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在米30年の英語力


 2度の留学を入れたら、在米期間が30年を超えました。昔、夫の両親の在米歴が30年というのを聞いて目を白黒させたことを考えると、感慨深く感じると同時に、自分も日本からそれだけ遠くなってしまったのだろうかと、切ない気持ちになります。




 私の住んでいる西海岸には、私のように若い頃こっちに来てそのまま居座っているという日本人が多いので、ほかの人も似たり寄ったりだと思うのですが、30年経っても、アメリカ生活でいまだにネックなのは英語です。日本の人から見ればペラペラ喋っているように見えると思いますが、その「ペラペラ」は自分の母国語のレベルにはおよそ程遠く、フラストレーションを感じることが多いのは否めません。



 まず私の場合、壊滅的に分からないのがイギリス英語と黒人英語です。見たい映画があっても、舞台がイギリスだったり黒人キャストが多かったりすると、配信が出るまで待つか……と涙を飲みます。配信だと字幕があるからです。同じ理由で、機内で映画を見るのは旅の楽しみの一つです。先日、『母の待つ里』というNHKのドラマを見たのですが、かなり強い岩手弁を見事に操る宮本信子に見入りながら、おそらく英語ネイティブの夫や子供たちは、イギリス英語も黒人英語もこんな感覚で聞けているのだろうなと思った次第です。



 それから、PTAの会合などに行くと、財務報告などの経済用語がチンプンカンプン。これは、車の整備士さんの説明に「ああっ!もう必要な修理は全てやっちゃってください!」と言うしかないのと同じで、その分野の知識がないと、とっかかりになるものがまるでないのです。反対の良い例が学会やコンファレンスで、あまり英語が流暢ではない学者さんが英語で活躍されていることです。おそらく専門分野に関しては、英語でもそれなりに勝負できるのだと思います。


 あと、犬の散歩中に道路の反対側の歩道を歩いてくるご近所さんから声をかけられた時や、レジで注文に関係ない軽口を投げかけられた時など、何の脈絡もないところから不意に話しかけられた時です。会話モードで向かい合っている時だったらなんということもない内容でも、遠くからとか雑音に紛れて、不意打ちで投げかけられる言葉は、必ず聞き返すことになるか、あるいは恐らくどうでもいいことだろうと踏んで、適当に笑って「Have a nice day!」と誤魔化し、夫や子供に「今の何て?」と聞くことがほとんどです。


 それから長いレクチャーなど、内容は理解できているのですが、とにかく頭に残らないのです。聞いたそばから忘れていく。これは学生時代からそうなので、老化現象ではありません。おそらく、アメリカで初めて見たものや新しく習得した概念であったなら、言葉が具体的にビジュアル付きで脳に送信されるのでしょうが、英単語を聞いてもそれに呼応するビジュアルイメージが湧かないと、インパクトを持って脳に送信されないのだと思います。


 もちろん、こういう不便を日々感じているわけではありません。それに気づくのは、日本に帰省している時です。電車の中で後ろの人の雑談が耳に入ってきたり、見てもいないテレビの音が耳に入ってきたりする時、日本語だと、自分の中の「聞くスイッチ」がオフでも、自分を取り囲む全ての単語が理解できるのだなぁと思うのです。そして、ぼーっとしていても耳から入ってくる音が理解できるって、なんて楽なんだろうと。上に挙げたような事例は日本でも度々あるのだろうと思うのですが、日本語だと、少なくとも聞き取れないのは自分の言語力のせいではないので、自尊心へのダメージがないのです。これも、非常に気楽。



 語学レベルは環境によるので、配偶者が英語しか話せない人で、家庭内の会話は100%英語だとか、職場が完全に英語環境だとか、逆に、我が家以上に日本語環境が充実しているとか、そういう条件にもよると思います。我が家は、夫も子供も日本語を話せるので、家庭内はほぼほぼ日本語。四六時中英語に囲まれているという環境だったら、もっともっと鍛えられたであろうと思います。



 自分の語学レベルに満足しているかどうかは、verbalな人間であるかどうかにもよります。つまり、考えていることを常に言語化するタイプか否か、また、コミュニケーションを言語に頼る比重が大きいかどうかによると思うのです。たとえば、旦那さんと第一言語が違っても、二人とも物静かなタイプであれば、あまりフラストレーションは溜まらないのだと思います。問題は私のようなおしゃべりです。言語で考えて言語で自己表現したいタイプが、母国語と同じレベルで表現できないのは、かなりのストレスです。



 そんな感じで、英語力はどう見ても頭打ち感のある私ですが、最近、意外な発見がありました。別の記事でも紹介しましたが、90歳の日系人女性のライフストーリーを動画にしました(下に添付)。母が、英語だから分からないと残念がったので、和訳を添えることにしました。訳すと言っても、自分が書いた英文なので容易い作業だと思っていたのですが、これが意外と手こずったのです。英文の和訳はよくやりますが、人の文章を訳す時となんら変わらなかったのです。それはきっと、私が英語脳で書いた文章だったからなのです。上達、してなくもないのかな……?なんて、ひとり密かに誇らしく感じた出来事でした。






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