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そもそも、どうして書いて公開するんだろう

ぽつぽつと、自分が観た映画や読んだ漫画について感想を書くようになった。
自分で感想を書くようになると、同じ作品についての他人の感想が気になる。
(おすすめ記事として出てくるし)

そうすると、「私が思ったこと、大体誰かに書かれてんじゃん」と思ってしまう瞬間がある。全部一緒なわけではないけど、私よりもまとまっているし面白い記事がたくさんある。
今日は『燃えよ剣』の感想記事に「わかるわかる!」と思っていいねボタンをたくさん押したけれど、テンションが上がると同時にどこどなくどんよりとした気持ちになった。「もう別に私が書かなくても良くない?」と「私も他の人が読んで面白いものを書きたいよ〜〜悔しいよ〜〜」が同時にやってきたらしい。

そしてふと浮かんできたのが「そもそもなんで私は書きたいんだろう」という疑問。
書くという行為自体が自分にとって楽しいから、と答えてきたけれど、本当にそうだろうか?正直今も日付が変わる直前にこの記事を書いていて今日中にアップできるかが怪しくて焦っているし(間に合いませんでした!)、お酒を飲んだ日なんか何も書かずにただ寝てしまいたい。でも私は書かないと不安になる。
もちろん書くことが楽しくないわけではないが、楽しいだけではない。面倒だし書くことが何も思いつかなくてつらいときだってある。でもたった一つ確実なことは書いていないと不安ということだ。

自分が不安な時は、自分に何が起きているかがわからなくなったときが多い。涙が出るけどなぜ出るのかがわからない、とか、なんとなく嬉しいけどなぜ嬉しいかがわからない、とか。
だから自分にとって「書く」ということは思考の整理整頓としての役割が大きかった。そしてそれは人に見せるためのものではなく、あくまでも自分が使うためのものである。公開して他人に読んでもらう必要は本来ないもの。
でも私は自分の思考から生まれた文章を他人が読めるような場所に置いておきたいと感じている。それは多分「なんかもったいない」からではないか?

私は誰に見せるわけでもない文章を数年書いていた。スマホのメモ帳を読み返すと、元恋人にひどく惨めな振られ方をしたときの感情や、教授の講評に対して本当は言い返したかったことが、文章にはなっていないものの率直な言葉で書き連ねられていた。それらは偶然そのメモ帳を開くまですっかり忘れ去っていた出来事であり、感情や思考の積み重ねだった。
人は忘れる生き物だし、自分は輪をかけて人よりも物忘れが激しい。こんなに毎日色々なことを感じているのに、書かなければ忘れられてゆくのは、もったいない。その場にいた人やもののことを忘れてしまうのはとても悲しい。だから私は事実や解釈や感情を整理し、記録するためにものを書く。
そして、誰かに読んでもらわないと、その記録は残りづらい。だから公開して「あわよくば記憶の片隅にお邪魔させてください」の気持ちで、誰かに読んでほしいと思っている。もしも何かのはずみでその文章そのものが消えてしまったとしても、誰かの記憶に残っていたらいいな、と思う。ひと様に対して勝手にバックアップ的な役割を期待してしまっているようでそれはちょっとすみません。

私は、整理と、記録のためにものを書く。そして他人に読んでもらって、記録の強度を増すために書いたものを公開したい。らしい。
うん、そしたらやっぱり自分でものを書くしかないし、それは公開していかなければならないみたいです。

まだまだ他の人に楽しんでもらえるような文章にはたどり着けないけれど、多分それは「自分が感じたこと」の解像度が低すぎるからというのも理由の一つだと思う。だから、取り上げた場面が同じというだけで「同じことが書いてあるなあ」という現象が起きてしまう。まだまだ自分の心の動きを拾い切れていない。精進あるのみです。

#1ヶ月書くチャレンジ 『今日1日にあったモヤッとしたこと』

今日のカバー写真は朝ごはんに食べたシャケです。うまい。





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