文法教育の効用について:大学の韓国語教育①
多くの人にとって、大学という象牙の塔で行われている韓国語教育に興味も関心もないでしょう。ですが大学の韓国語テキスト執筆者は市販の韓国語関連の教科書や参考書も書いたりしますし、大学の講師がカルチャーセンターで教えることもあります。
ですから、大学での教育が変われば、業界も変わってくると思いますし、この業界でやっている事がこの業界の縮図でもあり、良い意味での変化はその業界の未来でもあると思います。
今の韓国語業界が抱える諸問題について考えるため、今回は授業方針や授業計画を記した大学の「シラバス」を見ていこうと思います。
大学のシラバスにある2つの型
第2外国語は、教養科目として設定されていることが大半です。まずは、「教養としての外国語」のシラバスから見てみましょう。初秋者の授業目的はざっとこんな感じです。
大学の進学率は18歳人口の半分を超え、大学のレジャーランド化が叫ばれて久しいですね。大学の韓国語履修者に韓国語を学ぶ理由を尋ねれば、「KPOPが好きだから、旅行の時に使いたいから」という返答が8割以上という研究調査もあります。
一方で、研究大学の旧帝大の韓国語のシラバスの授業方針はどうなっているのでしょうか。
全ての研究大学のシラバスがこうなっているかどうかは知りませんが、少なくともこのシラバスは、「知的営為のための学問の基礎」とあるように、「アカデミズムのための外国語学習」を意識して書かれていることが分かります。
令和の時代に「こんなことを言える大学があるんだ」と教育大学に務める私は感心しましたが、一方で、実はこれはこれでかなり誠実なシラバスだといえるのです。
アカデミズムのための外国語:研究者の発掘
外語大時代に、K先生から韓国語を教わった、恐らく最後の方の世代だった私の体験から言えば、平成初期の外語大の教育は親切なものではなかったです。外国語好きの学生を集めても苦戦する世界でした。
詳しくは↓
しかし、国立大は研究者を養成する機関でもあるわけです。今では旧帝大の先生でも「教育」にも力を入れ始めていますが、研究者の世界には「職人の徒弟制度」にも近いものがあるのです。
一昔前の大学院は、100人のうち1人(=大学院に行って研究する弟子)を探し出せればいいわけで、そもそも全員をできるようにする必要がない。3年に1人ぐらいのペースで、自分と議論できるようなレベルの「天才」(もの好きとも言う)を発掘するために、「学部生に授業してやっている」といっても過言ではなかったのです。
といっても今は、大学院に「入っていただく」時代なので、私の先生は大変優しくスマートでした。私の時代は大学院の定員を大幅に増やした時代でしたので、先学とは志や知性が天地の差だったことでしょう笑
これは外語大の元教授N先生の体験談です。
N先生の体験談から、大学院が「徒弟制度」であったことがよくわかりますね。かつての象牙の塔の外国語教育は、教えなくても分かる「天才」と、文法を習得して原書20冊が読める「秀才」のためにありました。それ以外の圧倒的多数のやる気も努力も十分でない学生は、「討ち死」にしていたのです。笑
これが大学というアカデミック業界の外国語教育のプラットフォームです。
さあ次は、N先生の師匠K先生のブログです。
先に徒弟制度の厳しさを強調しましたが、一方で、それだけ真摯に学問に向き合っている人達だということなのです。学部時代にK先生に呼ばれて研究室を一度訪ねたことがあります。朝鮮語の専門書以外にロシア語の本もずらりと並んでいました。専門外のことにも、知的敬意や情熱を傾けられる方々なのです。
「簡単に分かりやすく」「旅行で使うために」「KPOPを楽しむために」「Kドラマを字幕なしで見るために」といった言葉が、多くの彼らにとっていかにどうでもよく、耐え難いか、理解できなくもありません。外国語をアカデミズムで使用するつもりの方々は、まずは「論文を原語で読めるようにする」が第一目標になるからです。
アカデミズムのための外国語:本を読めるようにする
私が信頼を寄せているフランス哲学の研究者(言語研究者ではない)がこうつぶやいていました。
20冊という書籍の多さに当惑している人もいるかもしれません。ですがおそらく、このやり方をすれば、本当に読めるようになると思います。文法マニュアルを隅々まで読んで理解したり単語を暗記したりするよりも、慣れてしまう方が効率的です。
4の5の言わずに「原文を読め」ということです笑。
おそらく3冊まではかなり時間がかかることは覚悟して下さい。20冊に到達する頃には、辞書なしでも読めるようになっているはずです。
ちまたの語学教室では会話を教えるのに、大学教育ではなぜ文法を中心に教えるのでしょうか。アカデミックの世界ではインプットが最も大事です。大学院からの学びに、教科書やマニュアルはありません。読むべき本や論文を自ら選び、それらをひたすら読んでいくしかないのです。そのためには、「異文化に自らアクセスするための道具」が必要です。その際に頼りになるのが文法なのです。これは、昨今の外国語業界で進められている「オーラル・アウトプット教育」とは正反対の行為です。
ただ、外国語の文法知識以上に大事なことがあります。それは、「専門」に関する知識です。経済学、政治学、歴史学など、自分の専門に関する知識があることが前提です。もちろん、概念を外国語のまま入れるのも手ですが、幸いにも多くの分野の重要書籍を先人達が翻訳しているので、日本語で概念を学ぶことができます。その概念が頭に入っているなら、外国語になっても、ただ言葉を入れ替えるだけのことです。
大学の語学授業で「文法」を叩き込むのは、カリキュラム終了後に「自分で本を読めるようにせよ」という、レジェンドたちのメッセージなのだということです。そこが、民間の語学教室との違いです。
この「アカデミズムのための外国語学習」を普通の人の学習に生かすなら?
