物語は終わり、生活は続く
『ローマの休日』の終わり方が好きだ。
オードリー・ヘプバーン演じるアン王女が、グレゴリー・ペック演じるジョー・ブラッドレーと夢のような休日を過ごした後、記者会見の場でお互いの本当の姿で会う。
公の場で、周りの目があるため確信的なことは言わない2人だが、その表情やスマートな種明かし、スピーチ台本を少し外れた受け答えから、彼らが過ごした時間はお互い隠し事があったが、永遠に嘘ではないということを分かち合う姿がなんともいえない。
そしてエンディング。会見も終わり周りの記者もみんな帰っていく中、1人立ちすくむグレゴリー・ペック。言葉は何もない。ゆっくりと時間を使った後、出口の方へ一歩ずつ歩き出す。コツン、コツンと足音だけ響く。そして「THE END」の文字が出て、物語の幕が閉じるのだ。
今、文字で書いているだけでも美しい終わり方だ。映画で演技を見てもらえれば、なおのことである。見終わった後の心地よい余韻。静かにお別れした2人の「これからの生活」に思いを馳せる。
ここからは、私の妄想。アン王女はまた、式典に出席しては、挨拶をする日々に戻る。窮屈な毎日。でも、ジョーと過ごしたあの1日が彼女の宝物となり、揺るぎない決意の源となり、生活の支えになるのだ。一方ジョーは仕事に戻り、スクープは撮れなかったと上司に伝え、怒鳴られるだろう。だけど、あの狭いアパートに帰ってきたジョーは世紀の大スクープではなく、心の中だけの思い出と一緒に、少し口角を上げながら生きていくのではないだろうか。
こんなふうに妄想が止まらない。、『ローマの休日』は「118分の物語が終わった後も、登場人物たちの生活が続いている」という感覚があり、それが私がこの作品を愛してやまない理由の一つだと思う。
そこで私は、「物語の中で完結しすぎないものがあってもいい」ということを考えるようになった。
映画ではないが、Mr.childrenの「ロードムービー」という曲がある。この曲では2人の(おそらく)男女が登場する。しかし、この2人の関係性は曲の冒頭からエンディングまで、なにか前進するわけでもなく、かといって後退するわけでもない。時間と2人が乗るオートバイだけが、「とりあえず進んでいく」という内容になっている。
映画と同様、曲を作る時にも、起承転結を考えるのが定石だと思われるが、そうではないからこそ、この2人の生活は曲の中だけのものではなく、今もどこかで続いているような気持ちになる。
この、「登場人物たちが今日もどこかで生活している」という感覚は、今泉力哉監督の映画を見たときにも強く抱いたものだった。小説や劇作におけるテクニック・ルールのひとつに「チェーホフの銃」というものがある。
「チェーホフの銃」というのは簡単にいえば、「ストーリーに持ち込まれたものは、すべて後段の展開で使わなければならず、そうならないものはそもそも取り上げてはならないものだ」ということだ。しかし、今泉監督の映画では、このセオリーを裏切るようなことが多々あるように思われる。
例えば、『街の上で』という映画では、劇場の外でタバコを吸おうとするという、とりとめもないシーンで、意味ありげな(見ている私が勝手にそう思っただけ)女性が登場し、タバコをもらうシーンがある。この人が後にまた出てくるのかと思えば、それ以降は一切登場しないということがあった。
これを見たとき、今泉監督の作品の中では、登場人物たちは「物語をおし進めるための道具」ではなく、あくまで「そこに住んでいる人」でしかないということにハッとした。そして今泉監督の作品の、「普通に暮らしている人たちの生活を覗き見している感覚」というものにすごく納得できた気がした。
物語が終わっても、生活は続く。そんな作品を見れば、ひとりで過ごしている時間も、ひとりではないと少しだけ思う。