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30年ぶりに観たイタリア映画『イル・ポスティーノ』に泣く
仕事で俳句・短歌・川柳の欄を引き継ぐことになり、はや数か月が経つが、未だ慣れない。私も物書きを目指す端くれ。古来から続く詩の世界に触れられる好奇心はある。大御所先生に「不勉強なので教えてください」的なメールを打つが、今のところ、知識のない私ごときに時間を割いて教えてくれることはなく、胃を痛める日々。俳句や短歌の面白さを味わうどころではなく、進行することで精いっぱい。
加えて人間関係を含む仕事のあれやこれやでストレスがたまって神経性胃炎のようになり、疲れも重なり、顔面がひきつるようになった。心が悲鳴を上げている合図だ。
木曜日。辛さから逃げたく早々に退社し、足はなぜか映画館に向かっていた。終わらぬ雑事に縛られる日々、予定外の行動などほぼすることはないのに、この時は本当に「なぜか」だった。
一応、映画は前々からチェックしていた。イタリア映画『イル・ポスティーノ』。
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昔、劇場で4回ぐらい繰り返し見た映画がデジタルリマスター上映するというので「おっ、懐かしい。また観ようかな」ぐらいは思っていた。ストレスが自然と足を映画館に向かわせた。
12月の夜の恵比寿ガーデンプレイスは閑散としていたけれど、クリスマス恒例のバカラのシャンデリアの周りには、カップルであふれていた。
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なぜ当時の私は『イル・ポスティーノ』を4回も観たのか。
調べたら、本作は1996年公開。1995年のアカデミー賞で作品賞を含む5部門にノミネートされ(作曲賞を受賞)、日本でもヒットした。
私の1996年といえば大学を卒業し、就職した年だ。氷河期でなかなか就職が決まらず、やっと入った出版社では飛び込み営業をさせられ、理不尽を感じる間もなく、社会に馴染もうと必死だったあの日々は今でも忘れられない。
本作はナポリ沖合の小島が舞台。私の卒業旅行はナポリとローマ、フィレンツェだった。初の海外で、イタリア人の文通相手と現地ナポリで会った。彼の通うナポリ東洋大学には日本語学科がある(ジローラモさんはここの出身だ)。日本語を学ぶ文通相手やその友達と日本語で話し、ナポリの町を案内してもらい、それはそれは楽しかった。
社会の荒波に足を踏み入れてしまい、もう後戻りはできない。22歳の女が長い有休を取って再びナポリに行ける日など早々ない。かけがえのない美しい日々は二度と帰ってこない。……胃液がせりあがるような日々の中、そんなお先真っ暗な閉塞感が私を4度もあの映画に向かわせたのかもしれない。
あれから約30年。
ナポリの友人も、イタリア熱も遠く過ぎ去り、あれから私は転職を繰り返し、結婚し、離婚し、また結婚し、小説新人賞の応募を8年ほど続けたが今は停滞し、今や親の介護のことで夫の実家の包括地域センターを調べたりしている。職場は理不尽の連続で、50を過ぎてから引き継いだ担当欄もうまく行かず、顔面はひきつっている。顔と手の皺が増えた。
映画館は三分の一ほどの入り。スクリーンが暗転し、ルイス・エンリケス・バカロフの哀愁漂う旋律が始まった。全編に通底するこのテーマ曲だけは覚えていた。心に染み入る。
これは立場を違えた二人の物語。祖国から亡命してきて、ナポリ沖の小島で妻と静かに暮らすチリの高名な詩人パブロ・ネルーダ(「ニュー・シネマ・パラダイス」のフィリップ・ノワレ)と、島で老いた漁師の父とつつましく暮らしていたが、郵便配達人としてネルーダのもとに手紙を送り届けることになったマリオ(マッシモ・トロイージ)。
世界中からのファンレターをネルーダに届け、彼の詩集を読むようになってから、マリオは少しずつ言葉の持つ力に魅せられていく。ネルーダも、初めは遠慮がちに、恋をしてからは激しく自分に「言葉の力」「詩の魔力」について教えを乞うてくる純朴なマリオに心を開き、二人は友情を育むようになる。ネルーダは詩について教え、彼の恋を後押しする。
貧しい漁村で寡黙な漁師ばかりに囲まれて育ったマリオは詩の世界に魅入られるばかりでなく、言葉を知らないままでいることの怖さ、知識を持つことで得られる可能性も知っていき、共産主義に傾倒していく。やがて二人に別れが訪れ、そして……という物語。
私はフィリップ・ノワレが出ていたことも、特に二人が別れた後半、あのような筋をたどり、あのような結末を迎えることも、覚えていなかった。4回も観た大好きな映画だったのに。
強く心打たれたのは、マリオがネルーダに詩について教えを乞うシーンの数々だった。内気なマリオ、さすがに世界の大詩人に詩について質問することの無礼さは知っている。だから最初はせいぜい、買った詩集にサインをねだるぐらいしかできない。それが「『いんゆ』とは何ですか?」「隠喩というのは…」など、言葉の世界をおずおずと、やがて大胆に聞いてゆき、比例するように彼の「世界」が広がってゆく。口ずさんだ言葉を「それが詩だ!」と詩人に言われた時、彼の世界は広がった。
今、大御所先生に教えを乞おうと必死な自分とマリオが重なって、私は泣いた。
知りたいと願えば、できる。知れば、広がる。
ラスト、詩人は自分が彼に「言葉の力」を授けたことで彼はこのような結末をたどってしまったのかと、かつて二人で語り合った海岸の波を見つめて途方に暮れる。言葉は人を自由にしてくれる、しかし危険も併せ持つ。知っていたのに改めて突き付けられたような、彼の顔。
哀しいが、何と秀逸なラスト。
「言葉」を巡って二人の男が変わっていく様に、そして美しい旋律、美しい島の情景に私は魅入り、映画館に駆け込む前のこわばった気持ちはいつの間にか消えていた。そして、思った。ナポリの友は今、元気でやっているかな。ナポリにまた行きたいな。
約30年ぶりに同じ映画を観ることで、私は私が変化していることを知った。その変化に私は満足し、勇気を得、映画の持つ力をかみしめた。30年前の私より、今の私は「言葉」について知っている。これからも知ることができる。
マリオ役で脚色も務めたマッシモ・トロイージは撮影当時心臓の病気を抱えており、クランクアップから12時間後に亡くなったという。彼が命を懸けて作った映画は30年後の人間に30年前を思い出させ、新たな感動を与えてくれる。そして日常の雑事や理不尽をいっとき忘れさせるどころか、別世界に連れて行ってくれる。この日の私のように。
映画とはそのような力がある。
※東京ではほぼ終わってしまったけど、各地でまだやっているみたいです。おすすめです。