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その道は一本 ~柔道が世界をつなぐ~ Vol.11 仙石常雄さん

43年前に初めて行ったインドネシアで貧しい家計を助けるために働く子どもたちに出会いました。その姿に、自身の幼少期の思い出が重なり、「ここの子どもたちに、かつて自分自身の人生を変えてくれた柔道を無償で教えようと決意しました」と語るのは、インドネシアの仙石常雄さん。15年前、バリ島に仙石インターナショナル柔道ホールを設立して柔道を指導する傍ら、『NPO法人 柔道で世界と手をつなごう育成クラブ』を通じて柔道衣や畳の支援、人々の往来等の支援を行っています。第11回の今回は、「互いを思いやることが平和につながる」という信念のもとで、子どもたちに柔道を通じて、相手の身になって行動することの大切さを伝える仙石さんにお話を伺いました。

教え子

貧しい家計を助けるために働くインドネシアの子どもたちに心を動かされ、彼らに無償で柔道を教えたい、と決意。

――仙石先生がインドネシアに住まれて何年になるのですか?

15年ですね。バリで道場を開いてから13年。その前、2年間はインドネシア市民警察活動推進のプロジェクトで、JICAからの派遣でお世話になりまして、その間にバリで土地を買って、道場を作っていたわけですけどね。

自宅と合宿所

――インドネシアの首都・ジャカルタからバリまではどのくらいあるのですか?

ジャカルタから800㎞ですね。飛行機で約1時間半。ジャワ島の一番端っこというか東側で、世界的な観光地です。日本から来ると自然がたくさんあって、ちょっと時間が止まったようなところです。日本のようにきちっとした時間なんかないので、一番困るのは練習時間。みんなが日本のようにきちんと来ないというのが問題ですけどね。

――インドネシアに最初に行かれたのはどのくらい前ですか。

1977年ですから、いまから43年前。国際交流基金という、日本の文化を知ってもらうために人を派遣するのがあるんですけど、それで柔道普及のために派遣されまして。2年間の約束でしたが、インドネシアからの要請で、少し伸ばして2年3か月。インドネシア全土を回って指導しました。

バリ島のケチャダンス

――1977年に行かれたときは、警視庁にお勤めだったということですが。

そうです。休職して派遣ということで行かせてもらいました。32歳のときですね。31歳で現役を引退して第3機動隊で柔道を教えていたんですけども、チャンスがあれば外国に出たいということで、恩師の醍醐敏郎先生に、外国で教えられるような国がありましたら紹介してくださいというお話をしていました。それで話がありまして、こちらに来ることになったんです。

――初の海外がインドネシアだったわけですね。

はい。インドネシアで各地方を回ったとき、その当時、いまもそうですけれども、貧富の差がひどくて、貧しい子どもがたくさんいましてね。小さい子どもたちが学校に行きたくても行けない。そういう環境のなかで、家族のためにたばこを売ったり、靴磨きをしたり、新聞売りをしたりしていたんです。そうやって家族を支えている小さい子どもを見て、やはり感じるものがあって、この子たちになんとか柔道を教えたいという夢をもらったんですよね。退職したらこの子たちに無料で柔道を教えるんだという夢を。それをずっと、日本へ帰ってからも温めて、いまここに実現しているということなんです。

弁当

――インドネシアから帰られてからも、何度も海外へ指導に行かれたそうですね。

帰ってから講道館の指導員になってくれという話がありましてね。そこで出会ったのが高田勝善先生。もう亡くなられましたけれども、その方に可愛がられ、形で柔道の普及発展をしたいと活動されていた。高田先生の付き人のような感じでいろんな外国へ連れていっていただいて。22か国くらい行きましたかね。

着任当時

柔道を通じて、子どもたちの「思いやり」や「互いを尊重する気持ち」を育てたい。

――いろいろな国に行きながら、いずれはインドネシアに行くという思いを募らせたわけですね。

そうです。自分なりにできることをやりたいと。日本の柔道を通して、日本の良さを伝えたい。文化や習慣は違いますが、ここで毎日、子どもたちに口が酸っぱくなるほど、繰り返し指導しています。日本の良さというのは、相手の気持ちになる、相手を思いやることですね。日本独特の思いやり、この気持ちが一番大事じゃないかと。これによりみんなが友だちになり、平和になるんじゃないかと私は思っています。嘉納治五郎師範は、柔道を教育として教えたわけですから、それを私なりに理解して、師範の足元にも及びませんけれども、その教えを守って子どもたちに継承していきたいと思っています。

教え子の表彰

――柔道を習い始めたことで、子どもたちに変化はありましたか?

