習作『伝わらない寓意 ―スターチス―』
※最後まで読めます。放課後恋愛譚。
――君との距離と伝えたい言葉の量にいつも戸惑う。
二月の上旬。暖房の効いた教室で、うつらうつらしながらシャーペンを回転させ、彼女に云われた言葉を反芻する。窓から降り注ぐ日光が、開いたノートをより一層白い光で満たしていた。五時間目の国語の授業は教諭の都合で自習となっていて、副担任の先生から急遽出されたプリントの問題を早々に埋めて提出してしまうと、クラスの半分は友達とお喋りを始め、残りの半分は携帯電話を弄ってたり、雑誌をめくっていたりと各々自由に過ごしていた。
僕はと言うと、たらふくお昼ごはんを食べてしまい、窓際の席で南西からくる心地よい日差しを一身に浴びてしまっている訳で、それ故あまりの眠たさで机に突っ伏してしまう寸前だった。
眼を瞑り、付き合う事になった彼女の言葉をもう一度反芻する。
「君との距離と伝えたい言葉の量にいつも戸惑う。この言葉をすべて伝えるには、時間がとてもじゃないけど足りないみたいなんだ。だから、付き合ってしまおう」
学校指定の青っぽいブラウスの上に保健室の先生が着るような丈の長い白衣を羽織り、椅子に座って陶器のティーカップとリンゴの静物画をキャンバスに描いている彼女にとって、付き合おうと言ったのは話したいことが沢山、そう、山のように沢山あるからなのだそうだ。彼女にはそれなりに仲の良い友人たちがいるのにも関わらず、黙って話を聞いてくれる様な人間が僕一人だけなのだという。
「そうだよ。奇特な君と付き合ってしまえば毎日気兼ねなく話せるじゃないか」
さも素晴らしい解答を導き出したかのような言い方だったので、「ふむ、一理あるのかもしれない」などと、騙されやすい自分は勢いに押されてうっかり納得してしまいそうだった。
「でもそれって、僕になんのメリットもないですよね?」
「何を言うんだ。可愛い彼女が出来る。これは高校生にとって大きなメリット、いいや、人生で最大のアドバンテージじゃないか。明日からクラスで羨望の的になるんだぞ?」
「羨望の的かぁ。それはウザいなぁ」
クラスの友人から囃し立てられるのは面倒だな、とも正直に思った。彼女は絵筆を精緻に動かしながら、机で頬杖をついてる僕との会話を平然とやってのけていた。慣れているとはいえ、器用なものだと感心してしまう。放課後の美術室には唯一の美術部員である彼女と、帰宅部の僕しかいなかった。
最初は人体デッサンの簡単なモデルを彼女に頼まれ、暇を持て余しているだけの僕は特に断る理由もなく承諾したのだが、絵のモデルが終わったあとも美術室に用もなく通うようになってしまった。部員でもないのに、放課後はこうしてグダグダと彼女の話を聞く毎日を送っていた。
「わたしと付き合うのは嫌か?」
筆を止め、彼女はキャンバスから視線をこちらに向ける。やや困惑しているであろう自分の顔をまじまじと見られ、黒い瞳が僕の澱んだ内面を引きずり出そうとしてくる。
「別に、嫌じゃないですよ。どうせ暇ですから、付き合ってみましょうか」
「『どうせ暇ですから』は余計だな」
「付き合いましょう。是非に」
「よろしい」
彼女は満足そうに頷くと、絵筆を再び動かしたのだった。
翌日。教室を出て昼食のパンを買いに購買へ向かっていると、後ろから勢いよく襟首を掴まれた。掴まれたその衝撃で、気管へ唾液が入り込み、僕は激しく咳き込んだ。襟を掴んできた相手に、片手をストップのジェスチャーにしたまま、落ち着くまでに十数秒ほどかかった。
「あの、普通引っ張るなら、ゲフッ…袖、とかですよね?」
「逃げられないよう、ガッシリ掴まえてみようかと」
彼女は事も無げにそんな事を言った。どうやら漫画のヒロインみたく、男子の服の袖をソッと指でつまむというシチュエーションというのを、彼女は思い至らなかったようだ。
「逃げませんよ。それから手加減はしてください。首がもげるかと思いましたよ」
まだ喉に違和感があり、自分の首を手でさすった。
「むう。彼氏に対する力の加減というのがどうもわからないな」
白衣ではなく、ブレザーを身に纏っている彼女は掌を見つめ、開いたり閉じたりしてみせた。
僕が彼氏じゃなくても、力の加減などしなかったのではないだろうか。
「それで、どういう了見でしょう?」
「お昼ごはんを一緒に食べよう」
僕の質問に彼女はそう答えると、胸元に巾着袋を突きつけたのだった。
若い男女が中庭にあるベンチに座ってお弁当を食べる。
傍から見れば仲睦まじいカップルらしい光景なのだが、僕はタコさんウィンナーの入ったタコ焼きなる物を食べさせられていた。口の中でウィンナーはタコの形をしていると解るのものの、味はタコではない。ウィンナーの歯応えである。
「自信作なんだ。美味しいだろ?」と彼女は感想を聞いてきた。
「ええ。美味しいんですけど、これって、マグリットの『これはパイプではない』のオマージュか何かですか?」
「どう見てもパイプの絵なのに、『パイプではない』と書かれてある。哲学的のようでいて、マグリット本人はただのネタのつもりで描いているという」
「つまり、これもネタの一つなんですね?」
「そういう事だよ。いつも高尚に捉えようとすると、大切な物を見落としてしまうのさ。『大切な物は目には見えないんだよ。心で探さないと』」
