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”表現”するまでもない自己。

「3月31日までに記事を書くことで連続投稿を8か月に伸ばすことができます。今月もNoteを書いてみませんか?」

通知欄にこの文字列を見た時、(あっ…やってしまった……)と思ってしまいました。
日々時間が取れなかったり、書くことが思いつかなかったりする中でコツコツやってきたこの「Note」。
最近はそれなりにコンスタントに投稿していたのですが、連続投稿記録が7か月でストップしてしまいました。

↓なんか、過去の自分はちょくちょく「記事が書けない」ことを書いている記事を出していたようでしたので

更新が滞るのってどんなとき?について、一度それなりに考えておこうと思います。

最近悩ましかったのが、自分ってこういう場で思考や経験を世に放てるほど大したことしてきているのか?ということです。
自分が「Note」で思考や経験を綴ろうとするときに想起されるのが、過去に読んできた芸人さんなどの面白いエッセイ集…。
中学時代に、松本人志さんの「遺書」「松本」を読んだとき、こんな面白い話を書ける人がいるのかと衝撃を受けたことは記憶に新しく、自分もこんな面白い話を書けるようになりたいという想いは、今もなお心のどこかに持ち続けているのだと思います。
ただ、色んな方のエッセイなど読んでいくうちに、“話そのもの”に加えて、“その人自身の魅力・成果”なども加わるから、この話を面白く感じられるんだろうなということに気づきました。先述の「遺書」「松本」は、松本さんが「ごっつええ感じ」などで一時代を築いた頃に書かれたもので、お笑いなどに対する持論を多く扱っています。それも、松本さんが“お笑い芸人として一時代を築いた”という成果があるから、説得力や面白さが増すのだと思います。
勿論、一般人である自分がそんなレベルにまで上り詰めることは到底できませんが、にしても自分の日常や、それを話そうとする自分に自信を持てていないことは事実としてあるんだろうなと思います。
それなら別に自分自身のこと以外を書けばいいじゃんとも思いましたが、創作できるほど賢くはありませんでした。何書いているんだ自分、と冷めるのが先でした。

まあ、先述の通りただの一般人の自分が、こんな考え過ぎるのはどうなんだとは思いますが(笑)、周りを見ていると、こうした事情は結構多く当てはまるんじゃないかと感じています。
「Note」のホーム画面に出てくるオススメ記事。自分がフォローしていないアカウントの記事もよく表示されるのですが、これは絶対面白いから見てくれ!と言わんばかりの気迫溢れる見出しとヘッダー。まだアカウントのプロフを見ていないのに、自分はこういう者だというアピールの声が漏れ聞こえてくるようです。
時折流れてくる、イベントのフライヤー。メインゲストのプロフィールには、自らが主宰したイベントや過去のワークといった実績がずらりと、歴史の年表を思わすほどずらりと書き連ねられています。
各種SNS等の発展で、誰でも『自己表現』ができる時代になったとはよく言いますが、まずみんな『自己』のつくり込みがすごく周到な印象です。ありのままの『自己』を表現するというよりは、表現するために『自己』をつくり込んでいるイメージ。
そんな中で、『自己』に対して自信がないというのは、逆に武器になるというか、やりがいを感じられるかもしれないです。表現するまでもない『自己』を、どう表現していくか。これを考え抜いていくことに、今後自分が「Note」をやり込んでいける活路があるように感じています。

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