「話を聞くこと」と「撮ること」の隙間から 大竹昭子×インベカヲリ★ 後編
写っている女性たちの背景がテキストで収められたインベカヲリ★の写真集『理想の猫じゃない』と『ふあふあの隙間』。
2018年10月に「ふあふあの隙間」展(ニコンプラザ東京「THE GALLERY」)会場にて行われた大竹昭子とインベカヲリ★両者の対話を通して、「撮る前に話を聞く」ということの意味を掘り下げる。前回からの続きとなる後編!
カメラで変わるもの
大竹 今回はじめてデジタルカメラを使ったそうですが、そのことはどうでした?アナログとは撮るときの意識状態が変わると思うんですけど。
インベ まず間がちがいますね。ささっとシャッターが切れてしまうし、外や雑音のなかで切ると被写体の人にシャッター音が聞えなくて、いつ撮られているかもわからないんです。それとフィルム・チェンジの間がないです。それまではペンタックス67という重いカメラを使ってたんですけど、シャッター音がでかいし、レンズもでかいしで、わたしがカメラをのぞくと相手の人はわたしの目が見えて見交わしているような感じがするって言うんです。通行人とかも、なんかすごいことをやっているなあという雰囲気で。
大竹 現場がドラマチックになるわけだ。
インベ そうなんです。でもデジカメだと観光客とあんまり変わらなくて、ちょっといいカメラで記念写真を撮っているという感じになって、だから緊張感がまったくちがうんです。その感覚に慣れるのに時間がかかりましたね。女性たちのこの心理的な部分を拾い上げて撮影しようという頭でいるのに、それが写るようにするにはどうしたらいいかがつかめなくて、夏くらいまでは手応えがなくて、カメラを自分のものに出来ずに苦戦していたんですけど、夏以降に突然、慣れてきた感じでした。
写真集『ふあふあの隙間①』(2018)より
大竹 相手の反応にも差がでるでしょう。
インベ たまにカメラを両方もっていくときもあったんです。そういうときは、フィルムカメラに持ち替えたとたん、私がなかなかシャッターを押さずにずっとのぞき込んだまま止っていると、相手もだんだん緊張感がでてきて。その間というのは、本当に持ち替えた瞬間に変わりますね。その空気を保ったまま、デジカメに持ち替えたりとか、試行錯誤しましたね。
大竹 デジカメは扱いやすいし相手もガードを解きやすいけれど、日常の延長になって緊張感をもちにくいのかもしれないですね。
インベ そう、日常の時間と、撮られているときの時間に差がなくなるんです。
大竹 インベさんの作品は日常と非日常の落差を表出させることがポイントなので、デジカメをどう使いこなすかの実験にこれから入っていくでしょうね。
インベ いまふと思ったんですけど、デジカメだと相手に動いてもらうことが多かったかもしれないですね。その場でなんかやってて、と頼んで、それを私がタイミングが来るまでじっと見ているというか、その場の空気に没頭してもらい、それを外側から観察するというやり方に変わったかもしれないですね。
大竹 動画に近い感じでしょうか。それとデジタルは暗くても写りますよね。私ははじめぎょっとしたけど、その点はどう?
インベ そうなんです。夜の絵はこれまでそんなになかったけど、照明も三脚も使わずにさくさくと撮れてしまうので、こんなに楽に撮れるなら時間を問わないでいいなと。それにわたしのところに来る女の子たちは夜型が多いんです。夜と昼って気分が変わるから、そういう意味では彼らには夜の撮影のほうが合っていると思います。あと曇りの日とか雨の日とか、これまで撮影に向かなった日が適してくるというか。
写真集『ふあふあの隙間①』(2018)より
写真集『ふあふあの隙間②』(2018)より
写真集『ふあふあの隙間③』(2018)より
自意識から自由になる写真装置の不思議さ
大竹 モデルの人がその後の変化を報告してくることはあるんでしょうか?