物凄く変わりましたね。こちらは日本と違って、一番大事な人と人との付き合いやマナーといったことをあまり学校とか家庭で教わっていないように感じます。ですから、うちの道場は礼法を重視して、まず道場に入るときは礼をし、畳の上に上がるときには、靴やスリッパを「出船」に揃えて上がると。「出船」というのは、船が港に入って、急きょ出なきゃならないときに、すぐに出られるよう、舳先を海のほうに向けておくんですよね。それと同じで、地震とか何かあったらすぐに靴やスリッパを履いて逃げられると。裸足で逃げてもいいですけども、ガラスとかで足を切ることもありますからね。そういう理由を子どもたちに教えています。初めはまったくできなくて、私の道場は周りが田んぼですから、田んぼにそのスリッパをぶち投げました(笑)、かわいそうですけどね。でも、いまは誰ひとり靴をバラバラにして入る子はいません。だから日本から来た人は驚きますし、逆に日本の人が畳に上がるときに出船にしないと、子どもが来て「先生、あれ田んぼに投げろ」と言われます(笑)。そういうときは「そうじゃなくてあの方は柔道を知らないから、あなたが揃えてあげなさい」と、子どもたちにはそういう指導をしています。
やはり日本独特の、相手の身になるというか、気遣いですよね。礼もそうですけども、お互いに尊重し合うということが平和に繋がるわけですから。いがみ合っていると戦争になってしまいますよね。そういった意味で、とにかく子どもたちには礼をきちんとさせています。この子たちを、インドネシアのため、将来のために役立つ人間に育成するというのが私の目的で、チャンピオンを作るのが目的ではないですから。とにかく礼法と、日常のマナー、そういうものを教えています。

サンダル

――インドネシアにおける柔道の競技人口は?

競技人口は1200人ぐらいしかいません。柔道人口は15,000~16,000人ですかね。選手といっても、日本のようにガツガツはできないですよ、常夏の国ですから。暑くて練習は2時間が精一杯。本気でやっていたら、脱水症状というか、身体を壊しますね。気候が違いますから、日本の3倍ぐらいの太陽エネルギーがありますので、体力の消耗が激しいんですよ。

貧しい家計を支える母の言葉を受けて、柔道を続けてきたことが、自身の人生の道を拓いた。

――日本とインドネシアの柔道の違いは?

こちらは体力的な部分が弱いと感じています。食事の問題もありますね。やはり宗教が絡んでくるんですよ。ここは95%ぐらいがイスラム教で、イスラムは豚肉を食べてはいけない。牛肉とか鶏肉とかヤギはいいんですけど、豚肉はダメ。逆にバリはヒンドゥー教ですから、牛肉はダメで豚肉はいい。でも、裕福じゃないですから、一般の人たちは1か月に1、2回肉を食べられるかどうかくらいの生活をしています。スポーツ選手に必要なたんぱく質が少ないですね。身体の大きい人も少ないです。

伝統行事(お彼岸)

――話は変わりますけれども。先生はバリ島に仙石インターナショナル柔道ホールを設立されたわけですが、作るのは大変だったんじゃないですか?

普通であれば、お金を渡して頼んでも持ち逃げされることが多いんですよ、こちらでは。ひとつの博打みたいなもんです。心のなかでは、持ち逃げされたらどうしよう、本当にできるだろうかと不安でした。でも、43年前に教えた弟子たちが各州にいて、彼らが全部やってくれたんですよね。だから、このように素晴らしい道場を作っていただいたというのは本当に感謝、感謝ですね。