彼女はサン=テグジュペリの書いた『星の王子さま』の一節を諳んじてみせた。頼めば『人間の土地』からの引用もスラスラと暗唱してくれるだろう。
僕は何も言わずウィンナーの入ったタコ焼きを食べながらタコの味を探す。何度も確かめなくても、噛み締めた味はウィンナーの味だった。
「星の王子様が、もしもタコ型の火星人だったらベストセラーにはならなかっただろう」と、彼女は寂しげに言った。
「このウィンナー、ひょっとしてタコ型の宇宙人だったんですか?」
僕の疑問に彼女はケラケラと笑って応えた。
こんな感じに、彼女はすぐには分かりづらいネタを仕込むのを好んでいて、それに気付かされる度に僕は驚かされていた。サービス精神旺盛というよりは、ややズレた感性で人を楽しませる事が好きなのだろう。二重三重にネタを仕込んで回収しようとしてくる。僕が驚いた顔をすると、その日一日、彼女は上機嫌でいるのだった。
だからきっと、『付き合おう』と彼女が言いだしたのも話のネタとしての前振りなのだと僕は捉えていた。
その日もいつものように放課後の美術室には、白衣姿の彼女と僕の二人だけだった。彼女と付き合い始めて二ヶ月が経ち、陽が沈むのが随分と早くなった。昼食を一緒に食べるようになっただけで、これといって進展はない。良く言えばプラトニックな関係。悪く言えばカップル詐称である。
「君は好きな事をしようとする時、躊躇したりしないか?」
「なんですか唐突に」
僕は相変わらず彼女の話に耳を傾けていた。さっきまで彼女は、画家のベラスケスについての講釈を悠々と垂れていたのだが、途中から映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』の話に変わってしまったのは、まったくの謎である。
「躊躇だよ。そうだな。放課後、そこの扉を開けて中に入ろうとすると、時々不安や恥ずかしさみたいな物が胸を霞めていくような感じがして、ちょっとだけ絵を描くのを躊躇するんだ。好きな事をしている自分を省みると、何処か恥ずかしい気持ちがするのは、どうしてなんだろうな」と、相変わらず彼女は絵筆を動かしながら朗々と話した。
「さあ、どうしてなんでしょうね」
雑誌を捲りながら、僕は彼女の疑問を曖昧に返した。
彼女はキャンバスに向かって、バケットいっぱいにあるスターチスのドライフラワーの絵に彩色をしていた。薄く塗った絵の具が、とても温かい色合いをかもし出していた。
僕の方はフェルメールの特集をしている美術誌を見つけ、『絵画芸術』と題された絵を眺めている最中だった。註釈に、この絵には様々な寓意が込められているという旨が書かれてあった。こんな風に書かれていなければ、無知蒙昧な自分なんかは、絵の中にある寓意に少しも気付きはしなかっただろう。
彼女の描いている絵も、説明されなければ何も知らないままでいるに違いない。そう思い、寓意についての話を聞き出そうかと考えていた。
「君は好きな事に対して、躊躇したりしないのか?」と、彼女は言った。
「しませんよ」
僕は迷わず、すぐに答えた。
「少しも?」
「ええ。少しもありませんね」
僕がもう一度そう断言すると、彼女は筆を動かすのを止めて首を傾げた。
「そもそも、君が好きな事って何があるんだ?」
彼女は絵を描くのを止め、僕の眼を見て、そう尋ねた。
僕の好きな事。そんなの、決まっているじゃないか。
「先輩の話を、こうしてずっと聞いてるの、僕はとても好きですよ」
僕が真顔でそう答えると、彼女との間になんだか照れくさい空気が流れてしまった。
「そうか……。それは、えーっと、どうもありがとう」
「どういたしまして」
丁寧に返すと彼女は絵筆を何度か動かし、「ああ、もうこんな時間だ。家に帰らないと」と、壁にかかっている時計を見て、やや大袈裟に言ったのだった。そして片付けて来ると言い残し、そのままキャンバスとイーゼルを持って美術準備室に行ってしまった。
それからしばらくの間、顔の頬を紅く染めた先輩が戻ってくるまで、僕は蛍光灯の光にぼんやりと照らされて待っていた。
居眠りから目覚めると、五時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。日直が『自習』と黒板に書かれた文字を消していた。僕は両腕を大きく伸ばし、欠伸をする。次の授業は得意な世界史。そして、今日の授業が終わるまで、残り一時間だけ。そう思うと、自然と元気が湧いてきた。
放課後になるのがこんなに待ち遠しくなったのは、いつ頃からだろう。
先輩に会うのが、先輩の事が好きになったのは、いつからなのだろう。
そんな事を考えるのと同時に、先輩が学校からいなくなってしまうのが残念で仕方がなかった。先輩がいなくなったら、昼休みにお弁当を毎日一緒に食べたりする事もなくなる。校内で先輩の話を、声を聞く事も、一緒に下校して同じ景色を見る事すら叶わなくなる。
だから放課後になる度、階段を登り、校舎の五階の廊下の突き当りにある美術室へと足繁く通う事もしなくなってしまうのだ。先輩に会って話を聞くのが、学校で唯一僕の好きな楽しみだったのに。あと何度、放課後の美術室で僕らは笑い合えるのだろう。
三月になれば先輩が、彼女が学校を卒業する日がやってくる。