武装する権利とミリタリ趣味:創作のための戦訓講義62
事例概要
パナマ爺
※パナマで「環境活動家」を弁護士が射殺したという事件があった。ネットでは「環境活動家」は殺していい存在なので射殺したクソジジイがヒーロー扱いされるという有様に。
※そもそもパナマの大規模抗議は鉱山に関する政府の不正などに対するもの。欧州における環境保護関連の活動とは文脈が違うようだ。
※第一、「環境活動家」だったら殺していいわけないだろ馬鹿か。
武装する権利
個人見解
以前noteで銃規制に関する話も載せたが、それにつなげる形で。アメリカにおける武装する権利は権利章典によって明記されており、これが有名な憲法修正第二条になるわけだ。第四条が不当逮捕されないなど、警察の令状主義に関する記述。つまり警察に不当逮捕されない権利と同じレベルで、市民が武装する権利を認めているということである。そう考えると銃規制が難しいのも納得だ。
こうした社会で生きて武装することが当たり前に市民の権利として考えられているアメリカ人の感覚を、日本人が理解するのは難しい。むしろ日本出身のアメリカ在住者に求められるのは、その難しい感覚そのままに、突き放して相対化することじゃないだろうか。少なくとも、銃器関連雑誌に寄稿するにあたり、なんの留保もなくアメリカ人の感覚と自身を同化させるのは奇妙だ。銃に対する態度としても、ライターとしても批判性が薄い上に、単純につまらない。
パナマ爺とかいう人殺しのゴミについても同様で、彼の存在を無邪気に肯定する感覚は分からない。大抵の人間は撃ち殺す側ではなく撃ち殺される側のはずだからだ。自分たちは撃ち殺す側に立っていると思っているのか、それともまったく無関係の話題だと安穏としているだけなのか。
私はミリタリ趣味者であると同時にミステリ趣味者だ。このふたつの趣味は人の死を弄ぶ露悪性の高い趣味という点では共通している。いくら「戦争が好きなのではなく銃の見た目や機能美が好き」「人殺しが好きなのではなく不可思議な事件を論理的に解決するのが好き」と言ってみても、尊重されるべき個人の生命、それが奪われる様に大きく関わるもので遊んでいることに変わりはない。
だからか、私は常にそうした露悪的な趣味とどう付き合うべきかを考えている。どちらか片方なら開き直りや無知のふりという手もあったのかもしれないが、両方となるとそうもいかないわけだ。