インベ みんな何かがあったときに応募してくることが多いんですけど、生きるスピードが速くて、あのときにこう言ったけどいまはこう思ってますとか、撮影のあと心境が変わってこれをする決意ができましたとか、撮影がきっかけで何かしら変化が生じることが多いみたいです。
大竹 だから、やっぱり写真は出来事を生みだすんですよね。事を起こし、人生にハプニングをもたらす。それによってインベさん自身にも変化が生まれそうです。
展示「ふあふあの隙間」at THE GALLERY(2018年10月)より
インベ 私ははじめ自分のポートレートを撮ってたんです。出したくても出せないことや、主張したいことをいかに発散するかという意識が強くて撮っていたので、モデルを撮るようになってからもその人に自分の気持ちを入れ込む比率が高かったけど、だんだと大人になるにつれて自分のことより他者の人生のほうがおもしろいと好奇心の方向が変わってきて、いまは相手の人生にフォーカスするようになっています。
大竹 ひとり遊びがそのように他者との出会いに発展したんですね。
インベさんの仕事を見ていると写真を超えたものに向かっているというか、写真が最終地点ではないような感じを受けるのですが、自分ではどう感じていますか。
インベ 私は文章も書くんですけど、写真に軸をおいたほうが自分ではしっくりくるんですね。見た人がそれぞれに感じればいいという”投げっぱなし感”があります。
大竹 ”投げっぱなし”がいい?
インベ いちばん表現方法としてやりやすいし、すっと違和感なくできるんです。言葉の場合はひとつちがうとまったく見え方が変わってしまってハードルが高いです。
大竹 いま写真と文章を同時に手がけている人が増えていますけれど、自意識は写真家のほうにあることが多いんですよ。インベさんもそのお一人だけど、どうしてなんでしょうね。
インベ 言葉だと自分の頭のなかにあるものに追いつけない、いくらやってもまだだ、という感じが強いけど、写真はこれくらいならOKだというのが見えやすいです。
大竹 手放しやすいってことですか?
インベ そうです。
大竹 書きたいことに達していないと思ってしまうのは自意識の作用ですよね。でも写真にはそういう自己規制を外してくれる一面があるのかもしれないですね。被写体にとってもそうで、カメラの前にたつと自問自答してがんじがらめになっている自分がすっとほどける。これは絵画にも言葉にもない写真装置の不思議さです。写真をつづけている人はどこかこの写真のキモを掴んでいて、自意識から自由になる歓びを知っているのだと思います。
現代は一言でいえば生きにくい時代です。いや、生きやすい時代なんてどこにもなくて現時点から過去を眺めてそう感じるだけなんですけど、それにしても過去の生きにくさは五体をもった生き物らしい苦しみだったけど、現代は身体は楽しているけど心が苦しいというか、人間らしく苦しめない時代ですよね。そういう苦渋から踏み出させてくれるのが写真かもしれません。目の前のものを受け入れなければ成り立たない受容のメデイアですから。
展示「ふあふあの隙間」at THE GALLERY(2018年10月)より
大竹 最後にタイトルの付け方についてお聞きしたいのですが、『やっぱ月帰るわ、私。』もそうですけど、インベさんはタイトルの付け方が独特です。あとがきによると、『理想の猫じゃない』は新聞記事からインスピレーションを受けたそうですね。
インベ 北九州で臨時教職員をしていた男がつぎつぎと猫を殺して書類送検されたという記事がでていて、その男の言い分が理想の猫じゃないから殺したと言うんですね。呼んだらすぐに来るとか、体を触らせるとか、トイレを覚えるとかするのが理想の猫だけど、そうじゃない猫ばかりだというので飼ってはつぎつぎに殺して燃えるゴミにだしていたんです。このニュースを知ったとき、彼には彼の叫びがあるというか、表現と紙一重だなと思って。言葉にならない気持ち、症状とも言えるものがひとつの行動になり、それが「理想の猫じゃない」という一言にばんと現れ出ていると直感して、これは私の写真に関係あるぞと思ってずっと気になってました。
大竹 ふつうだとアタマがおかしいで終わってしまうけど、男の放った一言に彼の「表現」を見たわけですね。
インベ 理想の猫というのはいないわけですよね、犬なら別ですけど。意のままにならない生き物に理想を求めるという矛盾、本来ないものを追い求めつづけているさまにひっかかったような気がします。そこにこの社会の歪みと通じるものがありそうだと。
大竹 私もどんな凄惨な事件でもどこかでわかる感じがあるんです。自分の内部にあるものや、社会に蠢いている無意識が表出しているような。だからときに犯罪者の放つ一言が生々しく感じられたりもするんですが、「理想の猫じゃない」はまさにそんな言葉ですね。
写真集『理想の猫じゃない』(2018)より
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大竹 そろそろ終わりの時間が近づいてきました。最後に会場から質問があればお受けします。
質問者 モデルは女性の方ばかりですが、これまでに男性から応募があり撮影にまで発展したことはあったでしょうか?
