差別の線引き
2、3年前に、とある児童書が出版停止になりました。日本のかこさとしや中川李枝子のように、アメリカでは何世代にもわたって親しまれてきたドクター・スースという作家による『マルベリーどおりのふしぎなできごと』です。理由は、挿絵の中国人の描写が差別的だということだそうです。
たしかに、黄色い肌や細い目、いつの時代のものかも分からない民族衣装がステレオタイプ的であることは弁解のしようがありません。しかし、ドクター・スースの作品は概ね想像力と優しさに満ちているので、私にはその絵が作品自体を出版停止に追い込むほどの問題とも思えず、残念というのが正直な気持ちでした。
たまたま時を同じくして、ロサンゼルスの会員制社交クラブで娘が演奏をする機会がありました。庶民の私がそこに足を踏み入れる機会など一生ないと思われるので、なるほど、こんな世界があるのね……と、デコラティブな高い天井や豪華絢爛な調度品を片っ端から鑑賞していたのですが、あるものに目が留まりました。それは、ビロード張りの椅子に置いてあったクッションでした。そこには、いにしえの中国人と思しき人物が刺繍されていたのです。
ドクター・スースの中国人がアウトで、このクッションの中国人をセーフとするその線引きは何であるのか、よく分からないと思いました。写実的絵画であれば何の問題にもならないはずですが、このクッションの絵は写実ではありません。シンプルな線と彩色は、ドクター・スースの中国人と同じようなものです。コミカルならダメで、牧歌的なら良いのか?差別的であるとする判断基準はどこにあるのか?
それからかなり月日が経った頃、他州へと向かう機内で、見たい映画も特にないので、それまで観る機会のなかった名作を観ようと、『ティファニーで朝食を』を観ることにしました。「さてと、美しいヘップバーンでも愛でようか」と完全に無防備でいたところへ、思いもよらず不愉快極まりないものが目に飛び込んできて、頭にカッと血が上りました。
それは、丸眼鏡に出っ歯の小柄な男でした。さぁ、皆さん、彼がこのお話のお笑い担当ですよと言わんばかりの派手な登場の仕方でけたたましく現れたその男は、日本人風の名前で呼ばれていたのです。
その時、私は悟りました。差別の線引き、それは、誰かが嫌だと言えば、それは差別的である、ということです。
私が会員制社交クラブで目にしたクッションにどこか不快感を感じたのは何故か。それは、それがアメリカの会員制クラブという、おそらく富裕層の白人が利用者のマジョリティを占める場所だったからです。それがミュージアムのような、中国文化を讃える趣旨の場所であったら、違和感を覚えなかったでしょう。そうではなく、中国“風”の描写が、あくまでも白人に優越感を与える材料として使われていたからです。私は中国人ではありませんが、長らく“エキゾチック要因”とされてきたアジアの一員として、違和感を感じたのです。
こういうことを言うと、「勘弁してくれ。何もかも差別だ差別だと切り捨ててたら、文化はなくなる」と、いわゆる『キャンセルカルチャー』だと反論する人もいます。それもよく分かります。自分が慣れ親しんでいた古典や古い映画などが今の視点でこき下ろされるのは面白くないものです。私だって、幼少期から大好きだった『オズの魔法使い』があらゆるハラスメントの産物であることが明るみになり、昔と同じ気持ちで楽しめなくなったのが残念です。
けど、当人から不愉快だと訴えられて謝罪したり対応策を考えるということは、人種間でなくても、個人レベルでもやっていることなのです。
例えば、30年前、姉に第一子が生まれた時、彼氏(現夫)から、「おばさん!おばさん!」と言われて、うら若き私は傷つき、「おばさん」と言われるのが嫌なことを彼に訴えました。私は彼より3つ歳上で、それを少なからず気にしていたのです。そんなことは思いもよらなかった彼は、そこで初めて、私に向かって年齢ネタはアウトであることを知ったのです。
その人が何を気にしているのかは当人にしか分かりませんから、「それ嫌なんだよね。傷つく」と言われたら、「そうだったんだね」と、慎むほかはありません。そこに、「なぜ?」「どうして?」はないのです。差別問題に関して、「キャンセルカルチャー」だと逆ギレするところには、そのような個人レベルの配慮や思いやりが欠けているのです。
「それ、嫌なんだよね」
「そうだったんだ」
のやり取りは、気まずいし面倒でもあるのですが、やはりそれなくしては、円滑に共存していけないんですよね。
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