呼ばれた気がしたけど、返事をしなくてよかった。【もう眠感想】
ちょっと時間がないので、本全体の感想というよりある文言への感想だけ書きます。
私は、「『死にたい病』を患っている人が存在することは間違いない。」という文言に一番驚いた。
存在することは間違いない?そんな、珍しい者を指すような、言い方。
それとも、珍しいの?
そんなことある?
だって、私は、みんなそう思って毎日生きてるんだと思っていた。
小学生のとき、ひとつ決めたことがあって。
それは、30才になったら死ぬってことだった。
どうして30歳なのかは分からないけれど、何かに書き残してあるわけでも、誰かに言い続けているわけでもないのに、かれこれ20年ほど経ったいまでもこの信条は変わらない。
つまり、タイムリミットがもう数年に迫っている。
それでも、生にしがみつきたい気持ちも特にないし、小学生にしては妥当な数字を示したなと感心さえしている。
別に幼少期になんらかの問題があったわけでもないし、今も別に苦痛を抱えて生きているわけじゃない。
むしろ恵まれた環境だと思う。
両親は健在で、家族仲も良い。姉弟そろって当たり前のように、私学のあほみたいに高い学費を親に出してもらって卒業した。
数年務めながら貯金をして、退職して、興味があった海外生活を送った。その間に一人旅で欧州をぶらぶら回った。貯金はパ~っと使い切ってきた。
帰国してからまた数年勤めて、別の興味のために転職して、また勉強したりしている。
職場はとても協力的で、シフトなんかもものすごく気を使ってくれる。優しい。
コロナで出来なくなってしまったけれど、友人と休みがあえば「そうだ、京都いこう」をまじでやる。しかも、来週は別の子と休み合うじゃん。「そうだ、台湾もいこう」もやった。
休みが合わなければ一人で行くこともあるし、家でごろごろ本を読んでいるのも好き。
隠れオタクだから、好きなソシャゲのイベントに毎回お祭り騒ぎをするし、雑誌に特集が載ると言われれば買いに走り、円盤が出れば店舗別の特典を見比べて口座と一人会議を開催する。
自由すぎるじゃん(笑)
でも、明日死んでもいいよって言われたらたぶん喜んで死ぬ。
交通量の多い道路で歩行者信号が青になるのを待っているとき、
電車が入ってくるホームに立っているとき、
「いま一歩踏み出せば死ねるかもしれない!」と気持ちが湧く。
いろいろな方面で勇気がなくて実行できたことはないけど。
そもそも、痛いのはいやだ。苦しいのもいやだ。
だから、一息に死ねる系がいい。
そうなると、電車が一番手軽そうだと思う。
高校生のころ通学に利用していた京浜東北線と東武東上線は大体毎月人身事故で遅延した。
みんな同じこと考えてるんだなって感じてた。
でも、電車は遺族にすごく迷惑がかかるらしいので除外。
事件性を疑われるほどの保険金が私にかかっているならまだしも。
それなら樹海?って考えると、「遠い…」って思う。舐めてる。
たぶんお菓子とかいっぱい持って行っちゃう。空腹に堪えて堪えて…とか無理。
じゃあ練炭からの一中、絞(吊)首、とかいろいろ考えてるうちにめんどくさくなっちゃう。
本気の人は、この面倒な計画を実行まで持っていける点で私よりも何億倍もすごい。尊敬する。「それだけ辛くて苦しんでいるのに不謹慎」っていうクソリプが来るだろう発言だけど、私が言ってるのはその負の根源を持たない「死にたい病」の仲間のことだから。でも不謹慎なのは分かっているので口に出したことはないです。当たり前だけど。
だから通り魔殺人とかで、「誰でもよかった」的なことを言う奴に殺された死にたくなかった人に自分が代われたらよかったのにと思う。犯人は希望が叶うし、私も死ねる。私の他に誰も(物理的には)傷つかない、私は死ぬ手段で誰かに迷惑かけない、私は死に場所や日程を細々と計画しなくてもいい、私は死んでも誰にも責められない。自殺とは大違い。すてきすぎる。
あえて書くと、学生のときにそれなりに病気もした。手術や放射線治療も何度か受けたし、なんなら五体満足ではない。でも別に、そんなことになる前からこの思考だったし、むしろ今の方が楽しく生きている。「明るくて元気」ってよく言われる。言われるたびに内心笑ってしまうけど。
そんな私が、ちゃんと感想文を書く時間はないけどこの感想文(仮)を書こうと思った理由は一つです。それは、「死にたい病」に対して私のことだ!と踊らされた心臓が、ある文言で瞬時に静止したからです。
この希少種らしい「死にたい病」の人に対する関わり方として、その人の人生の証人になってあげるという表現が、生理的にどうしても受け入れられませんでした。
いろいろな人に寄り添って、救いたいと願って、活動されていることには頭が上がりません。そのはたらきへの敬意はあります。素晴らしいことだと思います。
でも、申し訳ないのですが、無理でした。
「少なくとも、一人は生きていたことの証人がいる人生の方が少しはましじゃないかな」
全然ましじゃないんです。むしろ逆。
少なくとも私は、私が関わったすべての人に忘れられたい。存在したことさえなかったことにして欲しい。なににも影響しないでふっと消えたい。
他の「死にたい病」のひとがどうかは分からないけれど、私はこの発言を読んで、絶対に相談しに行かないな。と感じました。純粋に、率直に、敵だ、と認識したのです。
視野の外側とは言い得て妙でした。
視界の中、というよりかは直截的な人間関係や日常の中に、このスタンスの人が存在しないように生きてきたように思います。
誰にも必要とされたくないのです。
だから恋人も作らないし、子供が欲しいと思わないのかもしれません。
「30歳での死」を思いとどまらせる要因を上げるとすれば、両親や祖父母が健在なことです。子や孫に先立たれるのはきっと彼らを不幸と錯覚させるでしょうし、のちのち介護が必要になったときに兄弟に負担がかかります。
だから、親が死ぬまでは生きていなくちゃいけないかなぁとは思います。
もし、私のような感覚の「死にたい病」の人に安楽死を適応させるなら、執行猶予をつけるとなにか変わるのかなぁと書いていて感じました。「30歳で死ぬ」と決めた小学生の頃から、20余年、基本的な心情は変わらないけれど、もっと生きなくちゃなぁとは思えている。死にたい理由がこれといって存在しない「死にたい病」には、人間の伝家の宝刀、時間というクスリを処方しておくのも手かなぁと思うのです。それなりに役割や希望が現れて延期したい気分になる人もいるのではないでしょうか。平均寿命がどんどん延びる昨今、先が長すぎると感じて心を病んでしまうよりは、解放される手立てがあるという安心感を味方にしておくのも悪くはないと思います。逃げ道がないと苦しいです。
最後に、安楽死も自殺も肯定派ですが、それは私自身が早く死にたいからではないのであしからず。