について調べてみようと考えている。