見出し画像

臓器提供登録したはなし

思うところがあって臓器提供意思カードを作り直した。

10代の時に一度作ってはいるが、今回はちゃんと臓器移植ネットワークに登録して綺麗な臓器提供意思カードを作ってもらった。

このご時世に作るものなのか?と言われそうなので、今回はそういう話です。

臓器提供意思カードを作った理由

10代の時から自分が死んだら臓器は全部人にあげようと思っていた。

元来役立たずと呼ばれて生きていて役に立てないのなら死んだ後ぐらい役に立ちたいと思っていたし、死んだあとの事に執着はないのでそれでいいと思っている。なので臓器は死んだら全部人にあげるように臓器提供意思カードに書いていた。

しかしこれは死後の話である。生きて役に立てる方法はそうそうないな、と思っていたある日兄が献血をしてきた。

これだ、と思い立ち16歳の誕生日に初めて献血をした。以降23歳でうつの投薬治療のため出来なくなるまで毎年上限まで献血していた(今になって思うと貧血と縁遠い体で良かったと思う)

献血していると人の役に立っている感じがして何となくほっとした。

お菓子やちょっとしたものも貰えるし、定期的に献血する10代は珍しがられるので思う存分よくしてもらった。献血に定期的に行く人は分かると思う。

それでも父親から言わせてみれば「もっと抜いてもらえばいいのに」と茶化されて過ごした。

そんな調子で常に茶化し気味の役立たず認定をされていたあの時の私にとって、献血はある種自分の血液とささやかな自己肯定感の交換の場所であったような気がする。

それでも薬を飲み始めると献血に行けなくなり、臓器提供意思カードもくたびれてしまって破棄し、仕方ないと思いながらしばらく過ごしていた。

そんな折、先日久しぶりに市役所に行くと臓器提供意思カードのパンフレットがあった。

「そうだ、臓器提供意思カード作り直そう」

京都行くみたいなテンションでその日のうちに申請し、今日正式に綺麗なカードが届いた。

で、本登録していたらまた思い出した。

これってそもそもそういうためのものだっけ

自分の自己肯定感などというそんな個人的かつ人からすればわりとどうでも良いもののために人って献血したり臓器渡すものでしたっけ?

最近献血行ってきましたレポ漫画を頻繁に見ているので、余計にそんなことを考えてしまう。

けれど人は何のメリットのないことなどいきものだ。

些細ながらお菓子や人からの感謝のために人は献血したり臓器提供の意思を示したりするんだろうか。

正しさとか倫理観以前に提供された血液や臓器で生き延びている人がいて、そういう人にとっては私という一人の感情的葛藤は生きたいという欲求の前では無益なのかもしれない。

ただそういうものでしたっけ、というちょっとした問いかけである。



そういや骨髄バンク登録してねえからいつかしたいんだよな……。