“良い本”とは何か?
IT業界ではよく「おすすめの本ありますか?」「これが良いと思います」と言った会話や記事が見られる。Kindleのセールに合わせて”おすすめ書籍”を紹介するとインプレッションも取りやすい。
最近『プロダクトマネージャーのしごと』という書籍を読んで、あぁこれ良い本だなと思った。しかし同時に、こういう”良い本”って微妙だよなぁと思った。
”良い本”というものには、厄介な性質とでもいうものがあると思っている。この性質について思うことを書き記す。
厄介な性質:多くの場合、”良い本”とは短い時間で理解できることしか書かれてない
本に限らず、人が良いと感じるコンテンツ(映画でも何でも)は、その人が短い時間(早ければ秒、長くても数分)で分かる又は共感できることがほぼ必須の要件になる。そして人はそれをおすすめとして紹介する。
問題はこの時間にある。結論から言えば、短い時間で分かるということは、とどのつまり殆ど新しいことは伝わっていないのだ。人が新しいことを分かるためには本来それなりに時間がかかる。それは取り入れる知識の量に対して時間がかかるという話ではない。
新しいことを知れば知るほど逆に物事が分からなくなったり身動きが取れなくなったり、分かったつもりだったが実は分かってないことが後で分かったり、自分の価値観との対立が激しくてなかなか受け入れ難かったり、そういった営みを経て初めて人は新しいことが分かる。つまり時間がかかるのだ。
よく「実際にやってみて分かることっていっぱいあるよね」と人は言う。「やってみる」ことは、既存の知識を適用するだけではどうにもならなかったり、何か人や組織の対立が起きたり、身動きが取れなくなったりする問題や事象について、多くの時間をかけて考えることを人に強いる。「やってみる」ことはそのように考えることを強いるためのレバーに過ぎない。
ただ人生にはすべてのことを「やってみる」ほどの時間は無い。だからこそ人は書籍に頼る。しかしいずれにせよ、考えることは必要なのだ。考えるためのレバーが行動か書籍かの違いでしかない。そして考えることは必ず時間を要する。
例として分かりやすいのはX(Twitter)のハッシュタグだ。あれを使って何かイデオロギーを発信している人をよく見るが、これをリポスト(RT)しているのは、もともとそのイデオロギーに共感している人だけである。ハッシュタグが流行っているのを見て、元々共感していない人が何か考えを変えるということは殆ど起きないといって差し支えないだろう。むしろ内輪で盛り上がっているようにしか見えず、その輪に入っていない多くの人々からは反感を買う。だからSNSはエコーチャンバー現象を起こしやすい。時間をかけずに伝わることは、相手がすでに知っていることでしかない。
人が何か書籍を薦める際、多くの場合は自分が分かっていることがたくさん書かれているものである場合が大半である。しかし薦められる側の期待としては、その本を読めば自分が理想としている何かに一歩近づくというものだろう。特に現代は人々から考える時間を奪うビジネスが跋扈している。本を要約するサービスというものが近年で成立しているが、その背景には考える時間がどんどん無くなっている現状がある。
しかし実際には、その本をたかだか1回くらい読んだだけでは、殆ど何も新しいことは分からない。分かるのだとしたらそれはもともと知っていること、その時点では知らなかったがその本を読まなくてもすぐに知れたであろうことしかない。
このように、本を薦める人と、薦められた本を読む人には、大きなギャップがあるように思う。では薦められた側はどうするのか?
