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SNSの異口同音コメント



 近所の友人、H夫婦が、里親(フォスターペアレント)として15歳のベトナム人女児を家に迎えました。彼らには実子が3人いますが、敬虔なクリスチャンである彼らには子供が授かる以前から、里親及び養子制度で親のいない子供を家庭に迎えたいというビジョンがありました。



 里親となるのは今回が初めてではなく、これまで2、3人の子供を迎え入れてきました。里子の背景はさまざまですが、親権保持者が薬物使用や犯罪などで養育力を問われ、保護されるといったケースが多いようです。H夫妻が関わってきたケースでは、実の親が刑期を終えたり治療やリハビリで養育能力を回復したと公の機関から認定されて、元の親権者に戻りました。



 今回、数年ぶりに里子を迎えることになった事をHがフェースブックに告知すると、瞬く間に何十人もの人が、


神の祝福あれ!

とか

素晴らしい!

とか

あなた達に迎えられる里子はなんと幸せなことよ!


とか異口同音のコメントを寄せたのでした。もちろん私も同じ事を思いながらも、同じ内容のコメントを入れるのを躊躇いました。そして、こういう戸惑いを、SMSが生まれるずっと前にも抱くことが度々あった事を思い出していました。


 私は中高一貫の女子校の出身です。共学と比べて違いがあるのかないのか何とも言えないのですが、私がどうも苦手な場面が多々ありました。それは、アクシデントで誰かが転んだり身体のどこかを打ったりした時、多くの人が大丈夫?大丈夫?と言ってその子に駆け寄り、取り巻く場面です。



 心配な気持ちはもちろん私も同じ。事故時に私が側にいたのであれば、必ず駆け寄ります。けど、そうでない場合、私が取り巻きに加わる必要があるのか?助け起こしてあげる人、保健室に連れて行く人、絆創膏などで応急処置をしてあげる人、大人の助けを求める人などが必要としても、必要なのは多く見積もっても3、4人なのに、必要のない人が行くのは、「私もみんなと同じように友を思いやる優しさがある」というアピールなのではないか。つまり、自分のためなのでは?と思ってしまうのです。自分が直接役に立てるのでないなら、落ち着いてから個人的に「さっきは大丈夫だった?」と聞くので充分ではないかと。


 今回のHへのフェースブックコメントも、何十人もしているコメントを繰り返すのは、自分の意識の高さとお友達アピールではないかと思ってしまうのでした。


 ただ、例外はあります。大切な人を失った友には、異口同音になろうとも、必ず声をかけます。それは、できるだけ多くの人が心を寄り添わせる必要があると思うからです。

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