インベ はじめの頃は男性も受けてたんですけど、ちがうと感じてきて。男性の場合は動機がはっきりしてるんです。写真をやっているので勉強のためとか、俳優を目指しているので撮られるのに慣れたいとか。
大竹 社会的な動機ですか。
インベ そうなんです。でも女性の場合は、もっと理由がはっきりしないけど写真に撮られたいという抽象的な動機なんです。
大竹 衝動が先行するわけですね。
インベ だから女性だと掘り下げようとすると深く入っていけるんですけど、男性の場合は見せたいものだけを見せられる感じがあって深まらないんです。このちがいに気づくと自分が撮りたいの女性のほうだなと思って、いまは女性に限定しています。でも最近になって私の撮り方を知った上で撮ってほしいと言ってくる男性もいるんです。でも私にとって彼らは異性だから、思いもよらない部分を掘り下げることがどこまで出来るか自信がないし、自分が女なのでそこまで知りたくないという気持ちもあって。
大竹 ヴェールに包んでおきたい……。
インベ 女性の話してくれることはどれも自分の通ってきた途だから軽く受け止められる感じがするんです。この過酷さは喜劇でもあるなとか、人間って行き過ぎると笑えるよね、と共感できるところがあるのでさっと拾い上げられるけど、男性の場合は自分の人生では経験したことのない領域に踏み込んでいきそうでためらいますね。
大竹 なるほど。非常に深い話です。
質問者 たて続けに聞いて恐縮ですが、お話しを伺っていると男女がはっきり区分されるような気がしてくるんですけど、その境界線上に立っている人もいると思うんです。つまり女性なのに話しを聞いてみると男みたいにつまらなかったとか。そういう経験ってないですか?
インベ 私がいちばん撮りづらいなと感じるのは、自分に嘘をつくタイプの嘘つきです。あきらかに話に矛盾点があって、本心は違うところにあるのではないかと思ったりすると、どう写真に撮ればいいかわからなくなります。彼女が言うのと私が想像するのとどっちもちがうという感じがするから。同じ人から時間がたってもう一度会ってくださいと言われて撮ってみることもあるけど、やっぱりうまくいかないんです。それはほんとうに不思議で。話がおもしろくてわっと感動してこれだ!と思いついて撮るときはいいものが撮れるんです。だから本人がどこまで語るかと、いい写真ができるかは、かなり比例してます。
大竹 互いのもっているものがスパークするんですね。すると、エネルギーが絶頂に達っしていいものが生まれるんです。だからどんな事柄もエネルギー交換の原理なんですね。今日はどうもありがとうございました。
(「ふあふあの隙間」展 THE GALLERY トークショー
大竹昭子 × インベカヲリ★ 2018年10月10日)
「話を聞くこと」と「撮ること」の隙間から 大竹昭子×インベカヲリ★
前編はこちらから
プロフィール
大竹昭子(おおたけ・あきこ)
1980年代初頭にニューヨークに滞在、文章を書きはじめる。小説、エッセイ、批評など、ジャンルを横断して執筆。著書に『図鑑少年』『随時見学可』『間取りと妄想』『須賀敦子の旅路』『東京凸凹散歩』など多数。写真関係の著書には『彼らが写真を手にした切実さを』『ニューヨー ク1980』『この写真がすごい』『出来事と写真』(共著)などがある。2007年より都内の古書店で多様なジャンルのゲストとトークする〈カタリココ〉を開催している。また東日本大震災後、ことばをもちよるトークイベント〈ことばのポトラック〉を継続中。2019年にはカタリココ文庫を創刊し、〈カタリココ〉〈ことばのポトラック〉などのトークを活字化した「対談シリーズ」と、エッセイ・小説・評論の枠を越えた表現を収録する「散文シリーズ」を刊行している。新刊に『五感巡礼』(カタリココ文庫)。
インベカヲリ★
1980年、東京都生まれ。写真家。ノンフィクションライター。第43回伊奈信男賞。2019年日本写真協会賞新人賞。写真集に『やっぱ月帰るわ、私。』『理想の猫じゃない』『ふあふあの隙間』①②③(共に、赤々舎 刊)など。『週刊読書人』『シモーヌ』にて連載中。
2021年2月24日(水)から3月9日(火)まで、赤坂のバー「山崎文庫」(港区赤坂6-13-6赤坂キャステール102)で展示を予定。
大竹昭子『五感巡礼』(2021年 1月23日 発売 新刊) はこちらから
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