対処法:人を読む
その本を薦めてくれた人を読む
よくあるパターンとして、人にオススメの書籍を聞いたり、その書籍を読む際は、そのオススメした人自体に何か自分が理想とする特性や思想があるというものだろう。上司にオススメの書籍を聞く場合などがその典型だ。
そういった場合、本当に大事なことは対象者がオススメした書籍ではなく、対象者の思想を読むことになる。そう考えると、有効そうなアクションが思いつく。
なぜその書籍を薦めるのかを探る
シンプルに「なんでこれが良いんですか?」と聞く
自分が何を理解したのかを伝え、相手の期待と何がズレているのか、合致しているのかを探る
なぜその書籍を今・自分に薦めるのかを探る
その書籍を読んだ時期、理由、変わったこと、取り入れてみてどうなったかを聞く
このように、本を読むこと自体はただの通過点として捉え、その背後にある相手の思想を読むことが必要になる。よくビジネスマンとして高名な人が「デキる奴はその日のうちに薦めた本を読んで、次の日には感想を伝えてくる」と言うが、これには確かに合理性がある。1日ですぐ読んだところで大した発見はないはずだが、それでも薦めてきた相手に気に入られることは、その人を読む上でかなり重要なことであろう。
著者を読む
本来、本を読むというのは、著者を読むことを指す。論文を読むなら引用元も読んで、更にその論文が引用した論文を読んで(以下、再帰)という言説があると思うが、それと一緒である。
その著者の著作を全て読む
発刊された順に読む。著者の思想の変化を読む
その著者が引用していたり、影響を受けた別の著者の著作を読む
その後に、またその著者の著作を全て読む
ただこうした読み方に耐えられる書籍は少ない。それこそ論文や思想書といったかなりアカデミックなものでなければ、この読み方を実践できない、実践しても得るものが少ない。そしてそうした書籍がオススメされることは少ない。しかし何か書籍について著者以外の人が発表をするなら、それくらいはやってからにしようよと、と個人的には思う。
余談だが、近年文系への世間からのあたりは強い。その議論はよく「金にならないことを覚えてどうするのだ」vs「金になることだけしか覚えない人生は貧しい」という対立であると思う。しかし本来、文系が教えるべきは上記のような書籍の読み方、”分かる”とは何か、ということであるはず。しかしとうの文系も多読が大好きな「知識バカ」ばかりになっており、なんというか嘆かわしい。
不安になることから逃げたら、得るものはない
こうした本の読み方は、必ず不安や孤独を伴う。というより、考えるということは必ずこれを伴う。現実と理想のギャップに苦しんだり、他者からの反発に頭を悩ませたり、内容を理解できてない自分の問題なのか内容自体が間違ってるのか判別がつかなかったり、今自分が考えていることと真逆のことが書かれていたり、そうした困難を伴う。
こうした困難は非常にストレスがかかる。従って人は本能的にこれを避ける。そしてその結果、世界はSNSによるエコーチャンバーやファスト映画、本の要約サービスで溢れ、ますます人がこうした困難に向き合わないように進んでいる。Tiktokという、好きな動画を選ぶことすら億劫だという人に最適化されたサービスが大ヒットする現代に我々は生きている。自分が何が好きなのかを考えることすら、億劫なのだ。
しかし真に”分かる”ためには、この困難を乗り越えるしかない。Tiktokは新しいコンテンツを届けてはくれるが、その「新しさ」は自分がすでに知っているものにほんの少しだけ新しい要素を入れたものでしかない。サッカー好きにフットサルの動画をレコメンドするようなものだ。例えばサッカー嫌いがなぜ嫌いなのかを真に理解できることは決してない。
しかしもしあなたがサッカー愛に溢れているのなら、一サッカーファンにとどまらず、もっと多くの人をサッカー好きにすることに挑みたくなるだろう(給料とかそういう話はさておき)。そうなれば今サッカーが好きでない人のことを分からなければならない。心地よい内輪から外に出て、「サッカーなんて鬱陶しいだけだからやめてほしい」とった辛辣な言葉を投げかける人に出くわすかもしれない環境に身を置くしかない。自分自身はひたすら考えなければならない一方で、今サッカーに興味ない人は考えなくても一瞬でサッカーの良さが理解できるような伝え方、キャッチコピー、体験設計をしなければならない。このギャップを引き受けなければならない。
不安に挑む人は尊い。一緒に頑張りましょう
ということしか、もはや言えない。
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