パパ、36歳、保育士アルバイト始めました。
こんにちは。
AKINORIです。
今回は私がなぜ保育士を目指そうと思ったのか、自分の人生を振り返ろうと思いnoteにしようと思います。
年末ってなんか総括したくなりますよね。
36歳から保育士になるなんて、新卒1年目の頃は夢にも思っていませんでした。
本当に人生って何があるかわかりませんね。
でも、自分のなかでは“やっと見つけられた”という
どこか安堵のような気持ちもあります。
年末お時間ある方で、少しでも興味が湧いたらこのまま読み進めてもらえると
嬉しいです。(4500字あります。)
近所の下の子と遊びまくった小学4、5年生
私は3人兄弟の末っ子で、自分にもどこか弟や妹が欲しいなぁと思っていました。
なので、近所の低学年の子と一緒に何か遊んだり面倒を見たりするというのは
全然苦ではなく楽しく過ごしていました。
この頃から「この子たちに何をしたら喜んでくれるかなぁ」と思いながら
遊んでいました。
今でも思い出に残っているエピソードがあります。
16:00に帰らないといけない近所の子がいました。
その子は時間の確認もせず
突然「あー、4:00過ぎてしまったー」と言い出しました。
遊んでいる場所はマンションの一角で、すぐに時計を確認できるところがありませんでした。
その子にとって4:00が過ぎてしまったような感覚になったのは
空の明るさで判断していました。(いかにも小学生らしいですよね笑)
私が、時計を確認しに行くと、3:45くらいでした。
みんなのことろに戻り、私から時間を伝えます。
私「残念!4:15だったわ。」
男の子「ほらやっぱりー。お母さんに怒られるー」
私「そしたら、今からあのタイムマシン(製鉄所の前にあった鉄できた棚枠)にみんなで乗って、4:00に戻ろう!」
男の子「戻れるの?」
私「うん!早く乗って!」
私「よし!シュッパーッッツ!!」
こんな感じで、4:00前に男の子をお家に帰すことができた嬉しい気持ちと
アイディアを瞬時に思いついた充実感が私の体のなかを駆け巡っていました。
小学生の頃、将来の夢は教師
小学校6年生になると、将来なりたい人について考えますよね。
小学校5,6年生の担任の先生がとても人格者で当時の私は教師になりたいと思いました。
私は勉強については全くダメダメの生徒で、学校は遊びに行くもの程度で
考えていましたが、それでも教師になりたいと思えたのは、先生の声がけが素敵だったからかもしれません。
一例ですが
いけないことをしたときは冷静にいけないと伝え
最後はその子の本来の良いところをさらっと伝え自分の自身を振り返させる。
学校に自分の居場所があると感じさせてくれるような先生で
同性というところもあり本当にカッコ良くうつってました。
“教師ってかっこいいなぁー!”
“自分もこんな風に人を勇気づけられる人になりたいなぁ。”
そんな風に漠然と考えていて、将来の夢は教師としていました。
三男坊として家業に生まれ
実家は卸酒屋を営んでおり、幼少期は商売する小売店の上が自宅になっていました。
そんな日常のなかで、高校にもなると将来について現実的に考えます。
この頃は頭の片隅にはまだ教師になりたい夢がありました。
一方で、いつか自分も家業を継ぐんじゃないかなぁと思いもありました。
ちなみに親は私が家を継ぐことに賛成も反対もしていませんでした。
三男として生まれたものあったのか、お前は自由に生きろ的な雰囲気でした。
ただ未熟な私は、家を継ぐことを決めたら両親や祖父母は喜んでくれるだろうなぁと誰かの人生の希望を歩もうとしていました。
この時期くらいから
頭の半分は自分は教師(教育者)になりたい。
もう半分は、ゆくゆくは実家に入り商売をしていくんだ。
と心が揺れ動く人生が始まりました。
大学の進学先は経済学部
商売を学ぶんだ!そのためには世の中を知らないとな。
そうだ経営学や経済学を学んだら良いのかな。
そんな思いで経済学部に進学しました。
もともと世の中がどんな風に成り立っているのか興味があったので
マクロ経済やミクロ経済、金利政策や財政政策、マーケティング理論などは
大変勉強になりました。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
良かったら、箸休めに受験体験記もご覧ください。
新卒1年で退職、家業へ
新卒は商売を学べる、経営マインドを学べると謳っていた大手小売店へ。
もともと家業を身近にみてきた私からすると、2−3歳上の上司の言葉なんて全く耳に入ってこない日々が続きました。当時の私は、相当生意気な発言はするけど、実務経験が浅いので誰にも信用されないのです。当然です笑
この年になって、もし当時の私に声をかけるのであれば
「もっとうまくやりなさいな。」と一言です。
それと「お前の考えは一旦横に置いて、まずは感謝を伝えろ」です笑
生意気すぎる私は、自分で自分を追い込み、体力を消耗させ、メンタルを崩壊させていきました。当時の上司の考えや性格、気質などを一切考えず、自分は自分相手は相手みたいな、未熟すぎる考え故に、周りに敵を作りまくり、自滅していきました。
相手を知り、己を知 れば百戦危うからず じゃないですが、結局相手と自分を知らない限り上手くたち振る舞えないということはここ最近です恥
しかしこの“1年で退職”という実績は、私のハングリー精神に火がつき、家業では絶対にやりきってみせる、成功するまでやり続けてやる!という大きな原動力にもなりました。
結婚&第1子の誕生で激変する仕事観
家業に入り5年半ほど、新規事業もやっと軌道に乗りこれから!というときに
第1子が誕生。
ここから私の仕事観が大きく変わります。
幼少期から、家業ということもあり常に両親はいましたが、どこか遠い存在でした。家族で同じ思い出を共有するなどの記憶は少しあるくらいで、ほとんどありませんでした。
どこか寂しい思いはずっと持ち続けていたのもあり、第一子誕生を機に、私は仕事よりも家族と一緒に過ごす時間を大切にしたいと思い始めていました。
また当日の家業の働き方だと、それも現実的に厳しいと判断し、家業から離れる決断をしました。
まわってきた教師(教育者)の道
30歳を節目に、自分のやりたかったことができるチャンスが回ってきました。
本当に人生何があるかわかりませんね。
英語塾のスクールマネージャーとして転職しここから教育業界へ入っていきます。
この頃私の教育観は、大学受験を経て、アップデードされていました。
大学受験を通じて、学ぶことの楽しさをとても味わえました。
“知らないことを学ぶってなんて面白いことなんだろう”と思っていました。
ただこれもすぐに得られた感覚ではなく、おそらく勉強に向き合えたからこそ
得られた感覚なのかなと思っています。
子どもたちに勉強する楽しさ、学びが広がる面白さを感じ、その子の持っている可能性を引き出してあげたい。サポートしたい!
