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雑記

忘れないための忘備録として、感じたことをざっくり書き出してみます。


◉日本人みんな、もっと自分のままでいいのにね。
と、思うと同時に日本人の秩序を重んじる姿勢は非常に尊いものであり、
私はそれが「ある程度」ある環境が心地よく、生きやすいのだと分かった。
そうは言っても、もう少し自由に生きたらいいのにね。

◉舞台とか、芸術には分布図のようなものがあって誰もがそこに属している。関係がないし、興味がなくても「属していない」という形で属している。存在するには適正な量や、適している地域がある。
そして、それは「文化芸術」だけにとどまらずその外側にも、我々が生きる上で必要なことがさらに複雑に絡み合って、関係性を形作っているのではないか。

◉舞台は決して娯楽ではない。
しかし、心に余裕がないとその豊かさを享受することはできない、
ということを身をもって実感してしまった。

お金に余裕のある人、気持ちに余裕のある人、の、ためだけのものになってはいけない。決して。
でも、文化芸術の豊かさ、面白さ、美しさ、そして触れることで得られる感動や充足感は自分の置かれた状況に、ある一定の安定やもしくは安心がないと感じることはできない。
だからこそ、その「分布図のその外側」にある他分野において心身の安心、安全が守られてこそ享受できる。
3.11やコロナ禍を経て、分かっていたことではあるけど、実感として。

◉その上で、文化というのもは人を繋ぐ力を持っている。ということも更に実感。国境も肌の色も年齢も、性別も人種も、置かれた状況も。
ロンドンで見たカオスなショーが楽しかったのも、アヴィニョンで見た静かな舞台に感動したのも、ウィーンで見た超絶技巧にすげーってなったのも、全部そこにいた人たちと共有できたこと。
面白かったよね!って、ニコニコできたのは言葉もなく、共感できた証。

◉あとは、その魅力を楽しむためには自分の中にそのための基礎が必要ということ。その基礎を作るための時間が持てること、そのためのある種、「教育」も我々の仕事。観客を育てる、ということ。
それも知っていたことではあるけど、それが実践された上の人々の楽しみ方、参加の仕方に衝撃。

◉世界がある種均一化されて行っている感覚。
日本も地方では均一化が進んでいる。どこにでも、でっかいイオン。
幹線道路には同じようなチェーン店。

お店のことだけではないけど、どこへ行っても同じような感覚。
スマホがあって、Googleマップがあれば、誰でも不自由なく移動できてしまう。それは、とても便利なことで自由を手に入れた一方、寂しいことではあるし、何かが失われていっている気もする。

例えばすごくちょっとしたことで言うと、着信音が今や誰も彼も、同じ。

◉劇場に入るときはかならず荷物検査と場所によっては身体検査。

◉人間が生きている環境は確実にその人の人格形成に関係するし、その人生にも影響を来す。だから、違う環境で生まれ育った人と本当に分かり合うことは突き詰めて言えば、不可能。
これは長野で暮らしてても思うこと。
まあ、本当に相手を理解することなんて、家族だってパートナーだって、そもそも無理だしね。
その上で、どんな形でお互いを理解する努力をすることができるのか、歩み寄れるのか、が、大事。

◉作品の強度はヨーロッパとか日本とか、都心とか田舎とか関係ない。
いいものは、いい。ただ、ヨーロッパは下地が、支えるための創作するための環境の下地が違う。ので、基礎の充実度は圧倒的に違う。

◉長野の自然の豊かさは世界に誇れる。

◉クラシック音楽やオペラは(勝ち負けではないのは重々承知)ヨーロッパには勝てないし、本場でこその良さというものは確実に存在する。
まず、環境的にいい音で聞けることは間違いないわけだし。
それでも、日本人が、日本で、やりたいし聞きたい。

◉私は、都会ではやっぱり生きられないんだなと思うと同時に、逆の意味になるけど、案外どこででも生きられそうだなとも、思った。

◉あらゆることに対する差別は、日本で、今私がいる環境でこそ問題にされそれを取り除くための努力がなされてきているけど(ないとはいわない)全く問題にもされておらず、解決すために何もされていない環境がまだまだあると言うことを実感。

◉神奈川の生まれ育った町は、やはり故郷だったんだと確認。
上田には「帰ってきた感」がそんなにないことがちょっと不思議だった。
遠出をして、地元の駅に辿り着くときは、ああ〜帰ってきた〜!!帰ってきてしまった〜!!って感じがするんだけど、上田の駅に降り立ったときは「また、来た」って感じで、戻ってきた感がそんなになかった。
やはり、故郷だからこその感覚だったのだと確認。


今のところはそんな感じ。




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