
終わらない日常を楽しんでる人たち
「気づいたら一年経ってた」
っていうセリフを意味もなく繰り返したい寒さになってきた。今年はコロナとかのせいで時間がするすると抜けていった感じがするけど、日めくりカレンダーは融通を利かせてくれない。頑固な奴め。
この季節になるといつも感じるのだけど、時間の蓄積って美しい。それが作ったものもそうだ。でもそれらがこんな無色透明な日常でできてると思うと、白けた気分になる。
無色透明な日常。
確か宮台真司はそれを「終わらない日常」とよんでた気がする。ふんわりと言語化するなら、「主人公的な目的は特になくて、でもそんなに不快というわけではなくて、ただそれなりの日々がエンドレスで続いてゆく現象」みたいな感じだろうか。彼はそんな日常をぬるっと乗りこなす人が出てきてるというようなことを2000年代に言ってたけど、今では周りの人の大半はそんな感じかもしれない。
この間カルチャーショック(本来は僕もそのカルチャーの形成要素の一人なはず)を受けたのだけれど、『こういうのがいい』というマンガがある。束縛は嫌で、でも人のぬくもりは欲しくて、性的には奔放というような男女二人が、ゲームを通して仲良くなって、、、というような様子を描いた、いわゆる日常系のマンガなのだけど、読んでるうちに妙な理由でちょっと感動してしまった。どういうことかというと、ここで描かれてる二人って、まさにさっき書いた、「終わらない日常をぬるっと乗りこなす人」だと思ったのだ。
じゃあ僕の方はどうなのかというと、正直に言って彼らは宇宙人にしか見えない。なんでだろう。僕、現役の高校生なんですけど。だからなんで理解できないのか考えてみた。
人間って(大きすぎる主語は偏見の元だけど
論文じゃないからいいよね)物語的なものが好きなんだと思う。たとえば最近流行ってる歴史の本で『一度読んだら絶対に忘れない世界史』というのがあるけど、その本は歴史を物語として書くことをモットーにしてる。
どういうことかというと、たとえば
「フランク王国はクローヴィスが建てたメロヴィング朝から始まったたんだけど、宮宰だったカール=マルテルが権力を持つようになって、その子供のピピンがメロヴィング朝を倒してカロリング朝を作ったんだとさ。続く」
というような感じだ(かなり改変)。そこには物語と同じく主役がいる。
でも世界史をもっと厳密に記述しようとしたら、
「フランスでメロヴィング朝が建てられた頃には、西ローマ帝国はオドアケルが支配してて、ビサンツ帝国はテオドシウス朝で、中国の北魏では均田法が採用されて、斉が起こって、日本は古墳時代で、ちょっと後にフランスではピピンがカロリング朝を建てて、、、」
というふうに共時的にするべきなんだけど、でもこれだと人間は理解できない。
長々と書いたけど、で、多分僕とかこれまでの人は人生そのものを物語的にしたい、主役になりたいと考えてるんじゃないだろうか。そこには目的が必要だし、そうなれば当然目的達成というエンディングが存在する。
一方で「乗りこなしてる人」っていうのは
物語欲を人生自体じゃなくて、漫画とかアニメ、あるいはゲームとかへの自己投射で満たせる人なんじゃないかと思っていて、技術の発達がそれを簡単にしたんじゃないかと思う(たとえばCGとか?)。
だから『ソードアートオンライン』とか『Ready Player Go』は象徴的だと思っていて、作中のような技術が完成したら、それはもっと簡単になるんじゃないだろうか。
環境に適応するのは人類の得意技できっと上に書いたような人はもっと増えていくと思う。
でも僕としてはそれは、カラフルな世界から無色透明な世界へと色落ちしてく過程に思われてならない。それが悪いことだとは全く思わないけど、なくなって行くものへのメランコリーは、ずっと付き纏ってくるんだろうな。