道場

道場2

――ところで、福島出身の仙石先生がなぜ警視庁に。

いま思えばすごくラッキーなんですね。話すと長くなるんですけど、私は家が貧しかったから中学を出たらすぐに少年自衛隊に入って家計を助けたいと思っていたんですね。ただお袋に話したら「これからは学歴の時代だから、なんとか頑張るから高校だけは行きなさい」と言われて。私は7人兄弟の末っ子だったんですが、母は毎日重い荷物を背負って行商をしていて、その苦しみや悲しみを知っていました。でも、幼い頃からお袋の言うことは絶対でしたから、高校を受験して。「自衛官になるんだったら、柔道をやれ」とお袋に言われて柔道部に入りました。でも、受身のとれないうちから投げられることもありました。それで家に帰って「あんな野蛮なのはやらない」と言ったら、「一度やると言ったら最後までやるのが男だぞ」と言われて。それで私も反骨心がありましたから、「やってやろうじゃないか」と、それで、柔道を続けたのがきっかけでいまの自分がいるんですよね。
高校時代、会津大会で優勝したり、東北6県対抗大会で優秀選手賞をもらったりして、大学とか企業からの勧誘もあったんですけど、お金をもらいながら柔道ができるのはどこかと考えて、警察官になろうと。福島県警からも勧誘が来ましたけど、華の東京に憧れて、警視庁の試験を受けました。その年は1964年の東京オリンピックに向けて警備増員をしており例年よりも多くの採用枠がありました。そして、警視庁に決まりました。
交番勤務はたったの2年間で、あとは機動隊に入り、柔道を教える教官を育成するための武道専科に入りました。で、入った途端、ラッキーなことに、東京オリンピックから体重別に変わったことで、警察大会も体重別になり、そこで私も参考特練に配属されて、そこから警視庁で稽古をさせてもらい、全国大会に出場したり、手柄をたてたりして、現在の自分があります。いま思えば、お袋の「柔道をしなさい」という一言と、1964年に東京オリンピックがあり、そのオリンピックのために警察大会も体重別になったというのが私の人生の分岐点だったと思います。

警視庁時代に個人戦初優勝

43年間の指導を振り返って感じるのは、多くの人に支えられてきたということ。

――いま道場では何人くらい教えていらっしゃるんですか?

いまはコロナでやっていませんけれども、だいたい平均50人から70人ですね。それはもう賑やかですよ。ほかの道場からも練習に来たり、合同稽古に来たり、いろんな人が来ます。

道場3

――先生がバリ島に行かれて、ご家族はどんな感じなのでしょう?

家内には足を向けて寝られないほど、すごい感謝ですね。柔道衣や畳を集めるために『NPO法人 柔道で世界と手をつなごう育成クラブ』を設立して、いろいろな活動をしてもらって。そういう意味でも家内には非常に迷惑をかけて、もう13年になるんですけども、家内ももう年ですので、最近は日本に帰ると、「道楽もいい加減にしなさい」と言われています。私も「それはごもっとも」ということで、家内にはとにかく頭が上がらないですよ(笑)。

ゲストハウス

――海外で長年指導されて、苦しかったこと辛かったことはありますか。

苦しいことは……ないですね。いまの私にとって、柔道は最高の喜びです。というのは、43年前に教えた子どもたちがいま一番働き盛りで、インドネシア柔道協会のトップにも立っていて、彼らが私を補佐してくれる。私はバリ島で子どもたちと一緒にのんびりと老後を過ごしたいという気持ちでいるんですけれども、彼らとしては、恩返しをしたいのか、私をインドネシア柔道協会の名誉顧問で扱ってくれる。そして、各種大会があれば招待してくれる。行けばみんなで集まって食事会あるいは昔の話をしてくれるということで、すごく恵まれた環境におります。そういった意味ですごくありがたいと。やはりそれも柔道をしてきたおかげです。柔道に感謝するとともに私の教えた子ども、弟子たちが、人を大切にするという私の教えを覚えていてくれていたことが本当に嬉しいですね。

教え子の表彰2

――海外に行きたいと考えている若者に何かメッセージがあれば。

日本にいると、それが当たり前という感覚でしょうけど、日本から出た場合、必ず日本の良さ、日本ってすごいなと、素晴らしい国なんだなということがわかります。そして外国で苦労したことは必ず役に立つものだと思います。私の経験上、やっぱりどんどん海外に出て、日本の素晴らしさを全世界に広めて、伝えて、そして日本の良さを、子どもたちあるいは次の世代に伝えてほしいと思います。

【プロフィール】仙石常雄さん

プロフィール

仙石 常雄(Tsuneo SENGOKU)
生年月日:1945年2月16日生まれ
出身:福島県
12歳から柔道を始める
福島県立西会津高校→警視庁
コーチキャリア:警視庁柔道指導室 柔道師範→警察大学校 術科教養部 助教授→講道館指導員、講道館技研究員。国際交流基金の派遣によりインドネシアで指導(1977年~1979年)。その後、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカなど世界各地40以上の国々で柔道を指導。JICA専門家としてインドネシアに再び赴任(2005年~2007年)。「仙石インターナショナル柔道ホール」で指導(2007年~現在)。
居住地:インドネシア(バリ島)
「仙石インターナショナル柔道ホール」師範。全日本選手権大会審査委員。全柔連国際委員会在外委員。
インドネシア市民警察活動推進プロジェクト教育訓練 専門家。NPO法人柔道で世界と手をつなぐ育成クラブ。
受章歴:瑞宝双光章、外務大臣表彰。

【#全柔連TV】インタビュー動画


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