そんな教育観を持って仕事をしていました。
塾はあくまでも塾屋であること
しかし、ここで壁にぶち当たります。
塾というのはあくまでも商売であり、利益を追求していく民間企業であること。
これは至極当然の話ですが、私が大切にしたい教育観というものとズレてきます。
というよりも働いているうちに、私が大切にしたい教育観というものの、解像度が上がってきたからなのかもしれません。
それに加えて、子どもたちや親御さんとのカウンセリングを通じてみえてきたことは学びに向かう姿勢や基礎が極めて低いことでした。
具体的には、学びに対しての意欲や関心が圧倒的に少ないのです。
ここに塾屋のやりがいというものがあると思いますが
残念ながら私には、全く関心のないところから関心を持たせてあげるということに、やりがいを見い出せませんでした。
なので、ここでもすんごいモヤモヤしました。
意欲や関心が低い子をモチベートするには時間がかかります。
時間がかかるということはお金もかかります。
しかし、私が勤めていたところは、塾に来る子は時間もなければ、お金をあまりかけたくない親御さんも少なくなかったです。それと塾側の都合もありますので、だんだんと私が思い描く教育観を塾で発揮することは難しいと感じ始めていました。
突然始まった海外での1年間の専業主夫生活
ここでまた転機が訪れます。
妻の会社側の都合で1年間の海外駐在が決まったのです。
場所はタイのバンコクです。
ここで私の教育観が綺麗に縁取られました。
1年間娘と一緒に過ごす中でやってきたことこそが、私がずっとやりたかったことでした。
具体的には
・娘のやりたいを最大限に尊重し、その環境を親が用意してあげること
・娘の疑問に対して向き合い、一緒に調べて、考えること
・新天地で不安な環境に対して、自宅が心理的安全を感じれる場所にすること
こういったことが整い、海外でも娘の意欲がポジティブでいられ続けたのかなと
今振り返って思います。
私の勝手な感覚ですが、子どものこの1年が、向こう3年くらいの人格形成の土台を作っているような感覚になりました。
“そうなんだよ、小学生からじゃ遅いんだよ。”
“学びが楽しいということは未就学児から始まっているんだよ。”
と強く確信がもてた1年でした。
それと東南アジアのタイという海外生活が、愛国心を再認識できた良い機会になりました。
タイは自動車やバイクが生活の根幹となっています。1台あれば仕事ができます。トヨタ、ホンダ、スズキと日本の自動車メーカーがガンガン走っています。
自国の製品が街で走っているのを見られると、誇らしいですよ。
旅行とは少し違い、現地に移住すると日本製が本当に恋しくなります。また関税の関係で少し割高になります。ダイソーの商品がデフォで200円とか。
ただ、現地では日本製というだけで質が担保されていることにも
驚きと同時に誇らしさも感じさせてくれます。
ちなみに私は現地の人に「日本製は間違いない、技術は世界トップクラスだ」と
何度も言われました。
今もこうして海外駐在などで、現地の生産ラインを管理している
日本企業の方々(もやは戦士です。)には頭が上がりません。
日本って本当に技術大国であり、良いものを作り上げることに
長けている国なんだなぁと思わされました。
日本にいるとこの感覚は、なかなか味わえませんが、若い子たちには世界を自分の目で見て欲しいなとつくづく思います。
帰国後、これからの人生について
振り返ると、私の人生ここまで、どの時期も通るべくして通ってきたな
と感じます。
90年代『ジャパン アズ ナンバーワン』と言われたように、もう一度世界で
日の丸の存在意義を出していきたいと個人的に強く思っています。
日本民族に強い思いやりが、DNAレベルで刻まれているからこそ
ここまでの技術大国になれたのだと勝手に思っています。
ものづくりは人づくりから。国づくりは人づくりから。
私はこれからの人生、人づくりに人生を賭けたいと思いました。
帰国後は妻がフルタイム、私がパートと仕事形態が令和っぽい感じですが
身近な人を一番に大切にしながら、これから日本社会に自分のできる範囲で貢献していきたいと思います。
パパ、36歳、保育士アルバイトを始めました。
ちなみに保育士資格は国家試験を受けて取得しました。こちらが関連記事です。
最後までお読みいただきありがとうございました!
2025年にむけて良いお年をお迎えください。