”友達”の”作り方”。
「友達はいますか?」
と聞かれると、ちょっと答えに詰まってしまいます。
そもそも、「友達」の定義って何ですか?という、ちょっとめんどくさい質問から入りたくなってしまいます。
なんとなく、友好の度合いに応じて呼び方が使い分けられると思っていて
辞書に載っている意味とは違うでしょうが、こんな風に呼び分けを意識することがあります。
なぜここまで細かく意識するかというと、個人的には“友人”だと思っていた人から“知人”程度にしか思われていないんだろうな、双方の関係の認識ズレに気づけないのって怖いな、と感じることがこれまでの人生の中でしばしばあったからです。距離感を弁える、と言うと多少は馴染みのある聞こえ方になりますでしょうか。
もともと、人付き合いは苦手…というか、頑張ってやってみるけど上手くいかないことのほうが多い人間でした。一番古い記憶は保育園の頃まで遡ります。自分と同じ地区から通っている同級生が1人、1つ上の先輩1人がいました。田舎の生まれでして、他の地区から通っている子を合わせても同級生は20人にも満たないという、小さなコミュニティの中でやっていかないといけませんでした。
同じ地区の3人組の中で、自分はよく除け者にされました。迎えが来るまでの待ち時間、遊戯室で遊んでいる中に混じろうとしたら「あっちいけ」って言われたり。小学校や中学校に通う時も、その3人で通学路が同じでしたが、同じような関係性が続きました。
他にも、同級生の間でも自分は少し浮いた存在だったと思います。放課後にみんなが一緒に遊びに行く中に混じれなかったことを覚えています。一緒に遊べたとしても、遊び方がよく分からない。同級生が嗜んでいたカードゲームやテレビゲームは、自分の家庭に無いものばかりでしたし、外に遊びに行ってもその地区の子たちのローカルルールみたいなものについていけない。
きっと、何かしら自分にも気に食われないところがあったからだと思うのですが、小学校や中学校の卒業時に「さみしい」と思う気持ちよりも、何かから「解放された」と思う気持ちが強くあったことを覚えています。自分は“友達”だと思って接しようとするけど、同級生や先輩からはそうは思われていなくて上手くいかない。それでもなんとか上手くやらないといけない…という、一種のプレッシャーもあったんだと思います。
とても古い頃の話で、当時の同級生たちといま会うぶんには何のしがらみも無いです。地元に戻った時にたまに連絡して、食事や飲みに行ったりできる“友達”…だと自分は思っています。
だから、大学時代はすごく気楽でした。クラスの概念は一応あったけど、基本的に自分が履修している授業の時だけ出る、というスタンスなので、クラスメイトと“友人”や“友達”として上手くやり続けないといけないというプレッシャーが無い。課題やレポートが大変な時は適宜協力し合える人もいました。協力し合う人、という関係性に対して相互の認識がズレていなかったから上手くいったのだと思います。
そんな中で、“友人”や“友達”と思える人がいたら関係性を深めていけばいい。上手くいかなくても、我々を縛る枠組みは無いから、リセットややり直しが効く。自然と人同士が寄り合える環境だったと思います。当時知り合った“友人”や“友達”とは今もその関係が変わらず続いている…と個人的には思っています。
一方で、大学の枠組みを越えて交友を築こうとした際には苦労がありました。主には、趣味が合う人同士との交友です。個人的には“友人”だと思って接していたけど、相手には“知人”としか思われていなかった…みたいなことが結構ありました。どこそこのイベントで会いましょうと約束していたのに、他の“友人”を見つけた途端に自分を置いてどこかに行かれちゃう、なんてことも記憶にあります。あぁ、自分がつまらない人間だからかな…と感じたり。これは大学を卒業して、社会に出た今もなお、自分の眼前に拡がっている光景です。
だから、日頃から関わりを増やして仲良くしようと頑張ってみるけど、それも結構カロリー使うんですよね。時には、こんなの自分のガラじゃないと思えるキャラを被って振る舞っていたこともあると思います。社会に出て、上司や同僚の好きな話題やテンションに合わせて交流をもつのが性に合わなかったから違うコミュニティに来たはずなのに、ここでも結局やることは一緒か…と思ったり。
そうやって頑張っていた、というか“無理していた”頃を振り返ると、これ本当に自分が送ったのかな?と違和感を覚えるリプライが結構あって、自分の抜け殻を見ているような気分です。
そんなこんなで、趣味が合う、という共通項があってとっつきやすい一方で、いち個人として仲良くすることが案外難しい印象です。
こんな感じで、ある種“もがく”ように過ごしてきた半生でしたが、自分が接したい人、あるいは接するべき人と仲良くしようと必死になる時期はもう終わって、自分を求めてくれる人に応えていければいい時期に入ったのかな…と、最近思うようになりました。
よく「友達を作りたい」なんて言葉を聞きますが、この言葉にすごく違和感を覚えます。“作る”と言うと、多少なりとも無理をする必要があって、形成できてもきわめて人為的で仮初めのもの、という印象を覚えます。そんな行為に対して“友達”という、きわめて友好の度合いが高い存在がくっついていることが違和感です。
冒頭の定義に倣って、“知人を作る”程度に言うならまだ分かります。ただ、“友達”ならばそんな風に無理して作れるものかな…?と個人的には思います。気づいたらそうなっていた人…というか、「作る」ものではなく、その存在に「気づく」ものだと思います。
勿論、多少なりとも無理する時期や場面は必要だとも思いますが、最終的に身近に残ってくれるのはそんな風に無理せずとも自分を求めてくれて、自分自身もそのことに誠実に応え続けられた人だけじゃないかと思います。
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…なんて話を、私の“友達”がしていました。
私自身も共感できることがあるなと思ったので、この場を使って共有いたします。