やはり「本を読む」アクションをせよということです。
え? いきなり本を読むなんて絶対に無理?
そうですね、今のカリキュラムのままだと難しいと思います。「4技能バランス良く」に時間を割いているからです。
上記のつぶやきの筆者は、「時間が無いのだから、読解に特化せよ」とも言っています。地域研究の研究者は、本を読んで異文化を理解することが第一義です。なので、美しい発音だの、ネイティブっぽいこなれた表現だのといったアウトプットの技法は、ショートカットすべきだと言っているのです。「時間は有効に使え」です。
どんな本を読むべきか
さあ、ではどんな文を読んだらいいのでしょうか?
ずばり、あなたの「専門」に関するものを読むべきです。いろんなジャンルにあれこれ手を広げる必要はありません。それは、のちのちすればいいのです。ジャンルを絞ることで、登場する語彙が限定されます。
研究者じゃないから「専門」がない? いえいえ、とんでもありません。「推し」や「好きな作品」に関する知識も、立派な専門知識です。
BTSが好きなのであれば、BTSに関する韓国語の芸能記事やブログを読めばいいのです。検定試験の過去問、リーディングのための参考書などを読むのは、遠回りだということです。自分の関心とは関係のない文を読みあさる乱読を「スタディー韓国語」では行いがちですが、「アカデミズムとしての外国語学習」でも、あらゆる分野の専門書に手を出すことはしません。まずは自分の専門分野に限定するべきです。
SNSも文ですが、こちらは口語体なので語尾周りの処理が高度です。シナリオや小説の中のせりふも同様ですね。口語体の文は、一般的な文法知識だけでは太刀打ちできません。ペラペラ会話を目指した学習に文法を持ち込むことがありますが、口語体の文法事項を体系化した研究業績や参考書は今のところまだありません。韓国語言語研究の大家である野間先生がそうおしゃっています。なので、ノーマルな文語体で書かれた文が、「読む練習」には持ってこいです。
あなたの「推し」に関する記事であれば、専門知識はバッチリだと思うので、「読む」ことに集中できます。専門知識や目標言語の血肉となる背景文化、レアリアがいかに重要かは既に述べましたね。
むしろこちらは細かい文法よりも大切かもしれません。
自分の「知らないこと」が詰め込まれた文、たとえば韓国事情・文化に関するコラムは、文の目的が「新しい知識や語彙を入れること」になっています。「読むこと」と「知識・語彙を注入すること」を並行させることは、良く言えば「一石二鳥」ですが、悪く言えば学習者の脳に負担をかけています。ある程度「知っていることが書かれた文」から、まずは取りかかりましょう。
文法学習の後にするべきこと
文法教育を受けた後にするべきことは、ずばり「本を読むこと」です。逆に言えば、文法教育は、自力で本を読めるようにするためのカリキュラムであるべきです。文法を教えただけでいきなり「自力で本を読ませる」のはさすがに不親切ですから、「短い文を読む」「パラグラフを読む」「複数のパラグラフを読む」といったステップを踏ませることができるでしょう。
大学でも既習者向けに「読解(精読)」の授業を行うことがあります。あれこそ「本を読めるようにするための学習」ではありますが、やたらに丁寧で正しい精読は、「本を読む」という目的から外れていると思います。「本を読めるようにすること」より、「精読」そのものを目的にしてしまっているからです。「正しく翻訳すること」と「ざっくり大意を掴む本を読むこと」とは別ものだと考えましょう。
「文法を学ぶ」のは、その後に「自力で本を読む」ためです。
ここで大いなる矛盾に気付きませんか?
文法学習をした多くの人が、「本を読んでいない」のです。
実はそこが大きなズレなのではないかと思います。今後「本を読む」気がないのなら、文法をそこまで必死に学ぶ必要もないし、逆に文法を学んだなら、単語の暗記などしていないで、「本(文)を読みなさい」ということです。作文にも文法の知識は実用ですが、文語体の文章をどれだけ書くのでしょうか?
文法知識は「読む」ためにあることがお分かりいただけたでしょうか?
次回は、「アカデミズムのための外国語」ではなく、もう一つのシラバスの型「教養のための外国語」について考えていきたいと思います。